詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

税制大綱の「内訳」は?

2017-12-15 12:07:30 | 自民党憲法改正草案を読む
税制大綱の「内訳」は?
             自民党憲法改正草案を読む/番外156(情報の読み方)

 読売新聞2017年12月15日朝刊(西部版・14版)1面、

個人向け増税 相次ぐ/税制大綱 与党が決定

 という見出し。「個人向け増税」のいちばんのポイントが表になっている。 850万円以下は「負担増額なし」、 850万円以上は所得によって1万5000円(年収 900万円)から34万2000円(年収5000万円)。実際の対象者は給与所得者全体の4%、 230万人となる。
 私は 850万円どころか、その四分の一くらいの給料なので、「増税」の対象外だが、気になって仕方がないのが、ではいったい「増税総額」はいくらなのか、ということ。 230万人が負担する「増税総額」はいくら?
 なぜ気になるかというと。

賃上げ企業は減税

 という見出しも見えるからだ。3%賃金を上げれば、その企業に対して賃金増加分の15%を減税するという。この「企業減税の総額」はいくら?
 個別の増税額、減税額も大事だが、問題は、全体のバランスだろう。「増税」は国家財政が赤字にならないためのものだろう。「税収」を増やすためのものだろう。
 単純化していうと、「個人向け増税の総額」が 100億円、「賃上げ企業の減税総額」が10億円だとする。この場合、国家にとっては90億円の増収になる。そんなに極端でなくても「企業減税の総額」が「個人増税の総額」よりも少なければ、この税制では財政が破綻することになるから、どんなに少なく見積もっても「企業減税」と「個人増税」はイコールでなくては税制システムを変える意味がない。
 言い換えると、今度の「税制大綱では」は、企業減税の「財源」として「個人の増税」がつかわれることになる。なぜ、個人が犠牲になって企業の収益を支えないといけないのだろう。これが、サラリーマンである私にはわからない。
 もっと言いなおすと。
  850万円以上の年収の人数は 230万人と想定されているが、このうち3%の賃上げの恩恵を受ける人間は何人だろう。もし 100万人だとすれば、3%の賃上げが実施されなかった 130万人は税金だけが増え、実質年収は減る。その増税だけを強いられたひとの負担分のいくらが「企業向け減税分」の穴埋めにつかわれるのか。3%の賃上げが可能な「大企業」の従業員と経営者のために、賃上げが実施されなかった労働者が犠牲になるのではないのか。
 さらに「たばこ税」とか、「国際観光旅客税(出国税)」「森林環境税」も実施される。どれも「個人」から直接税金をとるシステムである。「企業」はその対象になっていない。寿司を食いながら安倍と話し合い、直接苦情を言えない「個人」だけが、「増税」の負担を強いられているのではないのか。安倍と話し合える「友達」だけが優遇される税制ではないのか。

 わかりにくいことは、もっとある。

 だいたい企業が収めている「税金」はいくらなのか。「決算」では収支報告がおこなわれているが、そのとき「納税額」というのは新聞などでは公表されない。「収益」と「税引き後収益」を比較すればわかるのかもしれないが、「直接的」にわかるようにはなっていない。トヨタはいくら「法人税」を収めているか。大手の銀行はいくら「法人税」を収めているか。そういう「一覧表」を公表した上で、企業はこれだけ税金を納めているのだから、個人はこれだけ納めるべきだというのならまだわかる。企業の税負担は限界に来ている。これ以上法人税をとると企業が破綻する。企業が破綻すれば税収が減り、国家財政が破綻する。個人の増税で補わないと国家予算が成り立たないという「具体的な一覧表」があるのなら納得もするが、いまのシステムでは税の全体と細部のバランスがしろうとにはわからない。
 なぜ、「法人税」を引き下げ、「個人の税」を引き上げるのか、それがわからない。わからないとこを利用して、ばらばらの「個人」、組織力のない「個人」を狙い撃ちして税金を搾り取っているのではないのか。

