詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岡田ユアン『水天のうつろい』

2017-12-03 19:26:19 | 詩集
岡田ユアン『水天のうつろい』(らんか社、2017年11月21日発行)

 岡田ユアン『水天のうつろい』。巻頭の「ギフト」がおもしろい。

じんわりと夜がなぞられて、なぞられていることに気づいていない私は
山々を眺め、朝がたちあらわれるのを待っている。しかしたちあらわれる
ように朝はたちあらわれず、じんわりと夜になぞられて朝がしみだしてく
る。

 同じことばが繰り返されされながら動いていく。
 ように、みえる。
 しかし、どうも「奇妙」である。

じんわりと夜がなぞられて、なぞられていることに気づいていない私は

 ここには動詞がふたつある。「なぞる(なぞられる)」と「気づく」。
 「なぞる」の「主語」は省略されている。そのために「なぞられている」という受け身の形で書かれている。
 「気づく」の方の「主語」は「私」である。「気づいていない私」は「私は気づいていない」である。
 このときの「気づく」とは、どういう「肉体」のうごきなのだろうか。
 「私が(何かに)なぞられている」「(何かが)私をなぞっている」。しかし、それに「気づかない」(あるいは気づく)ということはふつうにあることである。感触がかすかならば「気づかない」ことがある。「気づく」ときは「肉体」が「なぞられている」と触覚が判断するときである。
 いずれにしろ「なぞる/なぞられる」の「対象」は「私」である。
 「対象」が「私以外のもの」の場合は、「なぞっている/なぞられている」は、どうなるか。「なぞっている」という動きは、「目」、あるいは「耳」でとらえることができる。「なぞるもの」を見る(たとえば、手を)、「なぞる音」を聞くということをとおして、把握することができる。
 けれど「なぞられている」は、簡単には判断できない。「受け身」を正しくつかみとることはできない。「受け身」を理解するとき、「私」は「私」ではなく、「なぞられている対象」になっている。
 この詩の書き出しでは、それが深く自覚されないまま、動いている。
 「夜」と「私」は、岡田のことばを借りて言えば「あらわれる」のではなく、「にじみだしている」。「私」がにじみだしたのか、「夜」がにじみだしたのか。ふつうに考えれば、「私」が「にじみだされた」ということなのかもしれないが、逆に「私」が「夜」を「にじみださせた」。「私」から「夜」がにじみだし、その「夜」が何かに「なぞられている」ということが起きている。しかし、「私」はそれに気づいていない。「にじみだした夜」は「私」なのだが、「にじみだしてしまっている」、つまり「私」からすでに分離されているので、そこで起きていることを「私の肉体」に起きていることとは気づかないでいる、という具合かもしれない。
 でも、気づかないままなのかというと、そうでもないのだ。

  闇はどのような選択もまだ許されている紫を生んで消えてゆくので、
残り香だけは胸にとどめておこうとして深呼吸をする。そのとき、紫に与
えられ許されている選択が私の鼻腔をとおり湿り気をおびて希望のように
肺に入ってくる。

 「私の肉体」をなんとか、そこで起きていることに組み込ませようとしている。「肉体」が「起きていること」のなかに入っていこうとしている。「起きていること」を「肉体」のなかに取り入れ、「世界」を「私」そのものにしようとしている。

        これは私の希望なのかしみでてきた朝がつれてきた希望
なのか、ぼんやりと考えながら所在をとわなくてもいいとどこかから声が
聞こえたようなので私はその声を声だと思うことにした。

 「声が聞こえた(ようなので)」、「声を声だと思うことにした」というのは、未整理なことばである。だが、その「未整理」というか、「主/客」の入り乱れ、入れ替わりのような「場」で、ことばが動いている。その「あいまいな」、けれど、その「あいまい」を「リアル」と感じて、書かずにはいられない岡田がいる、ということを感じればいいのだろう。
 このことばのあとに、

                          耳の迷路をとお
ることなくやってくるようなので声だと気づけないでいる声があっただろ
う。

 という、不思議な美しさに満ちたことばがつづく。
 ここに出てくる「気づけない」は「私」には「気づけない」という「意味」なのだろうが、「気づけない声」を「声」自身が「気づけない」とも読むことができる。「気づけないでいる私」という「私」のかわりに書かれた「声」。

 だが、なぜ「私」は「声」という比喩にならなければならないのか。比喩になることは、比喩をとおりこして、他者になることでもあるかもしれない。

 たぶん、書かれていることばを学校教科書の文法にしたがって主語、述語に分類し、整理するだけでは、詩は読み通せないものなのだろう。
 主語を入れ替え、動詞を入れ替えながら、その瞬間に動いているものをつかみとることが必要なのだ。
 私の読み方は「誤読」なのか、間違っているのか、という「問い」は、さらに、「誤読なのか」と問うことは正しいのかと自分自身で問い直さなければならない。
 とても刺戟的なことばの運動だが、残念なのは、後半、こうしたことばが「ストーリー(意味)」を追い始めることである。「意味」を書かないと落ち着かないのかもしれないが、落ち着かないものが詩なのだから、落ち着いてはいけないのだと思う。

