詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

自民党憲法改正草案を読む(13/番外)

2016-07-11 12:32:26 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党憲法改正草案を読む(13/番外)(2016年07月11日)

 07月03日、日曜日、参院選選挙運動の真っ最中、いわゆる「選挙サンデー」と言われる日、私は会社で仕事をしていたのだが、「異様な静けさ」に気がついた。街もそうだったが、社内の静かさが尋常ではない。それ以前から、微妙に「静かな」感じを受けていたが、「異様」とまでは感じなかった。それが、03日には、確実に「異様」に感じ、同僚に「異常に静かじゃないか」と声をかけた。「でも、参院選は、もともと静かだよ」。そうなのかなあ。
 フェイスブックで、思わず「異常に静かだった」と、その日の「感想」を書いた。
 そのときは、なぜ静かなのかわからなかった。
 翌日(月曜日)、ネットで偶然、NHKがニュースの「週間予定」のボードに「10日 大相撲初日/世界遺産審議始まる」とは明示しているが「参院選投票」とは書いていないということを知った。
 あ、これなのか、と私はやっと「異常」の原因を知った。
 私は眼が悪いのでテレビは見ない。だから、どんなことがテレビで話題になっているか知らなかった。当然、「参院選が話題になっていない」ということも知らなかった。報道されていないことを知らなかった。
 国政選挙なのに、報道しない。だれが、どんな主張をしているか、争点は何か、それを報道しない。これでは「静か」になるはずである。「静かさ」はテレビによってつくり出されたものだったのだ。
 なぜ、報道しないのか。
 「日刊現代 デジタル版」で元NEWS23のキャスター岩井成格が「このままだとメディアは窒息する」というタイトルのインタビューで分析している。
 2014年衆院選で、安倍がテレビに出演したとき「街頭の声」に苦情を言った。「アベノミクスへの批判が多い」。その苦情にテレビ局が萎縮した。「街録(街頭録音? 街頭録画? いわゆる「街の声」収録か)でアベノミクスに5人が反対したら、賛成5人を集めなきゃいけない。面倒だから報道そのものが減った。」
 当事者ではなく(いまは当事者ではないのだろうけれど)、まるで傍観者の発言だ。
 アベノミクスへの賛否が5対5が「公平/公正」な報道なのか。なによりも、「5対5」という捉え方が「民主主義」の基本から離れていないか。「数字」が対等なら、それは「公平/公正」というのは、まやかしである。
 「多様性」こそが民主主義の基本。「多様性」を認めないところには「多数決」の暴力があるだけだ。
 「街録でアベノミクスに5人が反対したら、賛成5人を集めなきゃいけない。」と考えることが、すでにメディアの衰退。敗北ではなく、自分から滅んでいっている。「民主主義とは何か」という問いかけを忘れてしまっている。
 「非正規社員からの反対の声」
 「介護休職しているひとからの批判の声」
 「年金が不安のひとからの声」
 などなど、それぞれは「ひとり」の声。
 反対の声5人、賛成の声5人ではなく、「賛成/反対」でくくらずに「多様な声」を集める。「大きな声」だけを拾い集めるのではなく、「小さな声」(言いたいけれど、言えずに我慢している声)を拾い上げ、それを紹介することが大事だ。
 だいたい、街頭で聞いた声の「賛否対比」が5対5か10対0か、そんなことは「国民」がきめることでメディアが決めることではない。5対5が、すでに「情報操作」。
 「5対5」にとらわれずに、どこまで多様な声を集めることができるか、ということにメディアは力をそそがなければならない。
 岸井は、テレビキャスターやめさせられ、「被害者」なのかもしれないが、「情報操作」に消極的に加担したという意味では「加害者」でもあるだろう。現役時代に、もっと発言すべきだった。「権力から圧力を受けた。そのため報道をねじまげてしまった」と現役のとき言うのは、「自分には権力の圧力を跳ね返すだけの力がなかった」と認めることになるから、現役時代に言うのは難しいかもしれないが、現役を退いてからそんなことを言われても視聴者は困ってしまう。(私は、テレビを見ていないので視聴者ではないのだが。)
 脱線してしまった。

 テレビが報道しないと、もう、どんなことも「起きていない」ことになる。「存在しない」ことになる。それは「事件」だけでなく、「意見」の場合はさらに「存在しない」ということが「極端」になってしまう。問題が「深刻化」する。
 安倍は選挙戦を通じて「憲法改正問題」を大声ではつたえなかった。そのため、その問題は「存在しない」ことになった。野党は懸命に「安倍は憲法改正問題を隠している」と指摘したが、それはテレビで放送されないので、「存在しない」ことになった。
 それに先立ち、安倍は、アベノミクスについ、安倍にとって都合のいい数字だけをあげた。野党が問題点を指摘し、同時に憲法改正問題について触れたのだが、アベノミクスの問題点を指摘する声を紹介せず、「野党は憲法を改正させないと主張している」とだけ報道すると、アベノミクスの問題点は「存在しない」ことになった。アベノミクスの、安倍が取り上げる数字を評価するか、しないか、ということだけが「争点」として存在することになった。
 さらに参院選がおこなわれているということを報道しないと、参院選そのものが「存在しない」ことになった。と、言うと言い過ぎだが。参院選に立候補している「さまざまな声」が「存在しない」ことになった。選挙は「自民党+公明党」か「民進党+共産党」のどちらを選ぶかという二者択一のものにすりかえられてしまった。「小政党」や「諸派」と呼ばれる党の声は「存在しない」ことになった。「少数意見」のなかにも「真実」があるかもしれないのに、それを報道が封じてしまうのである。
 「テレビ報道以外にも報道はある。意見の伝達方法はある」という見方もあるだろうが、これは「非現実的」な指摘だ。「少数意見」は簡単にはつたわらない。
 「5対5」が「公平/公正」というルールは、議席の数に比例させて発言機会を与えないと議席の多い党には不利益になる(「公平」ではなくなる)という「論理」に簡単にすりかえられるだろう。50議席もっている自民党の主張を放送する時間は50分、1議席の社民党は1分、議席を持っていない新しい党は0分、ということになってしまうだろ。それでは新しい党をつくって「立候補」しても、主張を訴えることができない。
 「数」というのは、民主主義においては「最終決着」(最後の手段)であって、スタートではない。いきなり「多数決」の原理(数の原理)をあてはめるのではなく、少数意見にも耳を傾ける。多様な意見のぶつかりあいのなかで、いままで気づかなかったことに気づきながら議論を深めていく、というのが「民主主義」の原則であるはずだ。理念であるはずだ。この「理念」を「現実」に変えていくために、テレビを初めとするメディアは何をすべきか。そのことが置き去りにされている。
 参院選がおこなわれている、そこではこんな議論がされているということを放送しないことで、テレビは「民主主義」を壊したのだ。「多数意見」を簡単に支持して、「少数意見」を抹殺したのだ。「議論」によって理解を深めるという生き方そのものを否定したのである。
 そうすることで、「選挙結果」を誘導したのだといえる。メディアが間接的に「選挙操作」をしてしまったのだ。

 今回の参院選では、党首の公開討論は一回しか開かれなかった。各党首のスケジュール調整ができなかったということだが、これは、とても奇妙である。
 テレビ局で勝手に「党首公開討論会」のスケジュールを決め、党首を呼べばいい。党首が来れないところは代理でだれかが出ればいい。「党首討論」ではなく「政党当討論」にしてしまえばいい。
 自民党では「発言能力」のある人間が安倍しかいないということはないだろう。もし、そうならそうで、そういう「人材不足」が大きな問題になる。そんな党に国をまかせていいのか、という大問題が起きる。
 出て来ない党は党で、テレビ局の責任ではない。すべての党に参加を呼びかけた、という「事実」があれば、それは「公平/公正」である。安倍がスケジュール上参加できないのに党首討論会を開くのは「不公平/不公正である」と主張するのは、「多数派」の暴力である。「出るな」とだれも言っていない。出て討論してほしい、本人が出れないならだれか代理を出せばいい、と言うだけのことである。
 毎日、党首討論会(政治討論会)を開いたと仮定してみよう。ある日は安倍が出られない。ある日は岡田が出られない。そういう「ばらつき」があっても、複数回の「チャンス」があれば、それは「公平/公正」だろう。少数派に主張の機会を与えないということが、「不公平/不公正」なのである。

 これから先、改憲問題がもちあがったとき、どんな問題点があるか、テレビはやはり報道しないだろう。報道しないことで、「多数意見」がそのまま「多数派」として通ってしまう。
 報道しないことは「中立」ではなく、「議論」の否定、「民主主義」の否定なのであると言い続けよう。
 だれが、この「報道しない」という作戦を指揮したのか知らないが、あまりにも巧妙な、「静かな」やりくちである。「卑怯な」やり口である。
 安倍は、自分の「主張」が正しいと言うのなら、きちんと討論、対話すべきである。
 「報道」が民主主義を否定する形で動くなら、私たちは別の形で民主主義を取り戻さなければならない。「報道」に頼らずに、意見をひとりひとりに「手渡し」する方法を考えないといけない。どこかで、粘り強く発せられている声を受けとめ、伝達していく方法をつくり出さなければいけないのだと思う。
 これから始まる「憲法改正論議」をメディアがどうつたえるか、そのことをしっかり見つめたいと思う。参院選の「争点」として報道された「アベノミクス」をどう報道していくのかも、同時に、しっかり見つめたい。「戦争法案」も「TPP」も安倍はしっかり説明すると言っていたが、どうしっかり説明したのか、テレビを初めとするメディアは伝えていない。安倍が「説明する」と言ったことさえ「事実ではない」と葬り去ろうとしている。
 私はテレビを見ないが、テレビでこういっていた、という声を聞いたことがない。とても、「静かだ」。この「静けさ」が、私にはとても異常に感じられる。

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ジョン・カーニー監督「シング・ストリート 未来へのうた」(★★★)

2016-07-11 08:25:17 | 映画
監督 ジョン・カーニー 出演 フェルディア・ウォルシュ=ピーロ、ルーシー・ボーイントン

 アイルランドの中学生の少年が、学校の近くで「美人」を見つける。こころを奪われる。なんとか近づきたい。で、「バンドをやっている。プロモーションビデオをつくるので出てほしい」と口走って、それから急いでバンドをつくる。
 その、どたばたがおもしろい。
 バンドをつくり、曲をつくりはじめる。そうすると、それにあわせて「感情」も動いていく。感情が動いて、それから音楽ができるというよりも、音楽をつくっているうちにだんだん自分の感情がはっきりしてくる。
 この変化が、最初の、つたない歌から、だんだん上手くなっていくのにあわせて、気持ちが強くなる。明確になっていくいく、という感じがなかなかいい。
 「音楽」が好きといっても、音楽狂いという感じでもない。アイルランド人は音楽好きだが、主人公の少年の音楽好きは、兄が音楽好きなので、それにひっぱられて音楽が好きという感じ。どの曲がいい、だれそれの演奏がうまい、と言うのも、実は兄の受け売り。自分自身の「実感」ではないのだが、兄が言っていたことを友達に言うと、友達が感心する。「あ、おまえ、音楽がわかっているじゃないか」。で、その友達の反応を見て、「兄の言うことは正しかったんだ」なんて納得する。
 主人公の少年は、もっぱら作詞とボーカルなのだが、その詩は、実際に体験したことの断片。それを音に乗せると、だんだん「ことば」が「実感」そのものになる。少女のひとみに光が射して、そのときひとみの色がかわる、表情がかわるということばを音に乗せると、体験が「物語」のように動き出す。自分の「物語」なのに、他人と共有する「物語」になる。他人は、最初は曲をつくってくれる友人、次に一緒に演奏する仲間、さらにそれが初恋の少女そのものへと「共有」されていく。
 音楽を聴いて少女は少年がどれくらい少女のことが好きかがわかるし、少年も自分の気持ちが少女に伝わっているらしいことが、わかる。
 でも、わからないこともある。
 少女にはボーイフレンドがいる。そのボーイフレンドと自分とを比べたとき、少女はどっちの方が好きなのか、「実感」がない。わからない。
 好きになった少女が「悲しい幸せ」と言う。これも、わからない。いや、これがいちばんわからない。少女が「悲しい幸せ」を味わっている。その瞬間に「生きている」と実感しているということが、わからない。
 「悲しい」と「幸せ」は反対の概念。そんなものが「ひとつ」になるということが、わからない。その「わからない」ことを手探りでさぐりはじめると、少年は、またひとつ成長する。
 少女がボーイフレンドと一緒にロンドンへ行ってしまった。ロンドンで捨てられ少女がダブリンにもどってくる。その、別れと出会いのなかで、少年は「バラード」をつくる。「きみを探している」という歌だ。「きみ」はそこにいる。でも、その少女が何を感じているかわからない。だから「きみを探している」は、「きみの気持ちを探している」であり、それは「自分の、どうすることもできない気持ちそのものをどうすればいいのか、探している」ということでもある。「きみを、そして自分を探している。見つからない。だから、悲しい。しかし、歌を歌っているとき、少女に会っている。きみを見つけているし、自分もここにいる。だから、幸せ」。そんな感じかな。
 みんな、バラードなんかには興味がない。演奏すれば、盛り上がったムードがしらける。わかっている。でも、歌いたい。歌わずにはいられない。そこにも「悲しい幸せ」がある。
 この歌(演奏)を少女はテープで聞きながら、演奏会へ駆けてくる。で、めでたくハッピーエンドなのだが。
 途中の、二人で島にピクニックするときのシーンが好きだなあ。はじめてキスをして、少し照れて、クッキーを食べる。照れ隠し。でも、またキスをしたくなる。少女もクッキーを食べているので(口の中にクッキーがあるので)、「待って」という。きちんとクッキーをのみ込んでから、キスをする。この、ちょっとばかばかしい手間が、初々しく、美しい。ふたりのタイミングをあわせるには、手間がいる。それが「肉体」の動きそのものとして、わかる。「共有」される。
 ほんとうのラスト、おじいさんの形見の小船でイギリスへ向かうシーンも好きだなあ。雨が降っている。よく見ない。大きな船にぶつかりそうになる。少女が「危ない」と声をかけ、少年が必死で舵を切る。船の上から客が見ている。その船を追いかけるようにして、イギリスへ向かう。あの船は、少し兄に似ている。そう感じさせるところが、なんとはなく、いい。
                     (2016年07月09日、KBCシネマ1)



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