岡田ユアン『水天のうつろい』(らんか社、2017年11月21日発行)
岡田ユアン『水天のうつろい』。巻頭の「ギフト」がおもしろい。
同じことばが繰り返されされながら動いていく。
ように、みえる。
しかし、どうも「奇妙」である。
ここには動詞がふたつある。「なぞる(なぞられる)」と「気づく」。
「なぞる」の「主語」は省略されている。そのために「なぞられている」という受け身の形で書かれている。
「気づく」の方の「主語」は「私」である。「気づいていない私」は「私は気づいていない」である。
このときの「気づく」とは、どういう「肉体」のうごきなのだろうか。
「私が(何かに)なぞられている」「(何かが)私をなぞっている」。しかし、それに「気づかない」(あるいは気づく)ということはふつうにあることである。感触がかすかならば「気づかない」ことがある。「気づく」ときは「肉体」が「なぞられている」と触覚が判断するときである。
いずれにしろ「なぞる/なぞられる」の「対象」は「私」である。
「対象」が「私以外のもの」の場合は、「なぞっている/なぞられている」は、どうなるか。「なぞっている」という動きは、「目」、あるいは「耳」でとらえることができる。「なぞるもの」を見る(たとえば、手を)、「なぞる音」を聞くということをとおして、把握することができる。
けれど「なぞられている」は、簡単には判断できない。「受け身」を正しくつかみとることはできない。「受け身」を理解するとき、「私」は「私」ではなく、「なぞられている対象」になっている。
この詩の書き出しでは、それが深く自覚されないまま、動いている。
「夜」と「私」は、岡田のことばを借りて言えば「あらわれる」のではなく、「にじみだしている」。「私」がにじみだしたのか、「夜」がにじみだしたのか。ふつうに考えれば、「私」が「にじみだされた」ということなのかもしれないが、逆に「私」が「夜」を「にじみださせた」。「私」から「夜」がにじみだし、その「夜」が何かに「なぞられている」ということが起きている。しかし、「私」はそれに気づいていない。「にじみだした夜」は「私」なのだが、「にじみだしてしまっている」、つまり「私」からすでに分離されているので、そこで起きていることを「私の肉体」に起きていることとは気づかないでいる、という具合かもしれない。
でも、気づかないままなのかというと、そうでもないのだ。
「私の肉体」をなんとか、そこで起きていることに組み込ませようとしている。「肉体」が「起きていること」のなかに入っていこうとしている。「起きていること」を「肉体」のなかに取り入れ、「世界」を「私」そのものにしようとしている。
「声が聞こえた(ようなので)」、「声を声だと思うことにした」というのは、未整理なことばである。だが、その「未整理」というか、「主/客」の入り乱れ、入れ替わりのような「場」で、ことばが動いている。その「あいまいな」、けれど、その「あいまい」を「リアル」と感じて、書かずにはいられない岡田がいる、ということを感じればいいのだろう。
このことばのあとに、
という、不思議な美しさに満ちたことばがつづく。
ここに出てくる「気づけない」は「私」には「気づけない」という「意味」なのだろうが、「気づけない声」を「声」自身が「気づけない」とも読むことができる。「気づけないでいる私」という「私」のかわりに書かれた「声」。
だが、なぜ「私」は「声」という比喩にならなければならないのか。比喩になることは、比喩をとおりこして、他者になることでもあるかもしれない。
たぶん、書かれていることばを学校教科書の文法にしたがって主語、述語に分類し、整理するだけでは、詩は読み通せないものなのだろう。
主語を入れ替え、動詞を入れ替えながら、その瞬間に動いているものをつかみとることが必要なのだ。
私の読み方は「誤読」なのか、間違っているのか、という「問い」は、さらに、「誤読なのか」と問うことは正しいのかと自分自身で問い直さなければならない。
とても刺戟的なことばの運動だが、残念なのは、後半、こうしたことばが「ストーリー(意味)」を追い始めることである。「意味」を書かないと落ち着かないのかもしれないが、落ち着かないものが詩なのだから、落ち着いてはいけないのだと思う。
*
詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。
ここをクリックし、「製本の注文はこちら」のボタンを押してください。
岡田ユアン『水天のうつろい』。巻頭の「ギフト」がおもしろい。
じんわりと夜がなぞられて、なぞられていることに気づいていない私は
山々を眺め、朝がたちあらわれるのを待っている。しかしたちあらわれる
ように朝はたちあらわれず、じんわりと夜になぞられて朝がしみだしてく
る。
同じことばが繰り返されされながら動いていく。
ように、みえる。
しかし、どうも「奇妙」である。
じんわりと夜がなぞられて、なぞられていることに気づいていない私は
ここには動詞がふたつある。「なぞる(なぞられる)」と「気づく」。
