田島安江「野菜の声」(現代詩講座、2016年07月14日)
田島安江「野菜の声」にも、魅力的な一行がある。一行というよりも「一語」かもしれない。タイトルにもなっているが、三連目の「野菜たちが声を発しはじめる」がおもしろい。特に、「声」が詩を凝縮させている。
受講者は、この作品をどう読むだろう。
一連目の「虫たちの亡骸が放つ匂い」から始まる三行は、たしかに、あまりはっきりとは意識しない匂いかもしれない。しかし、そういうひとがあまり語らないものを、ことばの力でひとつひとつ明確にしていくのが文学の仕事だと思う。(ときには感じていないこともことばで暴走させて書いてみる。ことばの動きたいままに動かしてみる。ことばにすることによって生まれてくる感覚、感情というものがある。さらには「認識」さえ、ことばが誘導して生み出すということもある。)
不明確なものを、明確なことばにすることを、はやりのことばは「分節」というと思うが、ここでは野菜と向き合ったときに始まる世界を「分節」していると言える。
そうやって始まる世界は、日常とは違っている。だから、それを「異界」ととらえることもできるが、新しく「分節」された世界、田島のことばによって生み出された新しい世界と思えばいいのではないだろうか。
どんなことも、書かれたことばにしたがって、「世界」になっていく。ことばが「世界」を生み出していく。野菜を刻むというのは「台所の日常」かもしれないが、そのときどんな「匂い」が動いているかを中心に見ていくと、それだけで世界が違って見えてくる。
で。
私が詩を読んで最初に感じた部分に戻るのだが……。
受講者は「匂い」の強さにひっぱられて「聴覚」が少し置いてきぼりになっていると、私には感じられた。
そこで、いつものように「意地悪な質問」。
私の印象は、<受講者2>の感じ方に近い。
二連目の最終行「萎れた野菜のどこにそんなちからが残っているのだろう」の「力」が「声」に通じる。
そういう「解説」があったのだけれど、それはそれとして。
私は作者の思いを無視して読むのが好きなので、つまり「誤読」を楽しみたいので、私の感じたことを書きつづけると……。
野菜たちが、野菜のなかに残っている力を発しはじめる。(力を発揮しはじめる)
というふうに読んだ。
野菜のなかに残っている力とは、刻まれて、萎れていたのに、それが50度の湯のなかでシャキッと立ち上がる、その立ち上がる力、シャキッとする力のことである。
そのシャキッと立ち上がる力を食べることで、田島自身の「肉体」のなかにシャキッと立ち上がる力が生まれる。野菜を食べながら、野菜の一体化する。
この「シャキッと立ち上がる力」を、田島は「心」と読んでいるのだと思う。
野菜に「心」はない。しかし、「シャキッと立ち上がる力(意思)」を「心」と読んでみてもいいのではないだろうか。
この「シャキッと立ち上がる意思(力)」というのは、野菜が自分だけでつかみとったものではない。そこには「日向の匂い/雨の匂い/虫たちの亡骸が放つ匂い/家畜たちの排せつ物の匂い/蟻たちが放つ蟻酸の匂い」も含まれている。生きているものたちの、さまざまな「力」が反映している。
そんなふうに感じた。
野菜を食べるということは、生きている(生きていた)ものたちの「いのちの力」を食べること、そこから「力」をもらって生きること--と書いてしまうと、すこし理屈っぽくなりすぎるが。
少し振り返るようにして、「逆向き」に見ていくと。
「野菜の声」の「声」は不思議な表現。私は野菜の「声」を聞いたことがない。だれも「野菜が声を出している」とは言わない。そのだれも言わなかったものを田島は書いている。
だれも言わない、流通言語にはなっていない、つまり独特のことば(詩)であるから、それはどこかで必ず言い直されている、と私は考える。ひとはだれでも言いたいことを何度も言い直すものである。
で、その言い直しはどこにあるか。
私は、それを「ちから」という抽象的なことばに感じた。「ちから」の前には「シャキッとたちあがる」という「動詞」がある。「ちから=たちあがる」という結びつきがある。この結びつきは、自分自身の「肉体」で確かめる(思い出す)ことができる。「たちあがる」には「ちから」がいる。「ちから」を入れるとき、「声」も出る。「よいしょっ」とか、なんでもない、ほとんど無意味なものだけれど。
そして、その「ちから」は「意思」と読み直すと、その「意思」が「心」に通じる。
詩のなかに、ぐいと私をひっぱることば(一行)がある。それに出合ったとき、そのことばを詩のなかのほかのことばと結びつけてみる。どんなふうに言い直されているか、読み直してみる。その読み直しは「誤読」ということでもなるのだが、「誤読する/読み直す」とことばが自分のものとして動きはじめる。
こういう瞬間が好きで、私は詩を読んでいる。
野菜の声 田島安江
気がふさぐ日は
夜半にありったけの野菜を刻む
野菜の切り口から漂ってくるさまざまな匂い
日向の匂い
雨の匂い
虫たちの亡骸が放つ匂い
家畜たちの排せつ物の匂い
蟻たちが放つ蟻酸の匂い
それら雑多な匂いが台所に充満する
すべての野菜を刻み終わるとほっとして
みじかい眠りに就く
朝起きたわたしはパニックになる
たくさんのボウルと鍋に
ぎっしり詰め込まれた野菜は萎れ
もうわずかに
腐敗がはじまっている
野菜は刻まれたときからすぐに腐敗が始まる
そんなことさえ忘れていたのだ
慌てて鍋に湯を沸かし
野菜をくぐらせる
かならず50度
すると
野菜がシャキッとたちあがる
萎れた野菜のどこにそんなちからが残っているのだろう
野菜たちが声を発しはじめる
野菜たちの声が台所に満ちる
わたしは目を閉じ
そっと野菜たちの声を聴く
聴きながら
野菜の心について考える
野菜に心なんかあるものか
そんな声を聴き流しつつ
わたしは朝の台所でシャキッとなった野菜を食べる
わたしのなかで野菜が生き始めたから
わたしはやっと
今日も生きられる
田島安江「野菜の声」にも、魅力的な一行がある。一行というよりも「一語」かもしれない。タイトルにもなっているが、三連目の「野菜たちが声を発しはじめる」がおもしろい。特に、「声」が詩を凝縮させている。
受講者は、この作品をどう読むだろう。
<受講者1>匂いがいっぱい。
「日向の匂い/雨の匂い」はわかるが「虫たち……」は思い出せない。
野菜に吸収されている匂いから「異界」は入っている。
現実と異界の接点を感じる。
「野菜は刻まれたときからすぐに腐敗が始まる」はほんとうだろうか。
「虫たちの亡骸が放つ匂い」の「匂い」の方が「腐敗」なのでは。
田 島 一般的に「腐敗」というかどうかわからないが。
「50度」が正しいのか「60度」が正しいのかも、諸説あるが。
<受講者2>野菜のいろいろいな様子が見えてくる。
「虫たち……」の三行が想像できない。
野菜を刻むということが「いきる」につながっていく。
「生きる」というのは大事なこと。それをきちんと書いている。
そこに骨格のしっかりしたものを感じる。
<受講者1>最後の三行がわからない。
野菜が死んで(食べられて)、人間が生きるのでないか。
<受講者3>身近なことを書きながら身近じゃない。
野菜を刻み、匂いを感じたことがない。
作者はエスパーというのか、感覚が鋭い。超能力があるのでは。
三連目の「野菜の心」の二行が生きていて、強い。
心が異界と「シンクロ」している。
<受講者4>こんなふうに考えたことがない。
一連目がいい。三連目は理屈っぽい。
身近な題材から、こんなことまで書けるのがすばらしい。
一連目の「虫たちの亡骸が放つ匂い」から始まる三行は、たしかに、あまりはっきりとは意識しない匂いかもしれない。しかし、そういうひとがあまり語らないものを、ことばの力でひとつひとつ明確にしていくのが文学の仕事だと思う。(ときには感じていないこともことばで暴走させて書いてみる。ことばの動きたいままに動かしてみる。ことばにすることによって生まれてくる感覚、感情というものがある。さらには「認識」さえ、ことばが誘導して生み出すということもある。)
不明確なものを、明確なことばにすることを、はやりのことばは「分節」というと思うが、ここでは野菜と向き合ったときに始まる世界を「分節」していると言える。
そうやって始まる世界は、日常とは違っている。だから、それを「異界」ととらえることもできるが、新しく「分節」された世界、田島のことばによって生み出された新しい世界と思えばいいのではないだろうか。
どんなことも、書かれたことばにしたがって、「世界」になっていく。ことばが「世界」を生み出していく。野菜を刻むというのは「台所の日常」かもしれないが、そのときどんな「匂い」が動いているかを中心に見ていくと、それだけで世界が違って見えてくる。
で。
私が詩を読んで最初に感じた部分に戻るのだが……。
受講者は「匂い」の強さにひっぱられて「聴覚」が少し置いてきぼりになっていると、私には感じられた。
そこで、いつものように「意地悪な質問」。
<質 問>「野菜たちが声を発しはじめる」の「声」を、ほかのことばで言い直す。
「声」とはなんだろう。詩のなかで、ほかのことばで語られていないか。
<受講者1>「腐敗」「匂い」かなあ。
<受講者2>シャキシャキ、「シャキッと立ち上がるのシャキッ」かなあ。
<受講者3>「腐敗」を含む「匂い」。
<受講者1>自分の声、野菜と自分が対話している声。
私の印象は、<受講者2>の感じ方に近い。
二連目の最終行「萎れた野菜のどこにそんなちからが残っているのだろう」の「力」が「声」に通じる。
田 島 野菜が畑で聞いた声を書いた。聞いた声を、台所で発している。
そういう「解説」があったのだけれど、それはそれとして。
私は作者の思いを無視して読むのが好きなので、つまり「誤読」を楽しみたいので、私の感じたことを書きつづけると……。
野菜たちが、野菜のなかに残っている力を発しはじめる。(力を発揮しはじめる)
というふうに読んだ。
野菜のなかに残っている力とは、刻まれて、萎れていたのに、それが50度の湯のなかでシャキッと立ち上がる、その立ち上がる力、シャキッとする力のことである。
そのシャキッと立ち上がる力を食べることで、田島自身の「肉体」のなかにシャキッと立ち上がる力が生まれる。野菜を食べながら、野菜の一体化する。
この「シャキッと立ち上がる力」を、田島は「心」と読んでいるのだと思う。
野菜に「心」はない。しかし、「シャキッと立ち上がる力(意思)」を「心」と読んでみてもいいのではないだろうか。
この「シャキッと立ち上がる意思(力)」というのは、野菜が自分だけでつかみとったものではない。そこには「日向の匂い/雨の匂い/虫たちの亡骸が放つ匂い/家畜たちの排せつ物の匂い/蟻たちが放つ蟻酸の匂い」も含まれている。生きているものたちの、さまざまな「力」が反映している。
そんなふうに感じた。
野菜を食べるということは、生きている(生きていた)ものたちの「いのちの力」を食べること、そこから「力」をもらって生きること--と書いてしまうと、すこし理屈っぽくなりすぎるが。
少し振り返るようにして、「逆向き」に見ていくと。
「野菜の声」の「声」は不思議な表現。私は野菜の「声」を聞いたことがない。だれも「野菜が声を出している」とは言わない。そのだれも言わなかったものを田島は書いている。
だれも言わない、流通言語にはなっていない、つまり独特のことば(詩)であるから、それはどこかで必ず言い直されている、と私は考える。ひとはだれでも言いたいことを何度も言い直すものである。
で、その言い直しはどこにあるか。
私は、それを「ちから」という抽象的なことばに感じた。「ちから」の前には「シャキッとたちあがる」という「動詞」がある。「ちから=たちあがる」という結びつきがある。この結びつきは、自分自身の「肉体」で確かめる(思い出す)ことができる。「たちあがる」には「ちから」がいる。「ちから」を入れるとき、「声」も出る。「よいしょっ」とか、なんでもない、ほとんど無意味なものだけれど。
そして、その「ちから」は「意思」と読み直すと、その「意思」が「心」に通じる。
詩のなかに、ぐいと私をひっぱることば(一行)がある。それに出合ったとき、そのことばを詩のなかのほかのことばと結びつけてみる。どんなふうに言い直されているか、読み直してみる。その読み直しは「誤読」ということでもなるのだが、「誤読する/読み直す」とことばが自分のものとして動きはじめる。
こういう瞬間が好きで、私は詩を読んでいる。
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