ト・ジョンファン『満ち潮の時間』(2)(ユン・ヨンシュク、田島安江編訳)(書肆侃侃房、2017年11月18日発行)
ト・ジョンファンの文体は「散文(時間)意識」が強い。
「ある恋人たち」は『立葵の花のようなあなた』のなかの一篇。
こういう光景は、いまでも列車のなかで見ることがあるだろうか。記憶を揺さぶるように、ふたりの姿がくっきりと映像になる。人間の(肉体の)動きが時間通りにきちんと描写されるからである。その「時間」のなかで、男と女が一体になる。「動き」そのものが「一体感」のあるものとして、その「時間」を浮かび上がらせる。
しかし、「時間」というのはいつでもそうだが、単純ではない。「いま」という「時間」のなかには必ず「過去」が噴出してくる。「いま」を突き破って「過去」があらわれる。その「過去」に私たちは、ときどきたじろいでしまう。幸福そうな男と女にも、苦しい「過去」がある。
なぜ男が義手なのか、義手ではない方の指は欠けているのか。それは語られない。「花火の痕のような傷が星のように散らばる顔」は、その原因が戦場での「爆発物」であるかのように想像させる。
「過去」については、もっともっと書きたいことがあるだろう。でも、それを書かずにただ「過去」があるということだけを書いている。
「いま」を突き破って噴出してきた「過去」。
これと、人間はどう向き合うべきなのか。
これは、女の愛が男の「過去」をやさしく包んでなだめているという姿である。こういうしぐさが自然なものになるまで、男と女はどんな諍いをいただろうか。「あわれみなんかいらない」「あわれんでなんかいない」。そういう言い争いがあったかもしれない。でも、いまとなっては、それも「過去」である。しかし、同時にそれが「いま」でもある。「過去」でありながら、「過去」を越えていく「いま」。
女は本を読んでいるが、その本は女が読んでいる本なのか、男が読むのを手伝うように女がページをめくっているのかわからない。ふたりのあいだでは、それが区別できなくなっているかもしれない。それが「いま」なのだ。ふたりでありながら、ふたりではない。むしろ「ひとり」である、という「時間」。
新しい時間、誰のものでもない「ふたりの時間」がそこにある。
とても美しい。「男の青い血管」というのは、「若い血管」という意味だろう。それは「雪解け水の川」のようにほとばしる。新しい季節、新しい時間へ向かって流れていく。新しい時間をつくる流れそのものでもある。
この作品でも、ト・ジョンファンの描き出す「存在」は、それぞれが主語として「自己主張」している。きっちりと「ことば(声)」を持っている。そういう「声」を統合し、突き動かす力、あるいはそれぞれが語る「声(ことば)」をそのまま動くにまかせる力というものがト・ジョンファンにある。存在に、自由に語らせている。ト・ジョンファンは「脇役」に徹している。
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「詩はどこにあるか」11月の詩の批評を一冊にまとめました。
詩はどこにあるか11月号注文
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注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
目次
カニエ・ナハ『IC』2 たなかあきみつ『アンフォルム群』11
林和清『去年マリエンバートで』15 夏目美知子「雨についての思索を一篇」18
北川透「「佃渡しで」を読む」21 野木京子「小石の指」31
疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」34 藤本哲明『ディオニソスの居場所』37
マーサ・ナカムラ『狸の匣』40 星野元一『ふろしき讃歌』46
暁方ミセイ『魔法の丘』53 狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」58
暁方ミセイ『魔法の丘』(2)63 新井豊吉『掴みそこねた魂』69
松本秀文『「猫」と云うトンネル』74 松本秀文『「猫」と云うトンネル』78
山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』83 吉田正代『る』87
福間明子『雨はランダムに降る』91 清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』95
川上明日夫『白骨草』107
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詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。
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ト・ジョンファンの文体は「散文(時間)意識」が強い。
「ある恋人たち」は『立葵の花のようなあなた』のなかの一篇。
ドンニャン駅までのトンネルは長かった
男は一つしかない空席に女を座らせ
その椅子のひじ掛けに座り、からだを女の方にねじっていた