「なぞる」の「主語」は省略されている。そのために「なぞられている」という受け身の形で書かれている。
「気づく」の方の「主語」は「私」である。「気づいていない私」は「私は気づいていない」である。
このときの「気づく」とは、どういう「肉体」のうごきなのだろうか。
「私が(何かに)なぞられている」「(何かが)私をなぞっている」。しかし、それに「気づかない」(あるいは気づく)ということはふつうにあることである。感触がかすかならば「気づかない」ことがある。「気づく」ときは「肉体」が「なぞられている」と触覚が判断するときである。
いずれにしろ「なぞる/なぞられる」の「対象」は「私」である。
「対象」が「私以外のもの」の場合は、「なぞっている/なぞられている」は、どうなるか。「なぞっている」という動きは、「目」、あるいは「耳」でとらえることができる。「なぞるもの」を見る(たとえば、手を)、「なぞる音」を聞くということをとおして、把握することができる。
けれど「なぞられている」は、簡単には判断できない。「受け身」を正しくつかみとることはできない。「受け身」を理解するとき、「私」は「私」ではなく、「なぞられている対象」になっている。
この詩の書き出しでは、それが深く自覚されないまま、動いている。
「夜」と「私」は、岡田のことばを借りて言えば「あらわれる」のではなく、「にじみだしている」。「私」がにじみだしたのか、「夜」がにじみだしたのか。ふつうに考えれば、「私」が「にじみだされた」ということなのかもしれないが、逆に「私」が「夜」を「にじみださせた」。「私」から「夜」がにじみだし、その「夜」が何かに「なぞられている」ということが起きている。しかし、「私」はそれに気づいていない。「にじみだした夜」は「私」なのだが、「にじみだしてしまっている」、つまり「私」からすでに分離されているので、そこで起きていることを「私の肉体」に起きていることとは気づかないでいる、という具合かもしれない。
でも、気づかないままなのかというと、そうでもないのだ。
闇はどのような選択もまだ許されている紫を生んで消えてゆくので、
残り香だけは胸にとどめておこうとして深呼吸をする。そのとき、紫に与
えられ許されている選択が私の鼻腔をとおり湿り気をおびて希望のように
肺に入ってくる。
「私の肉体」をなんとか、そこで起きていることに組み込ませようとしている。「肉体」が「起きていること」のなかに入っていこうとしている。「起きていること」を「肉体」のなかに取り入れ、「世界」を「私」そのものにしようとしている。
これは私の希望なのかしみでてきた朝がつれてきた希望
なのか、ぼんやりと考えながら所在をとわなくてもいいとどこかから声が
聞こえたようなので私はその声を声だと思うことにした。
「声が聞こえた(ようなので)」、「声を声だと思うことにした」というのは、未整理なことばである。だが、その「未整理」というか、「主/客」の入り乱れ、入れ替わりのような「場」で、ことばが動いている。その「あいまいな」、けれど、その「あいまい」を「リアル」と感じて、書かずにはいられない岡田がいる、ということを感じればいいのだろう。
このことばのあとに、
耳の迷路をとお
ることなくやってくるようなので声だと気づけないでいる声があっただろ
う。
という、不思議な美しさに満ちたことばがつづく。
ここに出てくる「気づけない」は「私」には「気づけない」という「意味」なのだろうが、「気づけない声」を「声」自身が「気づけない」とも読むことができる。「気づけないでいる私」という「私」のかわりに書かれた「声」。
だが、なぜ「私」は「声」という比喩にならなければならないのか。比喩になることは、比喩をとおりこして、他者になることでもあるかもしれない。
たぶん、書かれていることばを学校教科書の文法にしたがって主語、述語に分類し、整理するだけでは、詩は読み通せないものなのだろう。
主語を入れ替え、動詞を入れ替えながら、その瞬間に動いているものをつかみとることが必要なのだ。
私の読み方は「誤読」なのか、間違っているのか、という「問い」は、さらに、「誤読なのか」と問うことは正しいのかと自分自身で問い直さなければならない。
とても刺戟的なことばの運動だが、残念なのは、後半、こうしたことばが「ストーリー(意味)」を追い始めることである。「意味」を書かないと落ち着かないのかもしれないが、落ち着かないものが詩なのだから、落ち着いてはいけないのだと思う。
水天のうつろい | |
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らんか社 |
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詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。
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