詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

時里二郎「母の骨を組む」

2017-12-08 09:46:29 | 詩(雑誌・同人誌)
時里二郎「母の骨を組む」(「現代詩手帖」2017年12月号)

 時里二郎「母の骨を組む」(初出「水牛」16年11月)の書き出しにとまどう。

 機銃の静かな重さをこぼすまいとして指は聖水を掬ぶよ
うに母の骨を組んでいく。

 なぜ「機銃」なのか。わからない。
 わからないけれど、それからつづくことばのなかには「緊密」な感じがある。そう感じるとき、私はほんとうは何を感じているのか。
 「わかる」と確実にいえるのは、「こぼすまい」ということば(動詞)と「掬(むす)ぶ」ということば(動詞)の関係である。「掬ぶ」は「掬(すくう)」でもある。「水を掬う」。このとき「水をこぼすまい」とする。「すくう」ではなく「むすぶ」と読ませるのは、水を「手」ですくうからだろう。「手」には「隙間」がある。その隙間をしっかり組み合わせ、結ぶようにして、ふさぐ。手を結ぶ、指を結ぶという「動詞」が「掬ぶ」につながっていく。こういうことは、私は「肉体」として覚えている。水を手ですくったことがある。だから、「わかる」。
 このとき、つまりここに書かれていることを「肉体」の動きとして思い出すとき、「指を結(むす)ぶ」と「水を掬(むす)ぶ」が、私の「肉体」のなかで交錯する。時里は「水を掬ぶ」と書いているのだが、私は「指を結ぶ」と読み違える。「誤読」する。もっと正確にいうと、指を結び、水を掬うと読んでしまう。ごどくすることで、私は「わかる/わかった」と思い込む。
 さらに、この誤読のつづきとして「骨を組んでいく」の「組む」という動詞もつかみとる。
 水をすくうために指を組む。こういうことは「自然」にできる。肉体に、その動きがしみついてしまっている。水をすくい、それをこぼさないようにしようとすれば、手のひらをあわせるだけではなく、しっかりと指を組み合わせて指の隙間をなくしてしまう。それは誰もが自然にすることだろう。その自然な動きそのままに、時里が書いている人物は、母の骨を「組んでいく」。
 「骨を組む」というのは、ひどく変わったことがらではあるが、ここに書かれている人物にとっては、その「動き」(動詞全体の関係)は「自然」なのだ。その「自然」を語るために、それ以前のことばが書かれている。書かれていない「自然」を語るために、すべてが「比喩」になっている。

 で、ここから、もう一度最初にもどり、ことばを読み返す。

 「静かな」は「こぼすまい」という感じとつながる。「静かな」ということばは直接的には「重さ」を修飾するのだけれど、「静かに」「水を掬ぶ」、さらに「静かに」「骨を組む」という具合に、あいだにあることばを飛び越して、階層的に他の動詞とも結びつく。そのとき「静かな」は「静かに」という具合に、微妙に変化もする。どこかで「しっかり/慎重に」ということばとも結びついているかもしれない。
 また、その「静かな重さ」の「重さ」は「水」の「重さ」、「骨」の「重さ」という具合に、やはりことばを飛び越して、あるいはことばを重ねる具合にして、重層的に他のことばと結びつく。
 そういう「階層」あるいは「重層」のひとつとして「機銃」も動いている。「機銃」は「重い」。そして、それが「重い」のはなぜか。金属でできているから、物質として重いというだけではなく、「聖」なるものだからである。精神的に「重い」。精神的な感覚が「聖」ということばを呼び寄せる。なぜ「聖なるもの」なのか。死をもたらすからである。死とは「骨」でもある。そういう危険性、暴力性を「機銃」は内部に抱え込んでいる。抱え込んで「静か」に存在している。「静か」だが、いつ暴れ回るかわからない。慎重に扱わなければならない。水をこぼさないようにするときと同じように、慎重に。
 この危険を秘めた「階層/重層」は、当然「母(の骨)」にも響いている。「母の骨」は単なる「死んだあとの、残された骨」ではないのだ。それは「機銃」のように、暴力を秘めていて、何者かを壊してしまう力を持っている。
 そういうことが、この書き出しの一文ですべて語られている。

 あとは、この「一文」を「散文的」に展開し、ストーリーにしていくことになる。
 「母」とは実は「人形」である。「骨」は「骨格、人形の仕組み」ということになる。「人形」が組み上がるとどうなるか。

 母の股間に手を入れると、母は息を一息入れて、目覚め
た。股間に触れると、母の起動装置がはたらいて、魂があ
かるみ、蜉蝣の翅のような被膜が組み立てた母の骨格を
覆って、スケルトン状のアンドロイドになる。
 おじょうずだね。
 母はわたしを息子だとは思っていない。若い情夫とでも
思っている。わたしはスケルトン人形の母をあやつり、母
の声色で物語を語る。

 ストーリーには、私は興味がない。
 ここで、私が興味を持つのは、引用した最後の部分、「母の声色で物語を語る」である。「わたし」が「わたしの声」で母を語るのではない。「わたし」の物語を語るのでもない。「声色」、つまり「母の声」を装った声で母の物語を語る。ここには「わたし/母」という「階層/重層」構造がある。これを「入れ子細工構造」と呼んでもいいが、ようするに、時里が書いているのは、ことばは「階層/重層」という構造の中で濃密になる。詩になる、ということである。時里のことばは、「階層/重層」を構造化する。そういう運動をする。
 これが、実は書き出しからはじまっている。「機銃」という「比喩」は、ことばが「階層/重層」として存在する、運動するということを象徴しているのだ。
 詩には、時里のやっていることとは逆に、世界から「階層/重層」をとっぱらい「永遠-私」という「ひとつ」を目指すものがある。しかし、時里は、そういうことをしない。むしろ「階層/重層」という運動それ自体が「ひとつ」のものというか、ことばとは「階層/重層」によって動くものだと考えているからだろう。ここに書かれているのは、ストーリーではなく「哲学」なのだ。
 時里にとって「真実/真理」というものがあるとすれば、それは「どこか」にあるのではなく、ことばは「階層/重層」として動くということにある。その証明として、その証拠として、詩を提示している。「詩」というよりも「言語論(哲学)」を詩を借りて書いていると読みなおした方がいいかもしれない。

 ということは。

 時里の作品は、「ことばが大好き」というひとには好意的に受け入れられるだろうけれど、「詩が好き」というひとには、めんどうくさい作品ということになるかもしれない。というようなことも、思った。

石目
クリエーター情報なし
書肆山田

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