女は本を一枚一枚めくっていて
男は女の肩越しにそれを読んでいる
こういう光景は、いまでも列車のなかで見ることがあるだろうか。記憶を揺さぶるように、ふたりの姿がくっきりと映像になる。人間の(肉体の)動きが時間通りにきちんと描写されるからである。その「時間」のなかで、男と女が一体になる。「動き」そのものが「一体感」のあるものとして、その「時間」を浮かび上がらせる。
しかし、「時間」というのはいつでもそうだが、単純ではない。「いま」という「時間」のなかには必ず「過去」が噴出してくる。「いま」を突き破って「過去」があらわれる。その「過去」に私たちは、ときどきたじろいでしまう。幸福そうな男と女にも、苦しい「過去」がある。
二十六、七くらいだろうか
男の白い義手がゆっくりと揺れ
何本かの指の欠けた片方の手の甲で
花火の痕のような傷が星のように散らばる顔の
眼鏡のふちを持ち上げている
なぜ男が義手なのか、義手ではない方の指は欠けているのか。それは語られない。「花火の痕のような傷が星のように散らばる顔」は、その原因が戦場での「爆発物」であるかのように想像させる。
「過去」については、もっともっと書きたいことがあるだろう。でも、それを書かずにただ「過去」があるということだけを書いている。
「いま」を突き破って噴出してきた「過去」。
これと、人間はどう向き合うべきなのか。
短くなった男の中指にしばらくとどまる
見慣れぬ私の視線を遮り
女のきれいな手が男の手をそっと握る
これは、女の愛が男の「過去」をやさしく包んでなだめているという姿である。こういうしぐさが自然なものになるまで、男と女はどんな諍いをいただろうか。「あわれみなんかいらない」「あわれんでなんかいない」。そういう言い争いがあったかもしれない。でも、いまとなっては、それも「過去」である。しかし、同時にそれが「いま」でもある。「過去」でありながら、「過去」を越えていく「いま」。
女は本を読んでいるが、その本は女が読んでいる本なのか、男が読むのを手伝うように女がページをめくっているのかわからない。ふたりのあいだでは、それが区別できなくなっているかもしれない。それが「いま」なのだ。ふたりでありながら、ふたりではない。むしろ「ひとり」である、という「時間」。
新しい時間、誰のものでもない「ふたりの時間」がそこにある。
トンネルを抜け出た車窓からは
雪解け水をたたえた川が叫びをあげながら追ってきて
列車はモケンに向かって走っている
女の髪をなでる男の二本の指
女は男の腰に頭をもたせかけ
男の青い血管は叫ぶ川のように
流れている
とても美しい。「男の青い血管」というのは、「若い血管」という意味だろう。それは「雪解け水の川」のようにほとばしる。新しい季節、新しい時間へ向かって流れていく。新しい時間をつくる流れそのものでもある。
この作品でも、ト・ジョンファンの描き出す「存在」は、それぞれが主語として「自己主張」している。きっちりと「ことば(声)」を持っている。そういう「声」を統合し、突き動かす力、あるいはそれぞれが語る「声(ことば)」をそのまま動くにまかせる力というものがト・ジョンファンにある。存在に、自由に語らせている。ト・ジョンファンは「脇役」に徹している。
*
「詩はどこにあるか」11月の詩の批評を一冊にまとめました。
詩はどこにあるか11月号注文
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ここをクリックして1750円の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。
オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
目次
カニエ・ナハ『IC』2 たなかあきみつ『アンフォルム群』11
林和清『去年マリエンバートで』15 夏目美知子「雨についての思索を一篇」18
北川透「「佃渡しで」を読む」21 野木京子「小石の指」31
疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」34 藤本哲明『ディオニソスの居場所』37
マーサ・ナカムラ『狸の匣』40 星野元一『ふろしき讃歌』46
暁方ミセイ『魔法の丘』53 狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」58
暁方ミセイ『魔法の丘』(2)63 新井豊吉『掴みそこねた魂』69
松本秀文『「猫」と云うトンネル』74 松本秀文『「猫」と云うトンネル』78
山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』83 吉田正代『る』87
福間明子『雨はランダムに降る』91 清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』95
川上明日夫『白骨草』107
*
詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。
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