 さらに、その税金をどこにつかうのか。
 高齢化(少子化)が進み、社会不安が増えている。社会保障に税金をつかうのか。それともアメリカの軍需産業をもうけさせるために軍備につかうのか。その「振り分け」の具体的な数字がわからない。
 「予算」というのはしろうとにはわかりにくい。
 「予算」には「全体」の要素と「個別」の要素がある。それを組み合わせて説明する記事(報道)がどこにもない。
 読売新聞の3面には

家計に負担じわり/会社員は3000円増税/フリーは3・3万円減税

 という見出しと、世帯構成別の影響額というものが書かれている。個人の負担に目を向けた記事だが、その個人のあつまり、国民の負担がどうなるのかが、これではわからない。全体がわからない。「個人の全体」で負担した「像税額」が国家財政に占める割合、さらにはそこから「企業減税」の「穴埋め」にいくらつかわれるのかがわからない。「個人全体」で負担したうちのいくらが「社会保障」につかわれるのか、いいかえると「将来いくら還元されるのか」がわからない。
 「個別の負担」がいくらなのかを計算する以上、「個別の還元」がいくらになるかも計算して示してほしい。
 政府はそういう「計算」もしているはずである。そういう「計算」を隠さずに公表するべきである。報道機関は、そういう「隠された情報」を提供すべきであると思う。

 しろうとには「国家財政」はわからない。わからない人間は、だまって政府のいうことにしたがっていろ、という安倍の「沈黙作戦」は、こういうところにも仕組まれている。



#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
クリエーター情報なし
ポエムピース
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

河津聖恵「月下美人(一)」

2017-12-15 00:57:19 | 詩(雑誌・同人誌)
河津聖恵「月下美人(一)」(「現代詩手帖」2017年12月号)

 河津聖恵「月下美人(一)」(初出『夏の花』5月)。非常にひかれる行(ことば)と、ついていけないことばがある。

闇の奥で眼窩たちは息を呑む
一輪の花がいまひらきはじめる
なおも咲くのか
なぜ咲くか
無数の黒い穴は問いもだえる

 「なおも咲くのか」と言った直後に「なぜ咲くか」と問い直す。この問い直しに、ひどくひかれる。「咲く」という動詞、人間の肉体にはできない動き。「比喩」としてならつかわれるが、「肉体」そのものにはできないこと。それを前にして、「肉体」が、それに迫ろうとしている。その「切迫感」のようなものを、たたみかける問いの、「たたみかけ方」に感じる。
 この感じを河津は「問いもだえる」という形、「問う」と「もだえる」というふたつの動詞の組み合わせで言いなおす。この組み合わさる動詞に、またひきつけられる。
 「問う」は「聞く」とか「ただす」とか、いろいろ言い換えることができる。(言い換えながら、「意味」を私は手探りする。)
 一方、「もだえる」はどうか。「もだえる」は「もだえる」としか言えない。言いなおし方を知らない。「もだえる」を言いなおすと、どうなる? これが、わからなない。
 「もだす」と関係しているだろうか。「もだえる」とき、確かに「明確なことば」は「肉体」から出てこない。では、「明確なことば」のないまま、ひとはどうやって「問う」ことができるのか。「問えない」ではないか。
 それなのに「問い+もだえる」。
 これは「問いたくて」もだえているのだ。「問いたいけれど、問えない」という矛盾のなかで、どうしていいかわからずに「もだえている」。
 あ、これが「なおも咲くのか/なぜ咲くか」なのだ。どう「問う」ていいかわからない。そのために「もだえている」。ほんとうに聞きたいことはきっとほかにもある。しかし、それはことばにならなで「もだしている」、沈黙しているのかもしれない。
 「もだえる」ということばのなかに「もだす」があると、私は感じる。
 そして「もだえる」のなかには「もだす」と同時に「たえる(耐える)」もある。ことばにできず、「耐えている」。「矛盾」というか、どう解決していいかわからないものを「肉体」に抱えている。それが「問いもだえる」という動詞の中にある。「もだえる」のなかには、そういうものが「もつれ」ている。
 そして、この「矛盾」のようなもの、激しい「もつれ」が、次の行で、こう展開する。

