詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

詩集「改行」へ向けての、推敲(3)

2016-07-17 22:44:25 | 詩集『改行』草稿/推敲
詩集「改行」へ向けての、推敲(3)

(11)あの部屋の、

本のなかの男に電話をかけたことがある。
呼び出し音がつづくばかりだった。
本のなかの、あの部屋は空っぽで足跡の形で床がところどころ光っている。
光っていなところは乾いたほこりだ。
たったひとつ残されている所有物、電話の音は
「テーブルや使い慣れた食器があったときよりも大きく鳴り響いた」

電話を切ると耳のなかが暗くなる。
本のなかの、あの部屋は夏になる前の光の頼もしさに満ちているのに。











(12)私は黙って聞いている、

私は黙って聞いている、あなたの沈黙を。
本のページをめくり、行をたどる指がとまる。
前のページにもどり首を少し傾ける。
ほほがかすかに色づいてふくらみ、
瞳の明るい色が反射する。
あなたの体のなかの、息を吸い息を吐く音楽。
私がそれを聞いたことをあなたは知らない。
私は黙っている。











(13)消えた

テーブルが消えた
部屋は、一辺の長さが正確になった

あざみの野を越えて
真っ直ぐなひかりが窓から入ってきて
鏡のあった場所のやわらかさにとまどった

舞い上がろうとするほこりの粒粒
ひとの形になろうとするのか

夕方になれば、
星がふたつみっつ散らばって消える











(14)背徳と倦怠

背徳と倦怠がよりそって
ひらがなに満ちた感情をくすぶらせている小説を読んでいたら
ことばが逃げ出した
足裏のしろいくぼみを強調する形で親指が内側にまげられ
無感覚になるかかとと脱力するふくらはぎのあいだ
女の足首のカーブを描写していたことばが

いったい足首のどこに懸想していたのか
どんな意味を内部に隠していたのか今となってはわからない
取り残されたことばたちは
逃亡の夢を嫉妬のように育てはじめる

それにしても逃走したことばの残した断面の、なんと乱反射することよ
磨き上げられた鏡か、神話の中に咲く花のよう。
あやしくつややかな それが怠惰だと
逃げ出したことば以外のことばは気づいていなかった










(15)忘れてしまった

隠し通すためにさらに話さなければならないと思ってドアを開けたのだが、
隠さなければならないという気持ちだけが残っていて、
ほかはすべて忘れてしまった。
女が椅子とテーブルを動かして鏡に映らないようにしているのが見えた。
そんなことはもちろん言ってはいけない。

何かに気がついてしまったということを悟られることと、
気がつくということが伝染してしまう。
ので、後ろ手で閉めたドアの隙間から私は私を逃がす。
のだが、逃げていく私は逃げる寸前に私の背中を見る癖があり、
そのときの目を私は鏡のなかに見る。
そういうことはしばしば起きたので、
鏡のなかでは何もかもがわかってしまっているかもしれない。

わかったからといって得になるものじゃない、と
のどの奥でかすれた声が動いている、
頸動脈をとおって耳の内部をくすぐっている、

私がことばを逃がしてしまって、
私がことばにつかまるのだ。










(16)思い出すだろうか、

自転車が逆方向を向いているのは、
ふたりが別れるからだろうか、
いまここへきて出会ったのだろうか。
ことばはどちらにも加担できる。

しかし、
そこがスズカケの葉が落ちている急な坂道であっても、
と書くのは抒情的すぎる。

二人の横をだれかが本をかかえて通りすぎる。
その人は誰か。
ひとりが顔をそむけると、
突然過去がやってくる。

本をかかえた人が振り向いてみつめのは、
どちらを確かめるためだったのだろう。
ことばはいつか思い出すだろうか。
あるいは、忘れてしまったと嘘をつくだろうか。










(17)破棄された注釈

「積み重ねられた本のあいだに挟まった手紙」ということばはあとからやって来たのに芝居の主人公のようにスポットライトを要求した。

「鍵を壊された引き出し」を傍線で消して、「倒れた椅子の形を残して薄くひろがるほこり」ということばに書き換えようとするこころみがあったような気がした。
「女が、別の女に似てくると感じた」ということばは書かれなかったが存在した。

「タンスの内側の鏡」は「見る角度によって空っぽの闇を映した」ということばになったが、推敲しあぐね、丸められた紙といっしょに捨てられることを欲した。











(18)彼、

彼はいつも二本の鉛筆を同時につかう。
濃くやわらかい鉛筆と薄く硬い鉛筆を重ねて動かす。
二本の線は、はみ出していく輪郭と隠れる影になる。
頬骨顔にひそんでいた欲望は、ある瞬間ははじき出され、別の瞬間はおびえる。
耳は甘い舌のように乱れ、拒絶をなめる唇のように誘う。
眼は他人のような嘘とあからさまな真実を受け入れている。
それは自画像なのか、恋人の肖像なのか。











(19)詩のことば

女が歩いてくる。服が揺れる。
しなやかに光る布が、女の体の動きを少し遅れて反復する。
女の欲望がめざめて
表にあらわれてくるようだ。

詩のことばも、そんなふうだったらいい。

読んだ人のまわりで
ことばが揺れる。
意味をほどかれたことばが
人のおぼえていることを
少し遅れて反復する。
言いたかったことが











(20)二度目の手紙

手紙を書き直すとき、あの部屋を思い出した。あの部屋の、シェードのかかったスタンド。その下にたまっている黄色い色。バニラアイスクリームの縁がやわらかくなるときの感じに似ていた。それは目がもっていた記憶か、手がもっていた記憶か。

三度目の手紙を書き直すとき、黒い男があらわれた。影のように半透明。「夢のなかで牛乳をこぼした、ということばを傍線で消して、夢のなかで沈黙をこぼした、と書き換えなさい」。もうひとりの私だろうか。伝言が消えるとき、哀しみという耳鳴りになった。

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山田由紀乃「窓の外は夜」

2016-07-17 14:05:01 | 現代詩講座
山田由紀乃「窓の外は夜」(現代詩講座、2016年07月14日)

 詩にひかれるとき、全体にひかれるというよりもある一行にひかれ、それだけでその作品が好きになるというものがある。山田由紀乃「窓の外は夜」は、私とにっては、そういう作品だ。

窓の外は夜     山田由紀乃

花屋の店先から溢ふれながら
濡れた舗道を照らしている
ゆりの白ミモザの黄色カーネーションのピンク

鬱蒼とした街路樹をつたい
小雨をよけて歩いた
夕暮れの街角
パーマ屋の二階の画廊はもうそこ

狭い部屋に大きなテーブルがあったり
段差があったり 集まった人が静かに
没後二十年武満徹についての講演を聞いている

肩を寄せ合って座る空間に
陰影深くひっそりとその人が居る

ギターリストによる演奏があった
ビートルズのヘイ・ジュウド武満徹編曲だ

狭い部屋は熱気が立ちこめ
窓を開けて外気を入れた
窓の外は夜 小雨を飛ばして車が走る
ヘイ・ジュウドは佳境にある

ふいに音が近づきわたしを抱きしめた
濃い密度 音は息を吐いたのか止めたのか
長いこと忘れていた抱擁 ひとを愛すること
赤ん坊を抱いた子どもを抱いた友を抱いた
恋人を抱いた母を抱いた

そしてわたしも抱きしめられた
窓の外の夜の音もこの部屋に流れている

 私が好きになった行は七連目の「濃い密度 音は息を吐いたのか止めたのか」。特に「音は息を吐いたのか止めたのか」がとてもすばらしい。音が何かに驚いている瞬間が描かれている。音が自分の音に驚いたのか。音楽を聴いているひとの「呼吸」に驚いたのか。どちらなのかわからないが、音と音楽を聴くものが「一体」になっている。その感じがとてもいい。あ、そうか。音も音楽を聴いているひとの「呼吸」を、感情の動きを聞いているのか。聞きながら変化しているか。そして、その行の強さが、その後のことばの展開を切り開く。(先の行を別のことばで言い直す。)そのときのゆるぎなさが、とてもいい。

 この作品を受講者は、どう読んだだろうか。

<受講者1>「ヘイ・ジュード」なのにジャズが流れている。
      いま/ここにいながら、心がいろんなところに行く感じ。
      音に強いひと、敏感なひとだと感じた。
      「音は息を吐いたのか止めたのか」がいい。
      こんなふうに感じたことがない。
      音への感じが新鮮。
<受講者2>後半がいい。音が聞こえてくる。音楽を聴いている感じになる。
      ただ、前半と分裂している感じがする。
<受講者3>音楽が聞こえてくる。静かだ。
      音楽が山田さんを抱きしめる。いいなあ。
      小さな部屋全体が音楽の空気に満ちている。
      最初の二連があって、夜がある。
      「小雨をよけて歩いた」がとてもいい。
      情景を描くことで、後半への期待感が生まれる。期待感がある。
      説明のようだけれど、「情景」になっている。
<受講者4>幸福感があって、きれい。
      七連目の「抱擁」「抱く」がいい。特に「母を抱いた」がいい。
<受講者3>いいよねえ。
<受講者4>最終連がいい。
      特に最終行「窓の外の夜の音もこの部屋に流れている」が音楽。
      気になったのが「パーマ屋」ということば。
      いま、こういうかなあ。
<受講者3>パーマ屋を書くことで、時間を超える感じ。

 全員が後半に感動している。
 前半は、私も、ひとりの受講者が言ったように、気に食わないのだが、別の受講者が言った「情景」という指摘はすばらしいと思う。
 夜を歩いていく。小さなコンサートに向かう。そのときの「期待感」が、いつもの街をちがったふうに見せる。気持ちが、いつもと違った街を見つけ出す。何気なく素通りしてしまう花屋の花も、一本一本があざやかに見えてくる。それが「肉体」にはねかえってきて「小雨をよけて歩いた」という動きになる。
 あ、美しい。
 他人と一緒に詩を読むと、見落としていたものが見えてくるからうれしくなる。
 ただ、私は「鬱蒼とした」という表現が気になった。「鬱蒼とした」ということばに頼って、街路樹を見ていない。書かれている「意味」はわかるが、何が書かれているのか「具体的なこと」がわからない。
 一連目の「ゆり」の一行と比較すると、その違いがわかる。「ゆり」の行では「具体的な花の色」がわかる。見える。でも、その「意味」はわからない。いや、「意味」は書かれていないが、書かれていないがゆえに「わかる」。美しい、華やか、いきいき……いろいろな感じが花の色の描写から「わかる」。もし、ここに「華麗な色彩のハーモニー」と書いてあれば「意味」はもっと簡単に「わかる」けれど、なんだか「意味」を押しつけられたような感じで、きっと引いてしまう。「意味」を書かないことによって、「わかる」が深まる。読者が、「わかる」という方向へ加担していく。「わかりたい」とのめりこんで行くのだと思う。「鬱蒼とした」では「鬱蒼とした」以外の意味が動かない。のめりこめない。
 同じことは六連目の「ヘイ・ジュウドは佳境にある」の「佳境」についても言える。「意味」が簡単に特定されてしまっている。そこでは作者のことばではなく、「流通言語」が動いている。「説明」が動いている。
 私が感動した「音は息を吐いたのか止めたのか」は、「わかる」けれど、「説明」はできない。私は音楽と聴衆の呼吸が一体になると言ってしまったが、それは私の「誤読/思い入れ/作者の感じていることへの加担」であって、正しいかどうかわからない。「鬱蒼」や「佳境」のように、辞書で引いて、それで「わかる」ということがらではない。
 この「わからない呼吸」のようなものが、そのあとで「抱擁/抱いた/抱きしめられた」と言い直されているのも、とても美しい。「音は息を吐いたのか止めたのか」と書くことで、「説明」にならない何か、だれも語らなかった「真実」が、強く動きはじめる。
 「抱擁/抱いた/抱きしめられた」そのとき、ひとは「息を吐くのか止めるのか」。たとえば、母を抱いたとき、母は息を吐いたのか、止めたのか。山田自身は息を吐いたのか、止めたのか。どちらも一瞬。深い深い、一瞬だ。そのとき、ひとは、音楽を聴くのかもしれない。音が聞こえるのかもしれない。それは、やはり簡単にはことばにできない「音」だろう。
 そういう「音/音楽」が「ヘイ・ジュード」「ギター」「武満徹」を超えて静かに聞こえてくる。
 最終連/行も、とても気持ちがいい。
 楽器が奏でる音、ひとがつくったメロディーだけが音楽なのではない。街にあふれる「ノイズ」もまた音楽である。それはひとがつくった「音楽」を抱きしめるのか、あるいはひとが「音楽」をつくり「ノイズ」を抱きしめるのか。どう語っても同じところにたどりつくかもしれない。すべては「抱擁」する。「抱擁」のなかに、世界が「生まれる」。
 詩を書くとは、何かを「生み出す」ことなのだ。詩からは何かが「生まれる」。 

(次回は8月3日水曜日、18時から、福岡市中央区薬院、リードカフェ、地下鉄「南薬院」そば)    

*

谷内修三詩集「注釈」発売中

谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
「ことば」が主役の詩篇です。
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なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4200円)と同時購入の場合は4300円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。

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