福島直哉「森の駅」、矢沢宰「私はいつも思う」(「現代詩手帖」2017年12月号)
福島直哉「森の駅」(初出『わたしとあなたで世界をやめてしまったこと』16年11月)を読みながら、「ことばの肉体」ということについて考えた。
「真夜中」と「疲れ」は呼応する。「半透明」の「透明」と「冴える」も呼応する。そういう「状況」のなかで「蛍」が飛び回るとき、私は「夏」を思い浮かべる。「夏」は暑いから涼しい場所を求める。「北上する」ということばの中にある「北」が肉体を刺戟する。こういうことばの呼応のなかに、私は「ことばの肉体」を感じる。福島のことばなのだが、福島のことばだけで成り立っているのではなく、ある「ことばの動き」が共有されていると感じる。「共有」されて、ことばが少しずつ「肉体」をもっていく。
この詩は、しかし、思いがけない展開をする。
「蛍」は夏。「水仙(の花)」は冬。季節があわない。私は、ここでつまずく。「ことばの肉体」がつまずく。何が起きたのかわからない。
「悲しそうに笑っている」は「疲れ」や「冴える」ということばと響きあう。「悲しい」と「笑う」は矛盾しているが、「冴えた」意識には、ふつうの感じではとらえられない何かをとらえることができる。
そういうことを思いながらも、どうしても「蛍」と「水仙」の関係がわからない。
夏から冬まで、ずーっとバスに乗っているのか。そういう長い時間が意識されているのか。
しかし、ここに書かれている「時間」は、「長い」ものではない。
「朝焼け」。真夜中ではじまったことばは、数行で「朝」にたどりついている。
「昼(下がり)」「夕(焼け)」「夜」と「時間」がつぎつぎに変わっていく。
うーん。
律儀だ。途中を飛ばさない。あるいは前後しない。
ここにも私は「ことばの肉体」を感じる。「真夜中」「朝」「昼」「夕」「夜」という時間の動きは「ことばの肉体」になってしまっている。
このあと詩はさらにつづき、「眠る」という動詞を経て「目を覚ます」と動いていく。ここにも「ことばの肉体」がある。
引用はしないが、その途中に「虫の音」ということばもあって、季節は夏から秋へと動いているようにも見える。
で、ここからである。
私は、こんなことを考える。
こんなに「律儀」に時間の経過を踏み外さない福島が、なぜ「水仙の匂い」と書いたのか。そこだけ「時間」が飛躍してしまったのか。
「蛍」は「水辺」を飛ぶ。「蛍」ということばは「水」を呼び寄せる「肉体」をもっている。この力のために「水仙」が出てきてしまった。「水仙」のなかの「水」が「蛍」と呼応している。
これは「ことばとの肉体」の力が強すぎるためなのか、それとも「ことばの肉体」に頼って「捏造」してしまったためなのか、ちょっと判断がむずかしい。
「水仙」ではなく「スイレン(睡蓮)」と書こうとしたのか。しかし「実感」がないので「嘘」になってしまったのかもしれない。
無意識なのかもしれないが。
私は、こういう「嘘」が大嫌いである。
「嘘」なら「嘘」で最初から最後まで、「嘘」で固めればいいのに。
「水仙」を「嘘(捏造)」と私は思ってしまうので、この詩のハイライトである後半部分に登場する「幽霊(と呼ばれてしまった人々)」というのも信じられなくなる。これも「捏造(詐欺)」なんじゃないかと疑ってしまう。「生」と同時に「死」もことばにし、「瞼」ということばをもう一度つかうことで「ことばの肉体」をていねいに動かしているのだけれども。
*
矢沢宰「私はいつも思う」(初出『矢沢宰詩集--光る砂漠』16年11月)はどうか。
「石油」と「清んで美しい」は、私には矛盾しているように感じられる。「石油」にはいろいろな状態があるから「清んで美しい」ものもあるかもしれないが、私が思い浮かべるのは「黒い石油(重油)」である。
だから、つまずく。
つまずくのだけれど、そのつまずきの原因であることばが「小便」ということばを修飾するものにかわる瞬間、つまずきをはねのけて、「肉体」のなかから暴れ出すものがある。つまずきかけたのだが、倒れずに、その急な変化を利用して、走り出していく感じがある。走り出すのは「私の肉体」そのものなのか、「ことばの肉体」なのか、ちょっと判断がつかないが、「おっ」と思う。
「小便」というのは排泄物である。それは「美しい」とはふつうは言われない。けれど「美しい」ものではないからこそ、それが「美しい」ときの「すばらしさ」のようなものも、実は、瞬間的に感じる。たとえば、赤ちゃんのしっこ(小便)。おむつを外した瞬間に、ぴゅーっと飛ぶ小便なんかは、笑いだしてしまう輝きがある。自分が小便をしているのではないのだが、なんだか小便をする「解放感」、「美しさ」があるなあ。そこには、なんというか、「生きる力」がある。
これは、わざわざ「ことば」にはしないが、なんとなく感じることである。瞬間的に感じることである。
そういうことを「掘り起こす」というか、そういうことを「引き継いで」、
ということばが動いている。「燃えるような」は「比喩」である。激しさうあふれる力。燃えないものが燃えだすような、矛盾を突き破る力。
「石油」は「液体」。「液体」は「水」。「水」は「燃えない」。けれど「石油」は「燃える水」。矛盾が動いている。
この「矛盾」を突き破って動く「ことばの肉体」が、矢沢の詩のなかを「真剣」に動いている。「嘘」なしで、動いている。
かっこいいなあ、と思う。
「燃えるような力を持った小便」か。
うん、してみたい。
そういう小便ができれば、元気がわいてくる。元気だからこそ、そういう小便ができるのだろうけれど、そういう小便ができれば元気になれるとも思う。ペニスをびゅんびゅんびゅんと振り回し、手当たり次第に小便で「放火」する。
こりゃあ、楽しいぞ。
「こらあ」とひとは怒るだろう。ひとを怒らせるのは楽しいぞ。ひとが怒るのをみるのは楽しいぞ、などということまで思ってしまう。
こういう詩、大好きだなあ。
福島直哉「森の駅」(初出『わたしとあなたで世界をやめてしまったこと』16年11月)を読みながら、「ことばの肉体」ということについて考えた。
真夜中に
半透明のバスが北上する
疲れで冴えてしまった瞼に
住み着いた蛍が飛び回っている
「真夜中」と「疲れ」は呼応する。「半透明」の「透明」と「冴える」も呼応する。そういう「状況」のなかで「蛍」が飛び回るとき、私は「夏」を思い浮かべる。「夏」は暑いから涼しい場所を求める。「北上する」ということばの中にある「北」が肉体を刺戟する。こういうことばの呼応のなかに、私は「ことばの肉体」を感じる。福島のことばなのだが、福島のことばだけで成り立っているのではなく、ある「ことばの動き」が共有されていると感じる。「共有」されて、ことばが少しずつ「肉体」をもっていく。
この詩は、しかし、思いがけない展開をする。
水仙の匂いに包まれた駅
朝焼けに浮かぶ窓に手を振れば
雲は悲しそうに笑っている
「蛍」は夏。「水仙(の花)」は冬。季節があわない。私は、ここでつまずく。「ことばの肉体」がつまずく。何が起きたのかわからない。
「悲しそうに笑っている」は「疲れ」や「冴える」ということばと響きあう。「悲しい」と「笑う」は矛盾しているが、「冴えた」意識には、ふつうの感じではとらえられない何かをとらえることができる。
そういうことを思いながらも、どうしても「蛍」と「水仙」の関係がわからない。
夏から冬まで、ずーっとバスに乗っているのか。そういう長い時間が意識されているのか。
しかし、ここに書かれている「時間」は、「長い」ものではない。
「朝焼け」。真夜中ではじまったことばは、数行で「朝」にたどりついている。
閉じられた窓からは
甘い風がやってくる
昼下がりの夢のなか
銀色の自転車が走っている
背中に広がる夕焼けに
小鳥は空で塵になる
影は夜と一つになって
わたしは畦道のなかで小さな電信柱になる
「昼(下がり)」「夕(焼け)」「夜」と「時間」がつぎつぎに変わっていく。
うーん。
律儀だ。途中を飛ばさない。あるいは前後しない。
ここにも私は「ことばの肉体」を感じる。「真夜中」「朝」「昼」「夕」「夜」という時間の動きは「ことばの肉体」になってしまっている。
このあと詩はさらにつづき、「眠る」という動詞を経て「目を覚ます」と動いていく。ここにも「ことばの肉体」がある。
