以倉紘平選詩集『駅に着くとサーラの木があった』(編集工房ノア、2017年12月20日発行)
以倉紘平選詩集『駅に着くとサーラの木があった』。巻頭の「千年」を読み、あ、感想を書きたい、と思った。でも、まだおもしろい作品があるかもしれない。二篇目は「約束」。あ、書きたい。
で、ほんとうに読み始めたばかりなのだが、感想を書く。詩集全体の感想にはならないのだが。
「約束」について、書く。全行は、こうなっている。
読み返すと、ちょっとわからないところが多い。「愛読書」というのは以倉の愛読書だろう。その愛読書に、なぜ、妻宛のはがきがはさまっているか。以倉宛のはがきなら自然だが、いくら妻だからといって、他人あての私信を自分の愛読書の「しおり」にするのは奇妙である。さらに、差出人は妻の教え子らしいが、妻はそれがだれなのかはっきりとは覚えていない。妻の教え子ならば、以倉は会ったことがないのだろう。会ったことがあるなら、そのことを先に書くだろう。
それなのに、以倉は
と書いている。
「女」って、だれ?
あ、ここがきっと、この詩のポイントだな。
「<中に私が必ずいるから>という言葉」と「女の現実」が対比されている。対比したあと度、最終連で「少女」が再び登場している。
この「女」と「少女」の関係に、何か、秘密のようなものがある。
でも、これは後回し。
この詩を読み始めたとき、私は以倉と同じように、
このことばに感動して、感想をぜひ書きたいと思った。書かなければならないことがあると思った。
何を書きたかったのか。
「中に」と「私」は言っている。(このとき、「私」がだれであるか、私=谷内は知らない。このことばが「絵葉書」のことばであることも知らない。だれが書いたかも知らない。)
でも、書きたい。
「中」って、どこ?
「私」が書いている「真夏の海」「入道雲」「ヨット」、すべてを含めた「場/世界」である。「来年 再来年」という時間は、「場/世界」の一部である。
「中」に「いる」というよりも、「私」が世界に「なっている」。
見えている何か、夏の光、入道雲、ヨットはすべて「私」なのだ。「私」がさまざまな「もの」になって「世界」に出現してきている。すべてのものとつながっている。すべてであることが「中にいる」ということなのだ。
そのうちの「ひとつ」につながると、それは「世界」のすべてにつながる。
そんな感じかなあ。
これは、いいなあ。
ここにあるのは、言われてみれば、たしかに「言葉」なのだ。「ことば」がすべてである。だれが書いたか、私は知らなかったが、その「ことば」に打ちのめされた。
以倉も、この「ことば」を書いた人間を知らない。「名前」から「女生徒」と推測している。「女」を推測している。女生徒は、そのあと「女」になっただろう。それがどんな「女」か、以倉は知らないが、以倉自身は「女」をいろいろ見てきている。一緒に生きている。(妻も当然そこにふくまれる。)でも、どんな「女」よりも、以倉は女生徒の「ことば」に感動してしまう。夏の海で、そこにあるものすべてを見て、このすべてが私だ、私はこの中にいる、私はこの世界になっている、入道雲であるとき私は消えている。ヨットを見るとき私は消えてヨットになっている。溶け込んで、「世界」そのものを生み出している。それが私だ、という主張が鮮烈に聞こえる。
それは、以倉が「なりたい私」である。
このことばを読んだとき、以倉は少女になって、同時に世界になっている。
最終連で「みえる」少女の姿は、以倉自身でもある。以倉は、少女のことばをとおして、以倉の「いのちの原型」を見る。以倉が消える。自分が消える。世界とどう向き合うかを知る。世界そのものになる。そして、どこまでも広がっていく。
「いのちの形」を認識のあり方(ことばのありかた)と言い換えてもいいかもしれない。
ことばを読んだ瞬間、自分というものが消え、世界そのものにつながる。世界と一つになる。そういうことを感じさせることばがある。
詩は、印象的な一行があればそれでいい、というけれど。
ことばは、たったひとつ、そのことばをとおして世界とつながれることばがあればいい。ひとつとつながれば、すべてとつながるのだ。
女生徒のことばをとおして、以倉は、すべての「女」とつながる。そのとき「女」を信じるというよりも、「女」のなかにある「女生徒のことば」を信じるのだ。
