詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

虫武一俊『羽虫群』

2016-07-02 10:44:00 | 詩集
虫武一俊『羽虫群』(書肆侃侃房、2016年06月20日発行)

 虫武一俊『羽虫群』は「新鋭短歌シリーズ」の一冊なのだが。
 これが短歌なのか、と驚いてしまう。

少しずつ月を喰らって逃げている獣のように生きるしかない

 巻頭の一首。たしかに「五・七・五・七・七」という「音律」は「短歌」のものなのだが、どうもおかしい。「歌」になっていない。「声」がことばの向う側から、こちら側に響いてこない。

生きかたが洟かむように恥ずかしく花の影にも背を向けている

 これは二首目。これも「五・七・五・七・七」ではあるのだが、それは「数えてみて」はじめてわかること。「歌」のリズムではない、と私は感じる。少なくとも、私の「耳」には「歌」として聞こえてこない。
 あ、逆かもしれない。
 虫武のことばを読むとき、私の「肉体」から「声」が出て行かない。
 これは、きのう読んだ高塚謙太郎『Sound & color』の印象とは正反対である。高塚の作品を少し引いてみる。

雨のうかんだうたのあと
てのひらにおちた風は
はなれゆくものの
ごらん
ひとつのきれいさだった                  (「春にははるの」)

 これは「短歌」ではない。けれど、「歌」として聞こえる。「声」が解放されている。「肉体」から解き放たれて、「音」として響いている。「音」のなかに、高塚が見える。そして、それを読むとき、その「音」に、私の「肉体」は思わず同調してしまう。
 何かの「音楽」を聞いたとき、思わず、その「音」に声をあわせたくなるような響きがある。
 こういうことは「知らない曲」にも起きる。
 ベートーベンの「運命」。あれは、はじめて聞いた瞬間から、すぐに「ダダダダーン」と言いたくなる。
 「音楽」とは、そういうものだと思う。はじめて聞くものであっても、何か「肉体」がおぼえているものをひっぱり出してきて、一緒に「響く」。知らないはずなのに、つい、それにあわせてしまう。
 「運命」の、最初の「ダダダダーン」に驚くと、すぐにそのあと繰り返される「ダダダダーン」はもうはじめて聞く音ではなく、自分の「肉体」のなかから完全に引き出され、一緒に動く音だ。
 たぶん、何かが、繰り返されているのだ。
 高塚の詩では、一行目の「うかんだ」が二行目の「おちた」と「意味」の上での「対」をつくり、そこに「対」ならではの「繰り返し」がある。「落ちる」という動詞は瞬時のうちに「浮かぶ」という動詞を反芻し、反芻することで「意味」のなかを鮮明に動いていく。
 それがさらに三行目の「はなれゆく」へと飛躍する。「落ちる」ものは「離れる」もの。「離れる」ものは「行く」もの、「私(書かれていないが……)」から「離れる」もの。「肉体」がおぼえている動きが、自然に整えられ、動き出す。
 で、これを「きれいさ」と呼ぶとき、まあ、青春の抒情だけれど、書かれていない「私」の何かが「きれい」になる。「きれい」に「私」が重なる。
 こういうことばの「動き」というのは、たぶん「習得」するものではない。「学んで」身につけるものではない。自然に、どこかから聞こえてくる「音楽」に耳を澄ませて、知らず知らずに、それに「同調」することで生まれてくるものである。
 これを「伝統」と呼ぶことができるかもしれないけれど。

 で、虫武の「短歌」にもどるのだが、虫武の「音」には「同調」を誘う響きがない。そういう点から見れば、まったく新しい短歌、「非伝統的な短歌」なのかもしれない。
 「新鋭短歌シリーズ」のすべてを読んでいるわけではないし、読んだものもの、読むというよりは目をすべらせる、これが現代の短歌の流行かと、単に「知識」としてなぞっておくという感じなのだが……。「新鋭短歌シリーズ」の「短歌」は私の印象では「平成の古今集/新古今集」という感じ。「感覚」を「音楽的な音」に変えて、抒情の新鮮さを「演出」している、という印象。
 そこから聞こえてくる「音」に「同調」するとき、私のなかで「一九七〇年代の現代詩/抒情の現代詩」の「音」が「古今集/新古今集」のリズムに整えられて動いている印象がある。「万葉集」の「力一杯響かせる音」とは違って、そばにいるひとにだけ聞こえればいい、という感じかな? 「万葉集」というのは、恋の歌さえ、まるで野原で遠くにいるひとに大声でつたえる叫びのような感じ。そんなことをしたらほかのひとにも聞こえるのだけれど、むしろ、ほかのひとに「私はこのひとが好き、だから手を出すな」と宣言しているような、わがままで、美しい強さがある。「古今集/新古今集」は違うよね。まあ、これは私の「感覚の意見」なのだけれど。
 あ、また脱線したかな?
 虫武の「短歌」には、そういう「響き」がない。

