詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

トラビス・ナイト監督「KUBOクボ 二本の弦の秘密」(★★★★★)

2017-12-04 08:36:15 | 映画
監督 トラビス・ナイト 出演 アート・パーキンソン、シャーリーズ・セロン、マシュー・マコノヒー

 大傑作である。観客の動きが、それを如実に語っている。映画が終わる(ストーリーの結末がわかる)と、多くの映画では観客が席を立ち始める。エンドロールのクレジットを最後まで見ないひとがいる。ところがこの映画では、だれも席を立たない。立てないのである。同じことを、私は「もののけ姫」で体験した。劇場に明かりがついて、やっと「ざわざわ」とあちこちで会話がはじまる。それまではシーンとして、だれも動かない。

 これだけて感想を終わりにしてもいいのだが。まあ、少し書く。

 舞台は日本である。だから(というわけでもないだろうが)、「折り紙」が登場する。これが実に効果的。
 映画はストップアニメーションというのか、人形を少しずつ動かしながら撮影し、ひとつづきにしたもの。人間のようにスムーズではない。いいかえると、「にせもの」である。
 ところが、これに「折り紙」が加わると、人形よりも「折り紙」の方がさらに「にせもの」の度合いが強い。そこにある形を、想像力ふくらませて「実物」と思わないといけない。「人形劇」のなかに、もうひとつ別の「人形劇」が加わる。そうすることで、「外側」の人形劇が「リアル」にかわる。「リアル」だと錯覚してしまう。想像力で補わないと「リアル」(人間)にならないはずなのに、折り紙の動きを想像力で補い「リアル」と思うとき、人形に想像力が「加担している」ことを忘れてしまう。あるいは、折り紙の動きを「リアル」と感じる想像力が、人形の動きをさらに「リアル」であると感じさせるのかもしれないが。
 もう少しストーリーに則して言いなおすと、主人公クボ(人形)は、折り紙の人形劇(折り紙劇?)を上演することで暮らしている。折り紙を動かしながら、三味線でストーリーを語ることで金を稼いでいる。そういう設定である。で、その折り紙劇の折り紙というのが、アニメになっていて、実にすばらしい。幻想的で、かつリアルである。折り紙という「設定」なので、「嘘」なのだが、その「嘘」のものが本物(?)の人形よりもスムーズに動き、まるで夢を見ているような感じ。幻想とか、ファンタジーということばは好きではないのだが、うーん、これは酔ってしまうぞ。
 これは、折り紙がほんとうに動いているのか、それともクボの「語り」によって、それを見ている(聞いている)村人(人形)が「想像力」で見ている世界なのか、わからなくなる。この「村人」の気持ちと観客の気持ちが交錯する。融合する。区別がつかないものになると言いなおせばいいのか。つまり、映画の中で展開する「語り(ストーリー)」に刺戟されて、観客は、ほんとうは動かないはずの人形と折り紙が動いていると錯覚しているだけなのか。これは映画ではなく、私が見ている「夢」であり、私が見たいと思っている「現実」なのではないか。映画スタッフがつくった「夢」なのか、「現実」なのか、私が見ている「夢/現実」なのか。あるいは、私の「夢」が映画スタッフにつくらせた「現実」なのか。
 こうなってくると、ストーリーはさらに交錯する。ここで展開している「世界」は、クボが夢見ている世界なのか、世界がクボに体験させている現実なのか。サルとカブト虫(ゴキブリ、という字幕になっていたが)は、「現実」なのか、クボが見ている「夢」なのか。復讐劇自体が、「現実」なのか、クボの見ている「夢」なのかということもあやしくなる。たぶん、区別してはいけないのだ。
 「つくりもの」でありながら、何が現実で、何が夢なのか、夢と現実はどう入れ替わるのかを問いかけてくるこの映画は、人形のストップアニメーションに折り紙を組み合わせるという「方法」を考えたときに、「大傑作」になることを運命づけられたのである。

 主人公の、三味線の語りと、それに合わせての折り紙の劇を、この映画の「序曲」にして、本編の「オペラ」がはじまる。ワーグナーの「指輪」なんかを思い出してしまう。(よく知らないのだが)。特に三種の武器(折れない刀、強靱な鎧、兜)を探し当て、「死に神」と戦うというところ、さらに死に神と人間(武士)との恋愛、魔法に駆けられての「変身」という要素がダイナミックに交錯し、わくわくしてしまう。自分の「わくわく」に酔ってしまうような感じになるのだが、この昂奮を半分おさえ、半分加速させるのが人形と折り紙の交錯である。どっちもニセモノ(つくりもの)なのに、昂奮(酔い)のなかで、すべてがリアルに変わる。
 北斎の「波」とか、浮世絵のような背景(版画的世界/間接的な表現世界)が、またすばらしく効果的である。嘘に嘘がかさなり、現実を超えて、さらにリアルになる。目で見るというよりも、脳が直接、世界を見ている感じ。これは考えてみれば、怖いことなのだが、その「怖さ」を人形と折り紙が「嘘だから安心して」という具合に、ささやきかけてくるので、安心して酔うことができる。

 で、大傑作なのだが、ひとつ「不満」がある。もの足りない。
 何がかというと、「二本の弦の秘密」の「二弦」が「ストーリー」で終わってしまっている。(原題を直訳すれば「クボと二本の弦」なのだが。)
 クボは三味線(音楽)にあわせて折り紙劇を上演している。この三味線には「魔力」というか「神秘的な力」がある。折り紙を自在に動かす力がある。それはクボの力でもあるのだが、私は「音楽の力」だと信じたい。
 で、三味線は弦が三本である。三本の弦でひく音楽、二本の弦でひく音楽の「違い」というか、三本の弦の「違い」を音楽そのものとして描いていない。それぞれの弦が、それぞれの「主人公」を代弁する音楽として動いていれば、この映画は完全に「オペラ」になる。(クボが主人公だが、脇の二人がまたストーリーの主人公でもある、という構成なので、特にそう感じる。)
 しかし、そうなっていない。
 これが見終わった瞬間、何とも言えない「悔しさ」として胸に残る。「人形」「折り紙」「音楽(三味線)」が「一体」になり、さらに三味線のそれぞれの弦がひとりひとりの「音楽(旋律とリズム)」になり、三つがかさなり「三重奏」、あるいは「交響曲」へと変わっていくということろまで、「音楽」が追求されていない。それが悔しくて悔しくてならない。

(t-joy 博多スクリーン4、2017年12月03日)


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