水天のうつろい
クリエーター情報なし
らんか社

*


詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。

ここをクリックし、「製本の注文はこちら」のボタンを押してください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北朝鮮対策(安倍の沈黙作戦)

2017-12-03 09:34:20 | 自民党憲法改正草案を読む
北朝鮮対策(安倍の沈黙作戦)
             自民党憲法改正草案を読む/番外155(情報の読み方)

 すこし古いニュースだが。
 2017年12月01日、福岡市では北朝鮮のミサイル攻撃に対する市民の「防災訓練」というものがあった。下のURLはNHKのもの。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20171201/k10011243091000.html

 こういうニュースを見るたびに思うのは、もし私が北朝鮮の指導者だったら、ということ。福岡市にミサイル攻撃をするというのは、どれだけ「現実的」か。つまり、どれだけ「有効」か。私には、それほど「実のある」攻撃には思えない。言い換えると、福岡をミサイルで攻撃するということなど、私なら、考えない。
 ミサイルで日本を攻撃するなら、まず米軍基地を狙う。次に自衛隊の駐屯地。それから世界からの非難を覚悟してのことだったら原子力発電所を狙う。人口が多いところ、一般市民がいるところを攻撃するために貴重なミサイルをつかうはずがない。
 ミサイルはあくまでアメリカを「交渉」に引っ張りだし、有利な「条件」を引き出すためのもの。だいたい日本を攻撃するのが目的なら、わざわざアメリカ本国までとどくミサイルを開発する必要がない。そんな無駄なことをするなら、日本攻撃向けの小型のミサイルをたくさんつくった方が有効である。
 このことと、少し関連があるのだが。
 もし日本を攻撃するなら、ミサイルをつかうのは「もったいない」。もっと安上がりな方法を考える。最近、北日本の海岸を中心に北朝鮮のものと思われる不審船が漂着している。こういう「攻撃」を考える。「市民(漁民)」を装って、何人かを日本にもぐりこませる。そして「小規模」な攻撃をしかける。「拉致」もそういう「攻撃」のひとつだろう。しかも、各地で「攻撃」を展開する。「ゲリラ戦術」「人海戦術」で自衛隊の駐屯地を「攻撃」するだろうなあ。つかまっても「軍人」ではない、と言い張るだろう。日本の政策に怒りを覚えている「国民」という「名前」で「犯行」を実行する。簡単に言うと、「北朝鮮(政府/国家)」を名乗らない「テロ」である。
 私が北朝鮮の指導者であり、日本の「武力」に打撃を与えたいなら、そうする。ミサイル攻撃は、何もかもが失敗したときの、最後の「やけっぱち」の捨て身作戦である。

 もし北朝鮮からの攻撃に対する「防災」を真剣に考えるのだとしたら、私なら、「ハングル」を必須の外国語にする。ハングルを理解できれば、「上陸してきた」ひとの話していることがわかる。考えていることがわかる。これだけで、「防戦」は半分以上成り立つ。危ないことを話していたら、それを聞いた瞬間に逃げ出せばいい。危険には近づかない。そして、聞いたことを対処能力のある機関に「通報する」。
 どんなときでも、「他者」を理解することがいちばんの「防衛」なのである。「対話」こそが、「防衛」の最大の「武器」である。

 ミサイル攻撃にそなえて、頭を抱え込む「訓練」をするくらいなら、まずヘルメットを全国民に配布したらどうか、とも思う。アメリカの軍需産業に膨大な金をはらえば、アメリカは喜ぶだろう。ヘルメットの「発注」くらいでは怒るかもしれない。

 それとも。
 日本はこんなばかげた訓練をしている。こんな訓練しかしない国なら、いつでも「攻略」できる、と北朝鮮に思い込ませるのが安倍の作戦なのか。
 すごい「心理戦争」だなあ、と冗談でもいいたくなる。
 国民にこういう「訓練」をさせる以上、安倍は、北朝鮮の「攻撃対象」をどこと考えているのか、それを具体的に示して、国民に説明する必要がある。大気圏外を飛んで行くミサイルが、どうして日本を攻撃するのか、その「根拠」を示さないといけない。どのようにして、日本を「攻撃」するのか、その「方法」と「被害」のありようを具体的に示さないと、「訓練」にもならない。手で頭を抱え込み、うずくまるというのなら、恐怖を感じた瞬間にだれもが本能的にするだろう。「訓練」する必要なんか、私は感じないなあ。



#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 

詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
クリエーター情報なし
ポエムピース
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする