自民党憲法改正草案を読む(9)(2016年07月08日)
詩を読むのと同じ方法で「憲法」と「自民党憲法改正草案」読む。「動詞」と「主語」の関係をつきつめて読む、ということをしているのだが、これはどういうこと? とさっぱりわからない部分もある。
(現行憲法)
第十八条
何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。
(自民党憲法改正草案)
第十八条
何人も、その意に反すると否とにかかわらず、社会的又は経済的関係において身体を拘束されない。
2 何人も、犯罪による処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。
現行憲法の「その意」は「罪を犯して服役しているひとの意思」であると思う。「苦役」が何を指すかはわからないが、「強制された労働」と読み替えてみる。服役している人は、その仕事がいやでも、その仕事をしなければならない、という意味だと思う。
しかし、改正草案第一項の「何人も、その意に反すると否とにかかわらず、」の「その意」の「その」はどうだろう。「その人の」という意味だろうか。その場合「その意に反する」は「わかる」のだが、「否とにかかわらず」がまったく理解できない。「その意に反していない」なら、そういうときは「身体的拘束」を感じる?
現行憲法も改正草案も、犯罪者に対しては「服役」を求めている。
なぜ、現行憲法の「いかなる奴隷的拘束も受けない。」を、改正草案では「その意に反すると否とにかかわらず、社会的又は経済的関係において身体を拘束されない。」と言い直したのか。「奴隷」というものが現在は存在しないから、それを「社会的又は経済的関係において身体を拘束」と言い直しているのだとしても、「その意に反すると否とにかかわらず」の「否とにかかわらず」が、わからない。
「奴隷」の反対の概念(ことば)は「自由」である。
だから現行憲法は、「何人も自由である。ただし、犯罪者はその自由を奪われ、自由ではなくなるときがある」と言っているように思える。
改正案は、「奴隷的拘束」を言い直すとき「身体を拘束されない」と言い直している。ここも、何とも、奇妙な感じがする。
「奴隷」って「身体」だけの問題?
「精神的奴隷」という言い方があるなあ。
現行憲法は、「身体」だけではなく、「精神的奴隷」のことも「視野」に入れているのではないか、と私は思う。
逆に言うと、改正草案は、「身体を拘束されない」と書くことで、「精神」は別問題と考えているのかもしれない、という「疑念」が浮かぶ。身体は拘束しない。しかし、精神は拘束することもあるといいたいのではないか、と疑念が生じる。
何を隠しているのだろう。
私の「読み方」では、何ともわからない。
ただし……。
(現行憲法)
第十九条
思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
を読むと、第十八条の「奴隷的拘束」の「奴隷」に「精神的奴隷」が含まれているのではないか、という私の「予感」が「正しい」もののように思えてくる。
どんなことがらでも、一回で言い切ることはできない。大事なことは「ことば」を変えて、何度でも言い直す。「奴隷的拘束」だけでは言えなかったことを、現行憲法は、ここで言い直している。「奴隷」には「身体的奴隷」と「精神的奴隷」がある。「身体的奴隷」はもちろん許されないが、「精神的奴隷」も許されない。その「精神」というものを、「思想及び良心」の「自由」と言い直している。これを「国」は侵してはならない。
第十八条の「その意に反する」とは「その人の精神、思想に反する」という意味である。服役している犯人が「爆弾テロリスト」である場合、毎日椅子をつくるのは彼の精神、思想に反するだろう。でも、こういうことを書いていいのかどうかわからないが、爆弾テロリストは椅子をつくりながらも「服役がすんだら、今度こそ爆弾テロを成功させて、社会を改革する」と思いつづけることはできる。「思想」は侵せない。
現行憲法は「思想及び良心の自由は、(国は)これを侵してはならない。」と国に「禁止」を申し渡しているのだが、それは国がしようとしてもできないことでもある。
これを改正案では、
第十九条
思想及び良心の自由は、保証する。
と「改正」している。「侵してはならない」と「保証する」の違いについては、すでに書いてきたので簡略に書くが、「保証する」というとき、そこには「国が理想とする思想及び良心」があり、その「理想」が一致するかぎり、その「自由」を「保証する」と言っているように思う。
爆弾テロの例は極端すぎるが(いい例が思いつかないが)、改正草案はそういう「思想」を「国」は「保証はしない」と、間接的に言っている。つまり、「思想」を「国」は「管理する」と言っている。
(ある国の政府、ある組織の権力ならば、「爆弾テロ」の「思想」を推奨する。つまり、それこそが「正しい思想」だと後押しするだろう。)
改正草案は、「思想及び良心」を選別し、それを「保証する」。この「保証する」は、別な言い方をすると、「理想とする思想及び良心」というものを提示し、それによって国民の「精神を拘束する」ということになるかもしれない。
私の書き方は「極端」すぎて誤解を与えるかもしれないが。
「思想及び良心の自由」というのは、「奴隷的拘束」があいまいだったように、とても「定義」としてあいまい。だから、その「典型」として現行憲法は「信教(宗教)」取り上げて、そのことを言い直している。あるいは補足している。
(現行憲法)
第二十条
信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
「信教(宗教)」は「自由」。仏教だろうがキリスト教だろうがイスラム教だろうが、何を信じても、それを「侵さない」。そのかわり、どの宗教団体も「国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」これは、言い換えると国はどの宗教も「保証しない」という意味である。
現行憲法は、「精神の自由」は「侵さない」と同時に「保証もしない」と言っているのである。
ここで「保証する」にもどると。
「保証する」とは、あるものに「特権を与える」ということでもある。「ある思想、ある良心」にしたがって行動するなら、その人の「権利」を「保証する」ということ。
改正憲法は、「思想」によって国民を選別しようとしている。それは別な言い方をすると、ある「思想」によって国民を拘束し、その「思想」に従うものを「優遇する」ということでもある。
そう読むと、改正草案が第十八条で「奴隷」を「身体(的拘束)」と限定した意図がわかる。
(現行憲法)