引用はしないが、その途中に「虫の音」ということばもあって、季節は夏から秋へと動いているようにも見える。
で、ここからである。
私は、こんなことを考える。
こんなに「律儀」に時間の経過を踏み外さない福島が、なぜ「水仙の匂い」と書いたのか。そこだけ「時間」が飛躍してしまったのか。
「蛍」は「水辺」を飛ぶ。「蛍」ということばは「水」を呼び寄せる「肉体」をもっている。この力のために「水仙」が出てきてしまった。「水仙」のなかの「水」が「蛍」と呼応している。
これは「ことばとの肉体」の力が強すぎるためなのか、それとも「ことばの肉体」に頼って「捏造」してしまったためなのか、ちょっと判断がむずかしい。
「水仙」ではなく「スイレン(睡蓮)」と書こうとしたのか。しかし「実感」がないので「嘘」になってしまったのかもしれない。
無意識なのかもしれないが。
私は、こういう「嘘」が大嫌いである。
「嘘」なら「嘘」で最初から最後まで、「嘘」で固めればいいのに。
「水仙」を「嘘(捏造)」と私は思ってしまうので、この詩のハイライトである後半部分に登場する「幽霊(と呼ばれてしまった人々)」というのも信じられなくなる。これも「捏造(詐欺)」なんじゃないかと疑ってしまう。「生」と同時に「死」もことばにし、「瞼」ということばをもう一度つかうことで「ことばの肉体」をていねいに動かしているのだけれども。
*
矢沢宰「私はいつも思う」(初出『矢沢宰詩集--光る砂漠』16年11月)はどうか。
私はいつも思う。
石油のように
清(す)んで美しい小便がしたい と。
しかも火をつければ
燃えるような力を持った
小便がしたい と。
「石油」と「清んで美しい」は、私には矛盾しているように感じられる。「石油」にはいろいろな状態があるから「清んで美しい」ものもあるかもしれないが、私が思い浮かべるのは「黒い石油(重油)」である。
だから、つまずく。
つまずくのだけれど、そのつまずきの原因であることばが「小便」ということばを修飾するものにかわる瞬間、つまずきをはねのけて、「肉体」のなかから暴れ出すものがある。つまずきかけたのだが、倒れずに、その急な変化を利用して、走り出していく感じがある。走り出すのは「私の肉体」そのものなのか、「ことばの肉体」なのか、ちょっと判断がつかないが、「おっ」と思う。
「小便」というのは排泄物である。それは「美しい」とはふつうは言われない。けれど「美しい」ものではないからこそ、それが「美しい」ときの「すばらしさ」のようなものも、実は、瞬間的に感じる。たとえば、赤ちゃんのしっこ(小便)。おむつを外した瞬間に、ぴゅーっと飛ぶ小便なんかは、笑いだしてしまう輝きがある。自分が小便をしているのではないのだが、なんだか小便をする「解放感」、「美しさ」があるなあ。そこには、なんというか、「生きる力」がある。
これは、わざわざ「ことば」にはしないが、なんとなく感じることである。瞬間的に感じることである。
そういうことを「掘り起こす」というか、そういうことを「引き継いで」、
燃えるような力を持った
ということばが動いている。「燃えるような」は「比喩」である。激しさうあふれる力。燃えないものが燃えだすような、矛盾を突き破る力。
「石油」は「液体」。「液体」は「水」。「水」は「燃えない」。けれど「石油」は「燃える水」。矛盾が動いている。
この「矛盾」を突き破って動く「ことばの肉体」が、矢沢の詩のなかを「真剣」に動いている。「嘘」なしで、動いている。
かっこいいなあ、と思う。
「燃えるような力を持った小便」か。
うん、してみたい。
そういう小便ができれば、元気がわいてくる。元気だからこそ、そういう小便ができるのだろうけれど、そういう小便ができれば元気になれるとも思う。ペニスをびゅんびゅんびゅんと振り回し、手当たり次第に小便で「放火」する。
こりゃあ、楽しいぞ。
「こらあ」とひとは怒るだろう。ひとを怒らせるのは楽しいぞ。ひとが怒るのをみるのは楽しいぞ、などということまで思ってしまう。
こういう詩、大好きだなあ。
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