詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

詩集「改行」へ向けての、推敲(1)

2016-07-15 23:37:32 | 詩集『改行』草稿/推敲
 次に出す詩集のタイトルを『改行』と決めた。作品はまだそろっていない。『注釈』を出版したあと、「戦争法」と参議院選挙行方が気になり、なんとなく詩から遠ざかっていた。そのためだろうか、あまり詩を書いて来なかった。古い作品を含めて、推敲しながら詩集を編むことにした。
 その「過程」を公開します。
 気に入った作品がありましたら、教えてください。「ブログ」のコメント、「フェイスブック」の「いいね」ボタンでの反応を期待しています。
 推敲は、「順不同」で進めていきます。


(1)あの部屋を出て行くと、

あの部屋を出て行くと決めたとき、
四角い窓から背の高い雑草が、遠い遠いところに揺れている雑草が見えた。
背後に何かが光って、横に広がっている。
川だ。
(私は、場所を間違えている
あの部屋から川など見えない。
崖の上に立つコンクリートの家と、目隠しの常緑樹。
朝の一瞬だけ入ってくる光。
川などどこにもない。

あの部屋を出て行くと決めたとき、
最後に思い出したのは冷蔵庫の中のペットボトル。
水が半分、飲みかけのまま残っている。
扉を開けたとき、まわりの壁といっしょに黄色い光に染まるまで、
きっとくらい色をためこんで静かに眠る。
そのせいだろうか、
私の知っている川の水は、どこかで飲み残しの水と出会っていて、

あの部屋を出て行くと決めたとき、
目的地のように誘いに来たのだろうか。











(2)川に沿って歩くとき、

川に沿って歩くとき、
道に迷わないのはなぜだろう。

川に沿って歩くとき、
空が広いのはなぜだろう。

川に沿って歩くとき、
向こう岸が離れて見えるのはなぜだろう。

川に沿って歩くとき、
橋の白い横腹はたまらなく孤独に見えるのに
なつかしいのはなぜだろう。











(3)ゲドヴァンゲン

ボスの駅前では、
「ゲドヴァンゲンへ行きますか?」
バスに乗る人がひとりひとり運転手に尋ねる。
76クローネを握り締めたまま。
「行くよ」ひとりひとりに運転手が答え、
バスの中には知らないことばの数が増えて行く。

ゲドヴァンゲンについてみると、時間だけがあった。
フィヨルド・クルーズのフェリーがつくまですることがない。
滝の音。旗の音。旗のロープがポールを叩く金属音。
滝は、どの滝の音かわからない。
幾筋もの滝の音は澄んだ空気の中にぶつかるが、
反射するものがなくて、光のなかへ消えて行く。

一緒にバスに乗ってきたはずの娘も青年も消えて、
私はカモメにパンの切れ端を投げてやる。
店の人に頼んで写真をとってもらう。
「ありがとう」と覚えたばかりのことばで言ったはずだが、
もう思い出せない。

覚えているのは、午後三時、風が冷たくなってきた。
名前のわからない木の若葉から降りてくる風には雪の匂いがする。
私の知っている雪とはまったく違う匂いだが、
雪の匂いだとわかるのは不思議だ。











(4)いつ決まったのか、

いつ決まったのか、説明してもらえなかったが、たいしたことではない。
自己主張することもないので、黙ってついて行った。
三軒目は新聞販売店で、トラックが夕刊を下ろしていた。
夕刊は印刷されてしまっているがまだ配られていないので、
あとしばらくはニュースらしいニュースもない。
西日が格子戸の引き戸に格子の影をつくっていた。
それが前の男の眼鏡のレンズのなかで小さく結晶している。
他人が見ているものを見してしまったというはずかしさが、
ふいにことばを驚かすのであった。










 (5)再び

私は再び待っている、
ここに座っている。
雨の降る日は、
背のウィンドウを雨がたたく。

後ろから来るひとは
雨粒の向こうに、
私の影を見る。
傷のように開いた黒い影を。

私は待って、
コーヒーを飲んで
声を待って、ここに座って。

私は待っていると
大声であなたを思って、
静かに座っている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

恵矢『DANCE AGAIN』

2016-07-15 09:00:25 | 詩集
恵矢『DANCE AGAIN』(土曜美術社出版販売、2016年07月21日発行)

 恵矢『DANCE AGAIN』の帯に、新延拳が「公認言語造形家・恵矢が放つ言葉の石蹴り 待望の第一詩集」と書いている。私は「帯」とか「解説」は読まないのだが、「公認言語造形家」という「ことば/文字のつらなり」ははじめて見たので、それが目に飛び込んできた。日本語の文字のなかに、突然「外国語の文字」が入っていると、それが目に飛び込んでくるような感じだな。「意味」は、わからない。
 で、「公認言語造形家」って、何だろう、と思って詩集を読み通してしまったが、何もわからなかった。「造形」というからには形のおもしろさがあるのかと期待したが、「形」はどこにも見つからなかった。私は目が悪いので、もう形が見えなくなっているのかもしれないが。
 かわりに「意味」ばかりが見つかったが、これは見つかったというより、すでに見たものをもう一度見ているという感じ。まあ、「発見」というのは「言語矛盾」のようなもので、すでにそこにあるから見つけることができる、存在しないものは見つけることができないのだから、すでに見たものであってもいいのかもしれないが。

 と、書いたら、もう何も書くことがない。
 こういうとき、私は、どうするか。
 作者の「意図」がどこにあるのかわからないが、そこにあることばを勝手に動かしてみる。
 「たぶん」という詩。