 いや、違うぞ。

 「響きがない」と書いたが、虫武の「短歌」にも「響き」はある。ただし、その「響き」は「短歌」の響きではないのだ。「短歌」の伝統的な、あるいは流行の「音の解放の仕方」とは違うのだ。(伝統的、とはむかし流行した、という意味にもなるかな。)
 何が、異質なのかな?

逃げている獣のように

洟をかむように

 「直喩」が出てくる。
 一首目は「獣」と「名詞」が「比喩」を背負っているが、「逃げている獣のように」は「獣が逃げるように」と読み直すことができる。そのときは「逃げる」という「動詞」が「比喩」になる。
 二首目は「(洟を)かむ」と「動詞」が最初から「比喩」になっている。
 ここに虫武の、ことばの運動の「特質」のようなものがある。
 「動詞」が「比喩」である、「比喩」に「動詞」をつかうというのは、「短歌」ではめずらしいのではないか、と思う。
 短歌の技法(?)のひとつに「体言止め」というのがある。「名詞」で断ち切って、想像力を飛躍させる。「用言(動詞)」だと、想像力のかわりに「肉体」が動く。「肉体」はなかなか想像力のように飛んでしまうことはできない。「少しずつ」(一首目の書き出し)ずるずると動くしかない。
 「名詞」に比較すると、「動詞」には「粘着力」があるのだ。
 この「動詞」の粘着力が、虫武の「音」を支配している。
 「ことば/声」は「肉体」から出て行くのではなく、「肉体」のなかへひっぱりこまれる。「肉体」が前面に出てきて、「ことば/声」は「肉体」のなかに「こもる」と言えばいいかなあ。
 で、その印象が「抒情(精神/こころ)」の動きを見ている感じではなく、「肉体」を見ている感じにさせる。「美人/美男子」なら「肉体」を見ていても楽しいが、どうもさえない、凡庸な「肉体」という印象がことばにあふれているので、なんだか、めんどうくさい感じになる。
 いやでしょ? どうみても凡庸な、つまり何かいいことが起きそうな印象をもたない男がそばにきて「友達になりませんか?」なんて声をかけてきたら。ぎょっとするよなあ。そして、その「声」のかけ方が「歌」なんだから、こりゃあ、まいるね。

走りながら飲み干す水ののみにくさ いつまでおれはおれなんだろう

情けないほうがおれだよ迷ったら強い言葉を投げてごらんよ

弟がおれをみるとき(何だろう)黒目の黒のそのねばっこさ

丁寧に電話を終えて親指は蜜柑の尻に穴をひろげる

電柱のやっぱり硬いことをただ荒れっぱなしの手に触れさせる

 しつこいねえ、ねばねばだねえ。「しっしっ、あっちへ行け」と言ってしまいそう。いや、そんなことを言うのははばかられるから、聞こえないふりをして、そっと逃げていくしかないか……。

 こういう粘っこさは、どうも「短歌」ではない。「短歌」の「短」は「短い」。ねばっこい、しつこいは「短い」とは正反対だ。
 それを「短歌」でやりとおすと、そこに新しいものが生まれてくる。まあ、そうかもしれないが。
 私は、この虫武の「文体」は「短歌」よりも「小説」だと思って読んだ。
 「小説」は、読む方も、正確がしつこく、ねばっこい。「小説/散文」を書くと、うーん、古井由吉になるかなあ。なれるかなあ。


羽虫群 (新鋭短歌シリーズ26)
クリエーター情報なし
書肆侃侃房
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