第二十一条
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
(改正草案)
第二十一条
集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。
2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。
現行憲法にはない「第二項」を追加している。そしてそこに「公益及び公の秩序」ということばが出てくる。これは第十三条に出てきたことばである。現行憲法第十三条の「公共の福祉」を改正草案は「公益及び公の秩序」と言い換えた。言い換えるとき、そこに「国の」という意味を含ませた。「国の福祉」とは言えないが、「国の利益、国の秩序」と言い換えることはできる。改正草案が「公」ということばをつかうとき、それは現行憲法の「みんなの」という意味ではなく「国の」である。
(現行憲法)
2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
(改正草案)
3 検閲は、してはならない。通信の秘密は、侵してはならない。
これについては、すでに書いたが、現行憲法の「検閲は」は「主語」ではなく「テーマ」。「主語」は書かれていないが「国は」である。「検閲については、国はこれをしてはならない。」
憲法は国と国民との関係を取り決めたもの。国は何をすべきか、何をしてはならないか、国民は何をしてもいいかを決めたもの。犯罪は「公共(みんな)の福祉」に反するからしてはならない。すれば「服役」しなければならない。しかし「みんなの福祉」に反しないなら国民は「自由」。
でも「国」は「自由」ではないのだ。
「検閲は、これをしてはならない。」(現行憲法)の「これを」について、思いついたことを補足しておく。私は「これを」を「検閲は」という「テーマ」を再提示したものと読んでいる。「検閲については(テーマ)、国は検閲をしてはならない」という「意味」にとっている。「国は」という「書かれていない主語」をそこに補って読む。
「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」(現行憲法)も同じ。「表現の自由は」というのは「テーマ」、これを「保障する」。このとき、やはり「国は/保障する」と読むのだが。
これは「国は」ではなく、「憲法は」と読んだ方がいいかもしれない。
「憲法」は「国民」と「国」との関係を定めたもの。「国」に対して「……してはいけない」という「禁止」を明示したもの。「保障する」は「禁止」ではない。だから、それは「国」と読むよりも「憲法」と読んだ方が、憲法のあり方が明確になる。
憲法は「保障する」。それは、言い換えると「国に……してはならない」という禁止事項をあてはめること、と読み直すと、憲法の全体が「整合性」がとれるというか、「文体の経済学」が成り立つように思う。
いままで私は「国は/保障する」と読んできたが、「憲法は/保障する」、そのために「国に/……を禁じる」と言っているのだと思う。「保障する」ということは、「守る」ということだが、その「守り方」として、「だれそれに、これこれを禁じる」という方法をとる。それ以外に「保障」の仕方はないかもしれない。
で、少しもどるが、
(改正草案)
第十九条の二
何人も、個人に関する情報を不当に取得し、保有し、又は利用してはならない。
この改正草案は、国民に対し「してはならない」と禁じているが、「国は」とは書いていない。これが大問題だ。
国民には禁止しておいて、国は「個人に関する情報を不当に取得し、保有し、又は利用して」もいいと言っているのだ。個人情報を不当に取得し、個人の「思想及び良心」を勝手に「判定」し、差別する。そういうことができる(そういうことをするぞ)と言っているのである。
現行憲法は、国に対して「……してはならない」と「禁止」を命じているが、改正草案では国民に対して「……してはならない」と「禁止」している。「禁止」を命じる相手がまったく逆である。
こういうとき、何が、あるいはどういうものが自民党改正草案の「理想とする思想」か。
第二十四条に、それが明確に書かれている。
(現行憲法)
第二十四条
婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、
相互の協力により、維持されなければならない。
(改正草案)
第二十四条
家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。
2 婚姻は、両性の合意に基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
現行憲法は「個人」を尊重している。「個人の権利/思想・良心の自由」を尊重している。婚姻は「個人」と「個人」の関係。「両性の合意のみ」と「のみ」をつけくわえることで、それを強調している。
改正草案は、「のみ」を削除し、さらにその前に「家族」を持ち出している。「家族」とは「個人」ではない。「集団」である。「集団」が先にあって、「個人」は消されている。これは「家父長制」、父親の支配権を絶対とする昔の「家族」を想像させる。たぶん「家父長制」の相似形としての「国家」を自民党は理想としている。その理想にあう「思想」を国民に強いているのである。
別項をみると、さらに驚く。
(現行憲法)
2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。
(改正草案)
3 家族、扶養、後見、婚姻及び離婚、財産権、相続並びに親族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。
現行憲法が「個人」の尊重からスタートしているから、まず「配偶者の選択(結婚)」からはじまり、その後「離婚並びに婚姻及び家族」と「出産/こども=家族」という形で世界がとらえられている。離婚しても「個人」と「個人」のときもあれば、そこに「家族」(こども)がいるときもあるから、それに配慮しているのだが。
改正草案は、まず「家族、扶養、後見」という「個人」の「まわり」をふくめた人間関係がテーマになる。最初の「家族」とは「個人」の「父親/母親」のことだろう。「家族」とは「父親」がいて「母親」がいて「こども」がいる。その「こども」が結婚して、そこから「親族」へと広がっていく。
「家族」だけではまだ不満で「親族」をふくめて「個人」を拘束しようとする姿勢がここに見える。
「国家」を「家族/親族」のようにして支配しようとする自民党の「思想」が見える。そこには「個人」の「自由」などない。