目をつぶると
見えるもの
それしか信じられない

人と話したあと
胸に残るもの
それしか数えられない

生きたあとに
残るもの
それしか見えない

 一連目は聞き慣れた「哲学」。「目をつぶると/見えない」ではなく、「目をつぶると/見える」という「矛盾」に詩がある。
 で、その「詩」というのは……。
 「目をつぶると」とは「目をつぶっても」ということだろう。「つぶっても」というのは「ことば」として長い。その「長いもの/長さ」を気持ちが追い越していく。突き破っていく。早く言いたい。思ってることを、早くことばにしたい、という欲望がそこにある。この、ことばのスピードのなかにある欲望の強さが「詩」ということになる。
 二連目は、一連目の言い直し。「起承転結」でいえば「承」。同じことを違うことばで言い直すと、その「ずれ」のなかに「意味」が生まれてくる。
 「目をつぶっても/見える」。それだけ印象的なもの。「人と話したあと/胸に残るもの」。それだけ印象的なもの。一連目の「見える」は頭のなかに、意識のなかに、つまり「胸のなかに」見えるもの。
 「印象的」は「残る」ということば(意味)となって生きている。
 この「残る」が三連目でも繰り返される。
 どこの残るのか。やはり「胸」だろう。意識だろう。だれかが「生きて/つまり死んだあと」何かが「残る」。「この世」になのかもしれないが、「この世」というのは、生きているひとの「胸(思い/意識)」だろう。
 三連目は「起承転結」の「転」ではなく、「承」をまた繰り返した感じ。「起承承」とことばが動いている感じで、おもしろくない。一連目を動かしていたことばのスピードもない。詩を書こうとする意識だけが「ねばねば」している。重たくなっている。

 このあと、ことばの展開の仕方がかわる。「起承転結」の「転」である。

言葉へのこだわりはないが
言葉になる前のものが
蹂躪されるのなら
わたしはたぶん
狂ってしまう

 「言葉になる前のもの」とは何か。
 この作品では「目をつぶると/見えるもの」「人と話したあと/胸に残るもの」「生きたあとに/残るもの」ということになる。
 「目をつぶると/見える」というのは「矛盾」。「矛盾」というのは、ことば(意味/論理)にならないということ。だから「言葉になる前のもの」と言い直されているのだが、こんな「抽象的」なことは、「意味」になりすぎていて、「詩」ではない。言い換えると「肉体」を刺戟してこない。
 「目をつぶると/見えるもの」ではなく、実際にその「もの」を書かないと、その「論理」は頭のなかで動くだけ。「算数」になってしまう。抽象化せずに、「目をつぶると/見える」何か、美女でも、風でも、闇でもいいが、それを「視覚」以外のものであらわさないと、書かれていることが「肉体」にならない。
 「言葉になる前のもの」を「未生のことば」と言い変え、それをさらに「未分節(無分節、と一般的には言うのだが)」の世界と言い換えると、ここに書かれていることは、いまはやりの「言語哲学」に通じていくのだが。

蹂躪されたなら

 あ、そう書く詩人が、その「言葉になる前のもの」を「蹂躪」している。踏み潰している。踏み潰して「意味」を「抽出」している。
 なぜ、「蹂躪」しているか。
 「言葉になる前のもの」というのは、「目をつぶると/見えるもの」「人と話したあと/胸に残るもの」「生きたあとに/残るもの」ではないからだ。
 「残るもの」はいつでも「分節」されたもの。「ことばにされたもの」(分節されたもの)である。言語化/分節化されることで「印象」が強くなり、その「印象」が「肉体」に刻まれて、傷となって「残る」のである。その「傷」が詩なのである。
 「分節」の仕方によって、「傷」が違ってくる。つまり、そこにあらわれる「詩」が違ってくる。
 「言葉になる前のもの」は「残る」のではなく、いつでも、そこに「ある」ものだ。
 先に、「抽象的すぎて意味になりすぎている」と書いたが、あれは、正確ではない。「抽象的すぎて、作者の頭のなかで簡単に意味になって完結してしまっている」ということ。作者の頭のなかでの「完結」は、作者にとっては「完璧」だが、読者にとっては「意味を成さない」ということもある。

わたしはたぶん
狂ってしまう

 の「狂う」という動詞は否定的な意味でつかわれていると思うが、作者の頭のなかの「完璧な完結」よりも、作者が「狂う/狂い」と呼んでいるものの方が、「真実」ではないのか。「言葉になる前の真実」、「言葉になろうとする真実」ではないだろうか。

 この詩の「起承転結」の「結」の二行。

なんて
ばからしい

 読みながら、あ、これこそ私の感想と思った。「なんて、ばからしい」。
 私は「公認言語造形家」ではないから、私の読み方は間違っている(非公認)のものということになるのだろうが、私はもともと「公認」なんかされたくないから、関係がない。詩は「公認」されるようなものではないだろう。だれにも認められいな何か、はじめてことばになって生まれてくるものが詩であり、「公認」されたら、それは詩ではなく「知識」になってしまう。
 もしこの作品に「詩」(「言葉になる前のもの」が「ことば」として「生まれてくる」力)があるとしたら、最初の「目をつぶると/見えるもの」ということばのスピードだけである。でも、それはすでに多くの人が書いて「抽象的真実」になってしまっている。

DANCE AGAIN
恵矢
土曜美術社出版販売
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする