詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

以倉紘平選詩集『駅に着くとサーラの木があった』

2017-12-26 11:56:31 | 詩集
以倉紘平選詩集『駅に着くとサーラの木があった』(編集工房ノア、2017年12月20日発行)

 以倉紘平選詩集『駅に着くとサーラの木があった』。巻頭の「千年」を読み、あ、感想を書きたい、と思った。でも、まだおもしろい作品があるかもしれない。二篇目は「約束」。あ、書きたい。
 で、ほんとうに読み始めたばかりなのだが、感想を書く。詩集全体の感想にはならないのだが。
 「約束」について、書く。全行は、こうなっている。

 <来年 再来年
  もっと先の真夏の海で
  こんな入道雲 こんなヨット
  こんな海を見たとき
  中に私が必ずいるから
  大きな声で呼んでください>

書棚の愛読書に挟んである暑中見舞状
二本マストに五枚帆のヨット
鉛筆で書かれた背高大入道に
幼さの残る文字で即興詩が書き込まれている

昭和四十四年八月三日 女生徒の署名がある
宛名には妻の名前が記されている
昔 中学生を教えた彼女の教え子の一人らしい
二十年以上も前の印象はもう薄れている様子だ

ぼくはこの絵葉書の即興詩
<中に私が必ずいるから>という言葉を
その後の女のどんな現実よりも信じている

ぼくは沖に出ていくヨットに大きな、大きな声で叫ぶ
すると 日焼けした顔に白い歯をみせ
ちぎれるように手をふる少女の姿がみえるのである

 読み返すと、ちょっとわからないところが多い。「愛読書」というのは以倉の愛読書だろう。その愛読書に、なぜ、妻宛のはがきがはさまっているか。以倉宛のはがきなら自然だが、いくら妻だからといって、他人あての私信を自分の愛読書の「しおり」にするのは奇妙である。さらに、差出人は妻の教え子らしいが、妻はそれがだれなのかはっきりとは覚えていない。妻の教え子ならば、以倉は会ったことがないのだろう。会ったことがあるなら、そのことを先に書くだろう。
 それなのに、以倉は

ぼくはこの絵葉書の即興詩
<中に私が必ずいるから>という言葉を
その後の女のどんな現実よりも信じている

 と書いている。
 「女」って、だれ?
 
 あ、ここがきっと、この詩のポイントだな。
 「<中に私が必ずいるから>という言葉」と「女の現実」が対比されている。対比したあと度、最終連で「少女」が再び登場している。
 この「女」と「少女」の関係に、何か、秘密のようなものがある。
 でも、これは後回し。

 この詩を読み始めたとき、私は以倉と同じように、

中に私が必ずいるから

 このことばに感動して、感想をぜひ書きたいと思った。書かなければならないことがあると思った。
 何を書きたかったのか。
 「中に」と「私」は言っている。(このとき、「私」がだれであるか、私=谷内は知らない。このことばが「絵葉書」のことばであることも知らない。だれが書いたかも知らない。)
 でも、書きたい。
 「中」って、どこ?
 「私」が書いている「真夏の海」「入道雲」「ヨット」、すべてを含めた「場/世界」である。「来年 再来年」という時間は、「場/世界」の一部である。
 「中」に「いる」というよりも、「私」が世界に「なっている」。
 見えている何か、夏の光、入道雲、ヨットはすべて「私」なのだ。「私」がさまざまな「もの」になって「世界」に出現してきている。すべてのものとつながっている。すべてであることが「中にいる」ということなのだ。
 そのうちの「ひとつ」につながると、それは「世界」のすべてにつながる。
 そんな感じかなあ。

 これは、いいなあ。

 ここにあるのは、言われてみれば、たしかに「言葉」なのだ。「ことば」がすべてである。だれが書いたか、私は知らなかったが、その「ことば」に打ちのめされた。
 以倉も、この「ことば」を書いた人間を知らない。「名前」から「女生徒」と推測している。「女」を推測している。女生徒は、そのあと「女」になっただろう。それがどんな「女」か、以倉は知らないが、以倉自身は「女」をいろいろ見てきている。一緒に生きている。(妻も当然そこにふくまれる。)でも、どんな「女」よりも、以倉は女生徒の「ことば」に感動してしまう。夏の海で、そこにあるものすべてを見て、このすべてが私だ、私はこの中にいる、私はこの世界になっている、入道雲であるとき私は消えている。ヨットを見るとき私は消えてヨットになっている。溶け込んで、「世界」そのものを生み出している。それが私だ、という主張が鮮烈に聞こえる。
 それは、以倉が「なりたい私」である。
 このことばを読んだとき、以倉は少女になって、同時に世界になっている。
 最終連で「みえる」少女の姿は、以倉自身でもある。以倉は、少女のことばをとおして、以倉の「いのちの原型」を見る。以倉が消える。自分が消える。世界とどう向き合うかを知る。世界そのものになる。そして、どこまでも広がっていく。
 「いのちの形」を認識のあり方(ことばのありかた)と言い換えてもいいかもしれない。

 ことばを読んだ瞬間、自分というものが消え、世界そのものにつながる。世界と一つになる。そういうことを感じさせることばがある。
 詩は、印象的な一行があればそれでいい、というけれど。
 ことばは、たったひとつ、そのことばをとおして世界とつながれることばがあればいい。ひとつとつながれば、すべてとつながるのだ。
 女生徒のことばをとおして、以倉は、すべての「女」とつながる。そのとき「女」を信じるというよりも、「女」のなかにある「女生徒のことば」を信じるのだ。

 私はここからさらに「誤読」する。
 「女生徒」は妻かもしれない。私は以倉の略歴を知らないから、これから書くのは空想(妄想)である。女生徒が以倉に絵葉書をくれた。それには冒頭のことばが書かれている。妻は、そのことを忘れている。「あら、そんなはがき出したかしら?」
 以倉は、その女生徒と結婚した。妻となった女生徒をとおして、「女」のいろいろいな現実を見た。しかし、そうやって知った「現実」よりも、はがきの中の「中に私がいる」と書いた少女の方が「リアル」である。いつまでもいつまでも、以倉を「世界」へ引き戻してくれる。「世界」と人間、「世界」と「ことば」の関係/認識のあり方、あらわし方へと引き戻してくれる。そういう「力」を信じている。
 少女が無意識に発しただろうことばの力、それを信じている。女の現実よりも。
 もし、この葉書がほんとうに妻の教え子の少女のものであるとしても、そういう葉書(そういうことば)を受け止める妻は、どこかで少女としっかりつながっていた瞬間がある。そのつながりのなかに、以倉は、妻をとおしてつながっていくということになる。
 この「つながる」力、ひとつとつながり、その「つながる力」をとおして「世界」そのものになる、世界の「中にいる」と同時に私が世界になるという融合の感覚。それを呼び起こすことば。それと向き合っている。

 私(谷内)が読んだのは、以倉のことばなのか、以倉の妻の教え子の女生徒のことばなのか、あるいは妻が女生徒だったときに書いたことばなのか、そういう区別はなくなり、ただ「ことば」とつながり、世界になっていく。
 いまは冬だが、夏の海へゆき、だれともわからない少女に「おーい」と叫んでみたい気持ちになる。

フィリップ・マーロウの拳銃―以倉紘平詩集
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沖積舎
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情報操作/ことばの操作

2017-12-26 09:44:12 | 自民党憲法改正草案を読む
情報操作/ことばの操作
             自民党憲法改正草案を読む/番外159(情報の読み方)

 2017年12月27日読売新聞(西部版・14版)1面の見出し。

海自護衛艦を空母化/政府検討 「いずも」改修/離島防衛拠点に/米軍機の発着想定

 という見出し。
 前文には、こう書いてある。

 政府は、海上自衛隊最大級の護衛艦「いずも」を、戦闘機の離着艦が可能となる空母に改修する方向で検討に入った。自衛隊初の空母保有となり、2020年代初頭の運用開始を目指す。「攻撃型空母」は保有できないとする政府見解は維持し、離島防衛用の補給拠点など防御目的で活用する。米軍のF35B戦闘機の運用を想定しており、日米連携を強化することで北朝鮮や中国の脅威に備える狙いがある。

 注目したいのは「自衛隊初の空母保有」ということばと「「攻撃型空母」は保有できないとする政府見解は維持し、離島防衛用の補給拠点など防御目的で活用する」ということばの関係である。
 どういうことなのか。
 本文の最後に、「防衛省幹部」のことばが出てくる。

 政府は憲法9条2項で保持を禁じられている戦力のひとつとして、「攻撃型空母」を例示してきたが、防衛省幹部は「防御目的で活用すれば、『攻撃型空母』にはあたらない」としている。

