詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

黒沢清監督「クリーピー 偽りの隣人」(★★★★)

2016-07-07 08:16:18 | 映画
監督 黒沢清 脚本 黒沢清、池田千尋 出演 西島秀俊、竹内結子、香川照之

 小説が原作らしい。その原作はどうなっているのか知らないが、脚本がすばらしい。
 ふとしたことがきっかけで、過去の「家族失踪事件」を調べはじめた元刑事(西島秀俊)。それを調べているうちに、その事件の起きた現場と、自分の家の「配置」が似ていることに気づく。
 で、過去の「事件」のなかで、ひとり取り残された少女(すでに大人)から「記憶」を聞き出しているうちに、それに「類似」したできごとが、自分の家の、すぐ隣で起きはじめる。これが平行して描かれる。
 過去の事件は「失踪事件」ではなく「殺人事件」だったのだが、そうすると近所でも必然的に「殺人事件」が起きることになる。「過去」が「現在」に反復されているのか、それとも「現在」が「過去」をととのえているのか。
 これって、「推理映画」というか「殺人事件捜査映画」のようであって、実は、そうではない。この映画で起きていることは、「事実」ではなく「空想」かもしれないのである。「事実/事件」として描かれているのだけれど、、つじつまが合いすぎるでしょ? こんなにつじつまがあってしまうのは、「嘘」ということ。

 映画では、一か所、とても変な「映像」がある。
 西島が、過去の事件の生き残りの少女(女性)から、「記憶」を聞き取る部分。大学の研究室に少女がやってきて、そこで「録音」しながら、「記憶」を思い出すということが試みられる。途中、少女が席を立って、研究室のなかを歩きまわる。そのときの照明の変化が、とても変。まるで「芝居/演劇」の「照明」のように「色」がついたり、暗くなったり、明るくなったりする。
 ここから「映画」はほんとうに動きはじめるのだけれど、それから先の「映画」は現実なのか。少女の記憶が再現されているのか、あるいは主人公が思い描く理想の(?)サイコパス犯罪の形なのか。
 「映画」で見るかぎり、それは「現実」として描かれている。リアルタイムで進行していく「事件」があり、その「事件」と「過去の事件」が「似てくる」。いや、「共通」してくる。「共通」と書いてしまうのは、「過去の事件の犯人」と「現在の事件の犯人(香川照之)」が「共通」するからである。犯人は「同一人物」なのだ。
 でも、ほんとう?
 「過去の事件」の生き残りである少女は、香川照之が過去の事件で少女が見た人物であるかどうか、明確には証言していない。少女の反応から、西島が「共通人物(ひとり)」と判断しているだけである。もし香川が犯人(同一人物)であるなら、少女は「現在」に起きた「事件」の「少女」と同じようなことをしたことになる。香川に強制されて、犯罪」を手助けしたことになる。その記憶のために、過去の少女は、記憶のすべてをよみがえらせることを拒んでいる。
 もしかすると、これは香川が引き起こした「事件」ではなく、西島が引き起こした「事件」かもしれない。犯罪者の心理を追いつづける西島が、「心理としての答え」を求めるあまりにつくり出した「事件」かもしれない。西島の「理論」によれば、異常な殺人者は殺人を繰り返す。繰り返すことで「特徴」が明らかになる。そして、「特徴」をつかむと、そこから「隠れている犯人」を浮かび上がらせることができる。いわゆる「プロファイル」というやつだね。
 もし香川が「共通の犯人」ならば、すべての事件がうまく説明できる。つまり「完璧な犯罪/完璧な犯罪者=プロファイルどおりの犯人」が、そこに生まれる。そして、それが「完璧な犯罪/完璧なプロファイル」として「説明」がついた瞬間に、ほんとうはどうだったのか、という「事実」の解明は置き去りにされる。「プロファイル」が正しければ、「事実」はそれにあわせてととのえられなおすのだ。
 「事実」は、少し脇に押しやられる。「事実/事件」は「主役」ではなく、「犯人」が「主役」になってしまう。「犯人像(プロファイル)」が「主役」になってしまう。
 この映画では。
 「犯人=香川」は西島によって銃で撃たれて死んでしまう。「死人に口なし」。「事実」を語ることができる「人間」は、どこにもいない。「証拠」もあるのか、ないのか、さっぱりわからない。主人公の西島だけが、全体を語ることができるのだ。「プロファイル」によって、「事件」を見渡す。映画を見ている観客は、どうしても主人公・西島の視点で世界を見てしまうから、これで「事件」が解決した、決着した、結論が出たと思ってしまうが、そうではないかもしれない。
 犯人が香川であると仮定し、その犯人の「心理」(あるいは行動原理)がわかった、つもりになるが、その心理が「異常」なものなら、それを「わかってしまう」というのは、もっと「異常」かもしれない。「わからない」からこそ、私たちはそれを「異常」ということばで自分から遠ざける。「わかる」ということは、それを自分に「ひきつける」ということなのだから。
 映画を振り返ると、西島が香川になって「犯行」を再現し、その再現のなかで「事実」を確認していることがわかる。そのとき「再現」しているのは「事実」というよりも、西川のつくりだした「理論」である。西島は、「香川が犯人であるという理論」を確認しているのだ。

 ね、怖いでしょ?

 香川の演技がすばらしく、「異常」としかいいようのない「落差」のをある演技をする。そして、その「異常さ」で、いま起きていることが「現実」だと錯覚させる。「現実」に起きていることよりも、というと変だけれど、香川がそこにある何でもないことを「現実/事実」にしてしまう。香川が演技をするたびに、犯人はこいつだ、こいつはなんて異常なんだと思うことで、安心してしまう(?)私。
 これって、変でしょ?

 というわけで。
 きっと多くの人はこんなふうには見ないだろうけれど、「現実の事件」と見るよりも、西島が「精神のなかでみた事件」と見る方が、こわい。西島という人間の「正常」の奥にある「狂気」(犯罪は犯罪心理学でなんでもわかるんだぞ、という認識)に、ぞっとする映画。
 ★5個つけたくなる映画なのだけれど。
 私は、この西島という俳優が好きになれない。竹内結子も、なぜか好きになれない。何を見たのか忘れたが、二人とももう一度見たいという役者ではない。それで★を1個減らした。
     (ユナイテッドシネマ・キャナルシティ・スクリーン7、2016年07月06日)





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