死ぬことも生きることも滅んだのに

 うわーっ、美しい。
 ことばでしかたどりつけない何かがある。「死ぬ」「生きる」がぶつかり、からみあう。「もだえる」。
 「もだえる」は「燃える/萌える」いのち(生きる)と、「絶える(死ぬ)」がからみあい、苦しみ、のたうつことかもしれない。どこへもいけない。その場で、転げ回ることかもしれない。
 河津は、それが「ある」とは言わずに「滅んだ」と言う。
 「絶対矛盾」と呼びたいようなもの、「そのようなもの」としか言えない何かが、この一行に凝縮している。
 この行を中心に、詩は花のように開いていく。咲いていく。

宇宙の一点をいま花の気配が叛乱する
穴はいっしんに嫉妬する
月下美人
幻想の名の匂やかな花芯が
死者の無を乳のように吸いよせる

 私は月下美人の花を見たことがないのだが、そうか、こんなふうに「絶対矛盾」としか呼びようがないもののように、何もかもを拒絶して、そこに「咲く」のか、自分の存在をあらわすのか、と感動してしまう。
 いや、感動しながらも。
 ちょっと覚めてもしまう。
 「叛乱する」「嫉妬する」。このことばが、わかりやすすぎて「問いもだえる」ほど「肉体」に迫ってこない。「幻想」も「意味」が強すぎるなあ。「死者の無」、その「無」が、もっと「意味」でありすぎるかもしれない。
 「無」って、どういう「意味」と聞かれたら、ちょっと答えられないのだけれど、この「答えられない」は「問いもだえる」の「もだえる」を言いなおすとどうなる?というときの「答えられない」とはかなり違う。「肉体」が反応しない。「無」って、ほら、禅とか仏教(宗教)でいう「無」じゃないか、と思ってしまう。言い換えると「無」には「答え」がある。もう、定義されている感じ。「答えられない」は、「自分のことばでいいなおしても、間違いになるから、言えない」ということ。「もだえる」の「意味」が言えないのは、どこかに「正解(答え)」があるからではなく、それが「肉体」の「動き」そのものとして自分の「肉体」にあるからだ。自分の「もだえる」と他人の「意味」とちがんていても、「もだえる」でしかない。「肉体」で感じることは、私にとっては、いつでも「ほうとう」なのだ。

 こんな感想でいいのかどうかわからないが。

 私は、私が「わかっている」と思っていることが、瞬間的に否定され、わけのわからないものに引き込まれる瞬間が好きな。そこに詩を感じる。河津のこの作品では、

なおも咲くのか
なぜ咲くか
無数の黒い穴は問いもだえる
死ぬことも生きることも滅んだのに

 この四行の動きに夢中になってしまう。夢中になりすぎて、それ以外がなんだか嫌いになってしまう。
私はわがままな読者なのだ。


*


「詩はどこにあるか」11月の詩の批評を一冊にまとめました。

詩はどこにあるか11月号注文
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
ここをクリックして1750円の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。


オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。


目次
カニエ・ナハ『IC』2   たなかあきみつ『アンフォルム群』11
林和清『去年マリエンバートで』15   夏目美知子「雨についての思索を一篇」18
北川透「「佃渡しで」を読む」21   野木京子「小石の指」31
疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」34   藤本哲明『ディオニソスの居場所』37
マーサ・ナカムラ『狸の匣』40   星野元一『ふろしき讃歌』46
暁方ミセイ『魔法の丘』53   狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」58
暁方ミセイ『魔法の丘』(2)63   新井豊吉『掴みそこねた魂』69
松本秀文『「猫」と云うトンネル』74   松本秀文『「猫」と云うトンネル』78
山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』83   吉田正代『る』87
福間明子『雨はランダムに降る』91   清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』95
川上明日夫『白骨草』107

夏の花
クリエーター情報なし
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする