詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

野村喜和夫『閏秒のなかで、ふたりで』

2016-07-31 12:31:09 | 詩集
野村喜和夫『閏秒のなかで、ふたりで』(ふらんす堂、2017年06月26日発行)

 野村喜和夫『閏秒のなかで、ふたりで』の「閏秒」は「閨房」に似ている。「閨房」を暗示しているのだろう。「閨房」なんて、もうだれもつかわないことばだけれど。そして、このもうだれもつかわないことばというのが、たぶん、ミソだな。
 詩集の帯に「エロい詩集」と書いてあるのだが、この「エロい」というのも、もうだれもつかわない。とまでは言えないけれど、古くさいね。口に出すのに、ちょっとためらう。言うと年がばれそう。ばれそうも何も、年なんて知られてしまっているのだけれど、ちょっと「ミエ」が、そのことばをためらわせる。
 で。
 こういうこと。
 だれもが知っている。誰もが言ったことがある。けれど、いま、それをことばにして言うのにはちょっとためらいがある。こんなことを言うと古い人間と思われそう。でも、肉体はそういう古いことばと通い合い、妙にくすぐったい。何かを思い出させてくれる。あ、知っている、という感じで伝わってくる。
 もっとも「閨房」なんて、たぶん野村も自分で言うというよりも、聞いて覚えたことばだと思うけれど。つまり「耳年増」のことばに属すると思うけれど。
 そして、そのことが、とても重要。
 セックスというのは実際の体験以上に、「耳」で聞いて妄想を膨らませ、その妄想へ向かって突き進んでいくという一面がある。
 何にも聞かずに、ただ本能でセックスしてしまえば、きっと「交尾」になってしまう。動物になってしまう。ことばがあって、そのことばが「交尾」を「セックス」にかえるのだ。
 「閨房」だとか「エロい」ということばが、肉体のなかに「性器」以外のセックスのを生み出すのだと思う。自分が知っているだけではなく、人間のいのちが知っているものが、そこに混じり混んでくる。みんなが知っていることと、自分だけが知らなかったこと(未経験のこと)が、ことばのなかで交錯し、ことばと体験の両方をたがやしながら、それが「セックス」そのものになる。

ぼくは、ペニスを入れて、
胎児の、すぐそばに、
マイクみたいに近づけて、近づけて、
そっと、採集、するんだ、
「超人」の、
「星の子供」の、
大きすぎる頭から洩れる、
親殺しのささめきを。                   「(ある日、突然)」

 注釈なしでも、これは妊婦とのセックスを書いていることがわかる。
 なぜって、そこには「聞いた」ことばしか書かれていないからである。知っている「事実」しか書かれていないからである。
 「ペニス」という直接的なことば、「マイク」というありふれた比喩。そこから「声を集める」というありふれた動詞。
 さらに「親殺し」というギリシャ悲劇からつづく絶対的な憧れ。

 さて。

 こういう「わかりきった」ことが書かれている詩集からは何を読み取ればいいのだろう。もし、この詩集を「おもしろい」と呼ぶなら、何を根拠に「おもしろい」と言えばいいのだろう。
 内容なんかではないね。

 前半にもどって読み直してみる。

ある日、突然、
何もすることがなく、
夏あみ、だぶつ、
ああいっそ、
妊婦とセックス、して、
みたい、ぼくは、すてきだろうなあ、
まるく膨らんだ、すいかのような、
おなか、ちたちた、舌で、
登ったり、駆け下りたり、

 「夏あみ、だぶつ」が「なみあみだぶつ」に聞こえる。その前の「何もすることがなく、」の「な」の繰り返しが「夏」を呼び出し、それがつづいて「なみあみだぶつ」を呼び出す。
 ここには「事実」ではなく「語り口」だけがある。
 「なみあみだぶつ」はともかく「なつあみだぶつ」なんていうのは、ことばとしてすら存在しないからね。

 と、書きながら、あ、「ここだね」と私は思う。詩の「ポイント」はここにある。「ペニス」を「マイク」と呼ぶのは、もうすでにありきたり、既成の「比喩」。比喩ですらなくなっている。
 「なみあむだぶつ」というのもすでに存在することば。しかし、そこに「夏」をくっつけて「夏あみだぶつ」と言った人はいない。(たぶん。)つまり、そこには、まだ書かれていなこと、ことばになっていないことばがある。詩がある。
 こういうことを「書かれていないことば」というふうに言ってしまうと「おおげさ」すぎるかもしれないけれど。
 でも、たぶん、ここに野村のことばを「詩」として存在させる力がある。

 「夏みあだぶつ」を「なみあみだぶつ」と感じさせるのはなぜか。
 ことばにリズムがあるからだ。
 リズムというのは、別なことばで言いなおすと「語り口」。
 「語り口」が野村のことばを「詩」にしている。
 これは、まあ、漫才や落語のようなもの。
 「ストーリー」は知っている。何度も聞いている。けれど、その何度も聞いているものを人はさらに何度も聞く。それは「意味」を知りたいからではない。「語り口」を聞きたいからである。だれそれの「語り口」がいい、と「ストーリー」とは違うもので、ことばのあり方を評価するときもある。
 「意味」がもしあるとすれば「ストーリー」にではなく、「語り口」にこそ「意味」がある。同じように「詩」があるとすれば、「ストーリー」にではなく、その「語り口」に詩があるということ。
 野村の語り口は「なめらか」なのだ。そして「軽い」。
 つまずかない。
 これが、快感。

 と言った先から、ちょっと違うことを言うと。
 この作品では、読点「、」が散りばめられている。「呼吸」の「息継ぎ」のようなものが、「文章」を寸断するようにしてさしはさまれている。それは「なめらか」ではないのだが、この作品の場合「なめらかではない」という逆の「なめらかな」リズムになっている。
 ちょっとおもしろい。
 「つまずき」もそれを繰り返せば、新しいリズムになる。
 
ぼくが上になり きみを組み敷いて
みみと川 なのりそ川 うしろで鳴く蚊の暗さとともに

きみが上になり ぼくに騎馬して
あさむつの橋 あまひこの橋 水の母のまぼろしの傷もあらたに

ぼくが胡座をかき きみを抱っこして
ほこ星 ふさう雲 こぼれてくる光の蝶をかぞへながら     「エクササイズ 2」

 「なのりそ川」というのは「な……そ」という「古文」の「禁止」の構文だと思うのだが、そういうような、あるのかないのかわからない、けれどどこかで聞いた感じのことばを「読点」のようにつかってリズムをつくりだす詩(それを語り口にする詩)もある。

 野村は、もう職人というか、詩の芸人になっている。それが嫌いという人もいるかもしれないが、私は、その軽さが持つ強さ、軽さだけが持つ強さが好きである。

閏秒のなかで、ふたりで
野村 喜和夫
ふらんす堂
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天皇報道への疑問

2016-07-31 12:00:00 | 自民党憲法改正草案を読む
天皇報道への疑問

 2016年07月30日の読売新聞(西部版・14版)一面が、「天皇陛下 来月「お気持ち」/表明へ宮内庁調整 生前退位巡り」という見出しで、

 「生前退位」の意向を持たれている天皇陛下が8月にお気持ちを表明される方向で、宮内庁が調整していることがわかった。陛下がお言葉を述べられる姿をテレビ中継されことも検討している。天皇の退位は皇室制度の改正につながり、意向の表明は憲法が禁じる天皇の政治的な行為にあたる恐れもあるため、お言葉の表現については、慎重に検討がつづけられている。」

 と報道している。各紙も同じ内容で報道している。これは07月13日にNHKが「夜7時のニュース」で報じた内容の続報である。
 天皇の「発言」の意図をめぐっては、いろいろな報道(評価?)がメディアに飛び交った。そのなかに、この天皇発言は、安倍政権の「憲法改正」への抵抗と見るものがあった。憲法の前に皇室範典の改正が必要になり、憲法改正が遅れる、というのである。政府に難題を投げかけた、というのである。こういう内容の報道は「海外」からのものが多かった。
 読売新聞は30日の紙面(三面)で「「生前退位」政府に難題」という見出しで「解説」を展開しているが、これは上記の「海外報道」やその他の国内での報道を踏まえたものといえる。

 私は、この「解釈」に疑問を持っている。
 むしろ、安倍政権が、天皇を追い込んでいるのではないか、という気がする。憲法改正を「天皇問題」をからめて押し切ってしまおうとしている。その突破口にしようとしていると感じている。
 天皇が「生前退位」の意向を持っている。気持ちを尊重しなければいけない。すぐに皇室範典を見直し、同時に憲法も改正し、天皇に安心してもらわないといけない、という「論調」を展開するのではないかと疑っている。

 NHKが一連の報道の始まりだったことにも非常に疑問を感じている。
 籾井会長は就任するとき「政権が右と言っているものを左と言うわけにはいかない」というような発言をした。「正式発表」以外のことは伝えないという「意向」と私は判断した。それ以後の報道を見ると、まさに政権よりの報道である。
 たとえば熊本地震の際は、各地の震度を報道する「地図」から隣県・鹿児島の震度が欠落していた。鹿児島には川内原発が稼働中である。不安を感じさせないため、という「配慮」なのかもしれない。原発再稼働に対する反対運動が起きては困るという安倍政権の「意向」を踏まえての報道だろう。
 なぜ、「慎重な」NHKが「特種」の形で報道したのか。なぜ「7時のニュース」だったのか。その点も疑問である。
 以前、ある新聞社が「宴遊会の招待者名簿」を一日早く掲載してしまった。すべての招待者名簿ではなく、ある県の名簿だけだったのだが、このフライングに対して、宮内庁はその新聞社の記者クラブへの出入りを禁じたということがあった。宮内庁ニュースでは「特種」は許されていないのである。
 それなのに、安倍政権べったりの籾井NHKが「特種」を報じた。
 なぜなんだろう。
 たぶん「7時のニュース」と時間帯も考慮したのだろう。「7時のニュース」ならば、どの報道機関もチェックしている。そこで報道された「特種」は、すぐに各紙がおいかける。朝刊発行までには時間がある。記事にできる。その結果、「特種」は「共通」のニュースになってしまう。
 宮内庁が抗議をしようとしても、あるいは処分をしようとしても、すべての報道機関が報じているのでは、一社を制裁しても意味がない。制裁を無効にする形で、この報道はおこなわれたのだと私は感じた。
 改憲をねらう安倍政権への「難題」という指摘が「海外」発だったことも、とても驚いた。憲法と皇室範典の関係に海外メディアがそんなに詳しいだろうか。「国内」のメディアよりは疎いと考えた方が常識的なのではないか。国内メディアが騒ぐ前に海外メディアが騒いだのは、そういう問題があるということを、だれかが「リーク」したのではないか。そうして、「海外」から憲法と皇室範典の関係が問題になってくるぞと指摘させたかったのではないのか。「海外」の方が、日本国内の問題について論評するとき「客観的」であると勘違いされやすい。第三者の立場だから「客観的」という見かけの論理なのだが。

 この報道は宮内庁が否定したために、いったんは鎮静化した。しかし、鎮静化したと思ったら、また急に、ぶり返してきた。
 これはいったい何なのだろう。
 だれかが(もろちん安倍政権がという意味だが)、天皇(宮内庁)に圧力をかけているとしか考えられない。
 「日本中が天皇のことを心配している。天皇がみずから国民に語りかけるときなのではないか」
 天皇が、どんなことを語るのか。
 内容次第では「憲法違反」になると、どのメディアも報じているが、これは逆に言えば、安倍政権がメディアを通じて天皇に「政治につながる発言はするな」と圧力をかけているに等しい。また、国民に「天皇は政治的発言を禁じられている。天皇が安倍批判をすることは許されない」ということを印象づけるねらいがあると、私は想像している。
 主権は国民にある。国民が自分たちで憲法をつくり、政治をすることに対して天皇は口をはさむと憲法違反であると言おうとしているのである。
 つまり、これから憲法改正をすすめるが、天皇には口出しをさせない(天皇が口出しすれば、それは憲法違反である)と念押ししようとしている。

 どんな具合に憲法改正論議が進むのかわからない。けれど、これだけ繰り返し天皇は政治的発言をしてはいけないという「論理」を宣伝しておけば、天皇の「意向」を無視して憲法を改正できる。
 天皇が死亡したときも、「緊急事態」を宣言して、自由に法律(皇室範典)もつくりかえてしまうだろう。「緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができる」と自民党の憲法改正草案にある。「政令」を制定し、それが国民になじんでしまえば、それをそのまま「法律」として定着させるという方法をとるつもりかもしれない。
 小泉内閣時代に、男子にかぎられている「皇位継承」をどうするか審議されたはずである。その結論さえ出ていない。皇室問題は、それくらい時間がかかる。そうであるなら、憲法改正の妨げにならないよう、さっさと皇室範典を変えてしまおう。そのために「生前退位」という天皇の「意向」を利用しよう、というのかもしれない。

 だいたい憲法改正をもくろんでいる党が、突然、天皇に「憲法を守れ(政治的発言は禁じられている)」と憲法を楯に追い詰めるという「手法」が、とても「うさんくさい」ではないか。
 きっと、「天皇が生前退位を望んでおられる。その希望に沿う形で、皇室範典と憲法の改正を急がなければならない」という「論調」が、すぐに出てくるはずである。
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