 もっともらしく聞こえるが、とてもおかしい。
 もし、「攻撃型空母」ではなく「防衛型空母」というものがあるのだとしたら、なぜ、いままで「防衛型空母」を持たなかったのか。
 「攻撃型空母」というのは「攻撃を目的とする空母」という意味ではなく、本来は「空母は攻撃のための艦船である(攻撃型の軍備である)」という意味である。「攻撃型」の軍備であるから、これを保持しない、というのが憲法と照らし合わせての解釈である。
 「ことば」は、さまざまに省略された形で表現される。どんな「表現」が背後にあるのか、どういう「意味」が背後にあって、そのことばがその形になっているのかを無視して、ことばに別の解釈を与えることを情報操作という。
 「防衛型」とか「防衛目的」ということばをつけくわえれば、軍備が「防衛型」にかわるわけではない。

 端的な例として北朝鮮の核ミサイルがある。北朝鮮はそれを「攻撃型核ミサイル」と呼んでいるか。北朝鮮は、あくまで「アメリカに対抗するため(アメリカから北朝鮮を守るため)」のものと主張していないか。「アメリカが北朝鮮を敵視している。いつ攻撃されるかわからない。攻撃されないためには、アメリカ本土を直接攻撃できる核ミサイルをもつ必要がある。防衛型ミサイルだ」と主張しているのではないか。
 けれど、アメリカも日本も、その主張を認めない。世界に不必要な緊張をもたらすだけである、と言っているのではないのか。

 そうであるなら、「攻撃型空母ではない、防衛目的の空母である」という論理もまた、同じように反論されるだろう。「米軍のF35B戦闘機の運用を想定しており、日米連携を強化する」というのでは、「攻撃を目的としている」ととらえられても仕方がない。「北朝鮮や中国の脅威に備える」というのは、日本の一方的な「狙い」である。それがそのまま北朝鮮、中国に受け入れられることはない。北朝鮮、中国は、北朝鮮や中国をより効率的に攻撃するための空母である、と認識するだろう。

 「武器/軍備」を「攻撃型」か「防衛型」か区別することはできない。保持している人間が「防衛型」だと主張しても、それに対して脅威を感じれば、それは「攻撃型」である。
 このことからも、「攻撃型空母」という表現がつかわれたのは、「空母は攻撃目的の艦船である」という認識をあらわしたものと理解できる。
 これを簡単に「防衛型空母」なら保有を禁じられていないと読み直すのは、情報操作であり、ことばの暴力である。

 だいたい「離島防衛」というが、そのときの「離島」とは具体的にはどこなのか、ぜんぜんわからない。いまある日本国内の基地から戦闘機が飛び立ったのでは防衛しきれない離島とはどこのことだろうか。その離島の大きさはどれくらいのものか。
 北朝鮮や中国が領海を侵犯し、そのうえで離島に上陸し領土することを狙っているとする。そのときいまある日本の軍備では、どうして防衛できないのか。北朝鮮、中国から離島に侵攻するまでの距離、時間と、そういう動きを察知し自衛隊(あるいは米軍)が「警告」を発し、さらには「防戦する」ための時間、その対応のために移動しなければならない距離を比較してみないといけない。

 読売新聞は、

有事で在日米軍基地が破壊された際には、代替滑走路の役割も担う。

 とも書いている。だれの「主張」なのかわからないが、私はこの部分で声を上げて笑いだしてしまった。
 「代替滑走路」と言っても、「空母」の滑走路は限られている。「いずも」を改修した空母には「F35Bを約10機搭載できる見通し」というが、10機くらいで「有事で在日米軍基地が破壊された際に」役立つのか。
 空母の滑走路、F35Bを約10機だけにに頼るくらいなら、「有事」なのだから、日本国内のあちこちの空港の滑走路をつかうことになるのではないのか。オスプレイの民間空港の利用がすでに模索されている。日本の領土(在日米軍基地を含む)が攻撃されても、自衛隊には民間空港がつかえない(つかえるという法律がない?)、だから空母が必要だというの「形式論」だろう。
 逆に読むべきなのだ。
 有事の際、在日米軍基地が破壊される。なぜ、基地が攻撃され、破壊されるか。基地はう動けないからだ。動いて、攻撃から逃げることができない。
 しかし、空母なら攻撃から逃げることができる。場所を移動できる。
 これはまた、逆な見方をすれば、空母という「ミニ基地」を移動させながら、北朝鮮や中国を攻撃できるということである。
 日本の主張はもちろん違うだろうが、北朝鮮、中国は、そう見なすだろう。

 あらゆる戦争は「防衛」を目的に始まる。「防衛」を前面に押し出しての軍備増強をうのみにしてはいけない。「攻撃」を「防衛」と言い換えて軍備は拡大する。こういう言い換えは厳しくみつめないといけない。






#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 
憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー
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情報の抹殺(安倍の沈黙作戦)

2017-12-26 00:51:07 | 自民党憲法改正草案を読む
2017年12月26日(火曜日)

情報の抹殺(安倍の沈黙作戦)
             自民党憲法改正草案を読む/番外159(情報の読み方)

 2017年12月24日、ネット(シェア・ネット・ジャパン、https://snjpn.net/archives/39528)に奇妙な情報が流れた。「安倍昭恵夫人、インスタグラムにとんでもない写真をアップし非難殺到」というものである。安倍昭恵の「インスタグラム」のURLも標示されている。(https://www.instagram.com/p/BPGhQQahM4F/) ただし、もう写真は削除されて、もうそこにはない。
 岩田和親(自民、佐賀1区、10月の衆院選で原口に負けて比例復活)が上半身裸で移っている。そこに「アキエ」というカタカナの文字と矢印。矢印の先に何があるのかよく見えないが、キスマークらしい。

 私は、だれがだれにキスマークをつけようが、関心はない。
 ほかのことに関心があり、シェア・ネット・ジャパンの記事をフェイスブックにリンクした。
 この情報に対して安倍がどう対処するか。
 写真を削除する。実際に削除されている。これは特に問題はない。だれでも自分にとって不都合なものは削除する権利がある。安倍が、昭恵に対して「削除しろ」と要求したのだとしても、問題はない。夫婦間でどんなやりとりをするかは、夫婦の問題である。
 このあと、どんな行動をするか、それに非常に関心がある。
(1)安倍昭恵がアップしたと言われているが、その証拠はない。だれかが安倍昭恵になりすまして(IDを乗っ取って)写真をアップした、と主張する。
(2)写真の男は、岩田和親ではない。写真そのものも捏造であると、主張する。あるいは、写真そのものが「合成」されたものであって、悪質な嫌がらせであると主張する。
 たぶん、これで押し通すだろう。
 
 もし、写真(岩田和親)が本物であったときは、どうなるか。
 やはり、まず(1)の主張を繰り返すだろう。
 問題は、そのあとである。
(3)岩田和親は、なぜ、そういう写真を撮らせたのか。安倍昭恵が撮ったのではないとしたら、この写真は岩田和親が何らかの意図をもって撮らせたことになる。
 そうだとして、
(4)岩田和親の処分をどうするか。安倍と、安倍昭恵への悪質ないやがらせとして処分するのか。岩田和親を抹殺することで、今回のことはなかったことにするのか。
 あるいは、
(5)岩田和親は誰かにだまされて、こういう写真を撮られてしまった。岩田も被害者であると主張するか。

 (4)が可能性として一番高い。
 で、もし、そうなったらのことなのだけれど。
 この(4)の方法は、森友学園の籠池夫婦に対する対処方法と同じではないだろうか。「悪い」のは岩田和親であり、安倍昭恵の方には非難されるべきところは何もない。安倍昭恵は被害者である。
 森友学園問題でも、安倍は、「だまされた」と主張していた。
 安倍にとっては、「身内」はいつも被害者であり、加害者は「身内」の外にいる。

 この「身内」を自分に近い存在と言いなおせば、「レイプ事件」も同じである。レイプされた女性は「被害者」ではなく、「加害者」である。訴えられている安倍の支援者こそが「被害者」である、ということになる。

 あるいは。
 写真そのものが捏造であり、安倍昭恵も岩田和親も「被害者」である、ということろから、「反撃」するかもしれない。その場合は、
(6)シェア・ネット・ジャパンが「加害者」になるかもしれない。安倍昭恵のインスタグラムには、問題の写真は存在しない。写真がそこにアップされたということ自体が捏造である、という主張がおこなわれる。
 もし、こういうことがおこなわれると、
(7)安倍にとって不都合な「事実」は全部捏造とされてしまうことになる。そして、捏造したものを処分するという形で抹殺するということも起きるに違いない。
 こういう動きは、
(8)安倍にとって不都合なことを主張する人間(組織)を抹殺するために、その人間(組織)はこういう捏造をおこなっている、という捏造がおこなわれるかもしれない。たとえば、シェア・ネット・ジャパンに不正アクセスし、わざと虚偽のニュースをアップする。そして、その嘘のニュースを理由にシェア・ネット・ジャパンを摘発するということが起きるかもしれない。

 今回のスキャンダルがどんな具合に「なかったこと」として処理されるのか。その行方に私はとても関心がある。この問題を、いわゆるマスコミがどう報道するかについても関心がある。
 安倍が地方活性化の方法として提案した「インスタグラム」が舞台だけに、よけいに気になる。


詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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