私はここからさらに「誤読」する。
「女生徒」は妻かもしれない。私は以倉の略歴を知らないから、これから書くのは空想(妄想)である。女生徒が以倉に絵葉書をくれた。それには冒頭のことばが書かれている。妻は、そのことを忘れている。「あら、そんなはがき出したかしら?」
以倉は、その女生徒と結婚した。妻となった女生徒をとおして、「女」のいろいろいな現実を見た。しかし、そうやって知った「現実」よりも、はがきの中の「中に私がいる」と書いた少女の方が「リアル」である。いつまでもいつまでも、以倉を「世界」へ引き戻してくれる。「世界」と人間、「世界」と「ことば」の関係/認識のあり方、あらわし方へと引き戻してくれる。そういう「力」を信じている。
少女が無意識に発しただろうことばの力、それを信じている。女の現実よりも。
もし、この葉書がほんとうに妻の教え子の少女のものであるとしても、そういう葉書(そういうことば)を受け止める妻は、どこかで少女としっかりつながっていた瞬間がある。そのつながりのなかに、以倉は、妻をとおしてつながっていくということになる。
この「つながる」力、ひとつとつながり、その「つながる力」をとおして「世界」そのものになる、世界の「中にいる」と同時に私が世界になるという融合の感覚。それを呼び起こすことば。それと向き合っている。
私(谷内)が読んだのは、以倉のことばなのか、以倉の妻の教え子の女生徒のことばなのか、あるいは妻が女生徒だったときに書いたことばなのか、そういう区別はなくなり、ただ「ことば」とつながり、世界になっていく。
いまは冬だが、夏の海へゆき、だれともわからない少女に「おーい」と叫んでみたい気持ちになる。
以倉紘平選詩集『駅に着くとサーラの木があった』。巻頭の「千年」を読み、あ、感想を書きたい、と思った。でも、まだおもしろい作品があるかもしれない。二篇目は「約束」。あ、書きたい。
で、ほんとうに読み始めたばかりなのだが、感想を書く。詩集全体の感想にはならないのだが。
「約束」について、書く。全行は、こうなっている。
<来年 再来年
もっと先の真夏の海で
こんな入道雲 こんなヨット
こんな海を見たとき
中に私が必ずいるから
大きな声で呼んでください>
書棚の愛読書に挟んである暑中見舞状
二本マストに五枚帆のヨット
鉛筆で書かれた背高大入道に
幼さの残る文字で即興詩が書き込まれている
昭和四十四年八月三日 女生徒の署名がある
宛名には妻の名前が記されている
昔 中学生を教えた彼女の教え子の一人らしい
二十年以上も前の印象はもう薄れている様子だ
ぼくはこの絵葉書の即興詩
<中に私が必ずいるから>という言葉を
その後の女のどんな現実よりも信じている
ぼくは沖に出ていくヨットに大きな、大きな声で叫ぶ
すると 日焼けした顔に白い歯をみせ
ちぎれるように手をふる少女の姿がみえるのである
読み返すと、ちょっとわからないところが多い。「愛読書」というのは以倉の愛読書だろう。その愛読書に、なぜ、妻宛のはがきがはさまっているか。以倉宛のはがきなら自然だが、いくら妻だからといって、他人あての私信を自分の愛読書の「しおり」にするのは奇妙である。さらに、差出人は妻の教え子らしいが、妻はそれがだれなのかはっきりとは覚えていない。妻の教え子ならば、以倉は会ったことがないのだろう。会ったことがあるなら、そのことを先に書くだろう。
それなのに、以倉は
ぼくはこの絵葉書の即興詩
<中に私が必ずいるから>という言葉を
その後の女のどんな現実よりも信じている
と書いている。
「女」って、だれ?
あ、ここがきっと、この詩のポイントだな。
「<中に私が必ずいるから>という言葉」と「女の現実」が対比されている。対比したあと度、最終連で「少女」が再び登場している。
この「女」と「少女」の関係に、何か、秘密のようなものがある。
でも、これは後回し。
この詩を読み始めたとき、私は以倉と同じように、
中に私が必ずいるから
このことばに感動して、感想をぜひ書きたいと思った。書かなければならないことがあると思った。
何を書きたかったのか。
「中に」と「私」は言っている。(このとき、「私」がだれであるか、私=谷内は知らない。このことばが「絵葉書」のことばであることも知らない。だれが書いたかも知らない。)
でも、書きたい。
「中」って、どこ?
「私」が書いている「真夏の海」「入道雲」「ヨット」、すべてを含めた「場/世界」である。「来年 再来年」という時間は、「場/世界」の一部である。
「中」に「いる」というよりも、「私」が世界に「なっている」。
見えている何か、夏の光、入道雲、ヨットはすべて「私」なのだ。「私」がさまざまな「もの」になって「世界」に出現してきている。すべてのものとつながっている。すべてであることが「中にいる」ということなのだ。
そのうちの「ひとつ」につながると、それは「世界」のすべてにつながる。
そんな感じかなあ。
これは、いいなあ。
ここにあるのは、言われてみれば、たしかに「言葉」なのだ。「ことば」がすべてである。だれが書いたか、私は知らなかったが、その「ことば」に打ちのめされた。
以倉も、この「ことば」を書いた人間を知らない。「名前」から「女生徒」と推測している。「女」を推測している。女生徒は、そのあと「女」になっただろう。それがどんな「女」か、以倉は知らないが、以倉自身は「女」をいろいろ見てきている。一緒に生きている。(妻も当然そこにふくまれる。)でも、どんな「女」よりも、以倉は女生徒の「ことば」に感動してしまう。夏の海で、そこにあるものすべてを見て、このすべてが私だ、私はこの中にいる、私はこの世界になっている、入道雲であるとき私は消えている。ヨットを見るとき私は消えてヨットになっている。溶け込んで、「世界」そのものを生み出している。それが私だ、という主張が鮮烈に聞こえる。
それは、以倉が「なりたい私」である。
このことばを読んだとき、以倉は少女になって、同時に世界になっている。
最終連で「みえる」少女の姿は、以倉自身でもある。以倉は、少女のことばをとおして、以倉の「いのちの原型」を見る。以倉が消える。自分が消える。世界とどう向き合うかを知る。世界そのものになる。そして、どこまでも広がっていく。
「いのちの形」を認識のあり方(ことばのありかた)と言い換えてもいいかもしれない。
ことばを読んだ瞬間、自分というものが消え、世界そのものにつながる。世界と一つになる。そういうことを感じさせることばがある。
詩は、印象的な一行があればそれでいい、というけれど。
ことばは、たったひとつ、そのことばをとおして世界とつながれることばがあればいい。ひとつとつながれば、すべてとつながるのだ。
女生徒のことばをとおして、以倉は、すべての「女」とつながる。そのとき「女」を信じるというよりも、「女」のなかにある「女生徒のことば」を信じるのだ。
私はここからさらに「誤読」する。
「女生徒」は妻かもしれない。私は以倉の略歴を知らないから、これから書くのは空想(妄想)である。女生徒が以倉に絵葉書をくれた。それには冒頭のことばが書かれている。妻は、そのことを忘れている。「あら、そんなはがき出したかしら?」
以倉は、その女生徒と結婚した。妻となった女生徒をとおして、「女」のいろいろいな現実を見た。しかし、そうやって知った「現実」よりも、はがきの中の「中に私がいる」と書いた少女の方が「リアル」である。いつまでもいつまでも、以倉を「世界」へ引き戻してくれる。「世界」と人間、「世界」と「ことば」の関係/認識のあり方、あらわし方へと引き戻してくれる。そういう「力」を信じている。
少女が無意識に発しただろうことばの力、それを信じている。女の現実よりも。
もし、この葉書がほんとうに妻の教え子の少女のものであるとしても、そういう葉書(そういうことば)を受け止める妻は、どこかで少女としっかりつながっていた瞬間がある。そのつながりのなかに、以倉は、妻をとおしてつながっていくということになる。
この「つながる」力、ひとつとつながり、その「つながる力」をとおして「世界」そのものになる、世界の「中にいる」と同時に私が世界になるという融合の感覚。それを呼び起こすことば。それと向き合っている。
私(谷内)が読んだのは、以倉のことばなのか、以倉の妻の教え子の女生徒のことばなのか、あるいは妻が女生徒だったときに書いたことばなのか、そういう区別はなくなり、ただ「ことば」とつながり、世界になっていく。
いまは冬だが、夏の海へゆき、だれともわからない少女に「おーい」と叫んでみたい気持ちになる。
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