監督 アキ・カウリスマキ 出演 シェルワン・ハジ、サカリ・クオスマネン、イルッカ・コイブラ
シリア人の難民(シェルワン・ハジ)がフィンランドにたどりつく。彼の希望(望み?)は生き別れた妹を探し出すこと。周囲の人がそれを助ける、と書くとなんだか難民を助けるというストーリーになってしまうが。
ストーリーでは語るのがむずかしいことが描かれる。
この映画には、主人公が何人も登場する。そして互いが助けられる、といえばいいのか。
サカリ・クオスマネンは結婚しているが、訳があって(訳はよく見ればわかるが、よく見なければわからない。あ、あれが伏線か、と最後になってわかる)家を出ていく。シャツの卸が商売だが、それをたたき売って金をつくり、ポーカーで稼ぎ、レストランを経営する。シェルワン・ハジは、そのレストランの従業員になる。
でもねえ、なぜ、わざわざ身分のはっきりしない難民を雇う?
レストランの、それまでの従業員もとても変。まともではない。雇いなおした方がレストランもうまくいくだろう。そういうこともしない。
なぜ?
たぶん、「助ける」という感覚がないのだ。「助ける」のではなく、一緒に生きている。どうやったら一緒に生きて行けるかということを考えることが、「肉体」にしみついてしまっている。「思想」になっている。だから、だれも自分のしていることを説明できない。
「資本主義社会」を生きているのだけれど、「資本主義」の限界を肉体でつかみとり、そこから違う一歩を歩き始めているということだろうか。「新しい一歩」なので、それを説明することばが、まだないのだ。
最後の方のシーンから映画を見つめなおせば、書きたいことが書けるかもしれない。
いくつも印象的なシーン(エピソード)があるが、サカリ・クオスマネンが、元妻の開いてる屋台(?)に行く。元妻が「もう酒はやめた」という。きっと酒が原因でふたりは別れたのだが、それはサカリ・クオスマネンが妻に愛想がつきたというよりも、妻をなんとか立ち直らせたいと思ってのことだったかもしれない。そして、奇妙ないい方だが、この妻を立ち直らせたいという思いによって、サカリ・クオスマネンは支えられていた。生きて行くことができた。
同じように、レストランの従業員、シリア難民を支えるのも、一緒に生きることによって、自分が生きていることが実感できるからだろう。金儲けをする、というよりも、いま、こうやって一緒に生きているということが、生きていけるということが、「不幸ではない」。
「幸せ」の定義はむずかしい。「幸せ」の形はきりがない。でも「不幸ではない」というのなら、漠然としていて、「いまのままで、いいんじゃないか」という感じ。何かを決めて、それを「求める」という感じではない。「幸福」を追求するのではなく、「不幸ではない」ということを追求する。「満足する」ということを追求する。
こういうことと、関係するのかどうなのか、判断がむずかしいが。
アキ・カウリスマキの映画には「情報量」が少ない。「もの」が少ない。全体がとてもシンプルだ。「もの」を求め、「もの」をあふれさせる、「もの」に語らせるのではなく、不可欠なものだけがそこにある。「断捨離」ということが一時期はやったが、すべてが「断捨離」されて、不可欠なものだけを組み合わせてつかっている。
音楽も、必要最小限の楽器で、とてもシンプルだ。
でも。
絶対に捨てないものがある。
シェルワン・ハジは妹を探し出すために、自分の「名前」を捨てた。身分証明書を偽造して、強制送還をのがれ、ヘルシンキで生きている。でも、探し出され、呼び寄せられた妹は、ニセの身分証明書を拒む。「自分の名前」を捨てない。「難民申請」をして、「難民」として生きることを選び、警察に出頭する。
いろいろなものを捨てる。でも「自分」は捨てない。
シェルワン・ハジにしても、「名前」を捨てたが、「妹を助け出す」という「希望」は捨てなかった。自分であろうとしている。
「ハッピーエンド」というのではないが、しみじみとする映画である。
で、ふと。
「難民」ではないが、「国内難民」ともいうべきひとに焦点を当てた「わたしは、ダニエル・ブレイク」(ケン・ローチ監督)を思い出した。社会の安全保障システムからしめだされそうになる主人公。彼はシングルマザーと2人の子どもの家族を助けたことから、社会がどうなっているかをさらに認識するようになる。
貧乏人はさらに貧乏になり、まるで社会には存在しないようになる。見えない部分に押し込められる。
だが、だれにも「名前」がある。だれにとっても、「私は私である」ということは、絶対的な「希望」だ。
この「希望」を守り抜くために、何をすべきなのか、というようなことも考えた。
「難民」問題は日本には存在しないように装われている。隠蔽するために、極右的言動が蔓延し、安倍がそれを利用している。自衛隊を憲法に書き加え、安倍が軍事独裁を完成させるとき、「難民問題」は再び「アジア諸国への侵略」という形で拡大展開することになる。「難民」を日本に入国させないという方法のために戦争をし、日本国内の「難民(貧困者)」には戦争なのだから国民は貧困に我慢すべきだと、貧困をさらにおしつけるだろう。「ほしがりません、勝つまでは」政策が、すでに始まっている。社会保障が削減され、軍需費が拡大している。
同時に「私は私である」という主張も抹殺されようとしている。護憲派の天皇は強制退位させられ、沈黙させられる。天皇を沈黙させたあと、国民を沈黙させる作戦は進んでいる。
「難民」問題はむずかしいが、少なくともヨーロッパでは「難民」を受け入れ、「国内問題」のひとつとして向き合う動きがある。そういう動きが、政府の動きとは別な形で「個人」の動きとしても存在している。
そういうことをも教えてくれる映画である。
だんだん映画の感想ではなくなったが。
(KBCシネマ1、2017年12月24日)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
シリア人の難民(シェルワン・ハジ)がフィンランドにたどりつく。彼の希望(望み?)は生き別れた妹を探し出すこと。周囲の人がそれを助ける、と書くとなんだか難民を助けるというストーリーになってしまうが。
ストーリーでは語るのがむずかしいことが描かれる。
この映画には、主人公が何人も登場する。そして互いが助けられる、といえばいいのか。
サカリ・クオスマネンは結婚しているが、訳があって(訳はよく見ればわかるが、よく見なければわからない。あ、あれが伏線か、と最後になってわかる)家を出ていく。シャツの卸が商売だが、それをたたき売って金をつくり、ポーカーで稼ぎ、レストランを経営する。シェルワン・ハジは、そのレストランの従業員になる。
でもねえ、なぜ、わざわざ身分のはっきりしない難民を雇う?
レストランの、それまでの従業員もとても変。まともではない。雇いなおした方がレストランもうまくいくだろう。そういうこともしない。
なぜ?
たぶん、「助ける」という感覚がないのだ。「助ける」のではなく、一緒に生きている。どうやったら一緒に生きて行けるかということを考えることが、「肉体」にしみついてしまっている。「思想」になっている。だから、だれも自分のしていることを説明できない。
「資本主義社会」を生きているのだけれど、「資本主義」の限界を肉体でつかみとり、そこから違う一歩を歩き始めているということだろうか。「新しい一歩」なので、それを説明することばが、まだないのだ。
最後の方のシーンから映画を見つめなおせば、書きたいことが書けるかもしれない。
いくつも印象的なシーン(エピソード)があるが、サカリ・クオスマネンが、元妻の開いてる屋台(?)に行く。元妻が「もう酒はやめた」という。きっと酒が原因でふたりは別れたのだが、それはサカリ・クオスマネンが妻に愛想がつきたというよりも、妻をなんとか立ち直らせたいと思ってのことだったかもしれない。そして、奇妙ないい方だが、この妻を立ち直らせたいという思いによって、サカリ・クオスマネンは支えられていた。生きて行くことができた。
同じように、レストランの従業員、シリア難民を支えるのも、一緒に生きることによって、自分が生きていることが実感できるからだろう。金儲けをする、というよりも、いま、こうやって一緒に生きているということが、生きていけるということが、「不幸ではない」。
「幸せ」の定義はむずかしい。「幸せ」の形はきりがない。でも「不幸ではない」というのなら、漠然としていて、「いまのままで、いいんじゃないか」という感じ。何かを決めて、それを「求める」という感じではない。「幸福」を追求するのではなく、「不幸ではない」ということを追求する。「満足する」ということを追求する。
こういうことと、関係するのかどうなのか、判断がむずかしいが。
アキ・カウリスマキの映画には「情報量」が少ない。「もの」が少ない。全体がとてもシンプルだ。「もの」を求め、「もの」をあふれさせる、「もの」に語らせるのではなく、不可欠なものだけがそこにある。「断捨離」ということが一時期はやったが、すべてが「断捨離」されて、不可欠なものだけを組み合わせてつかっている。
音楽も、必要最小限の楽器で、とてもシンプルだ。
でも。
絶対に捨てないものがある。
シェルワン・ハジは妹を探し出すために、自分の「名前」を捨てた。身分証明書を偽造して、強制送還をのがれ、ヘルシンキで生きている。でも、探し出され、呼び寄せられた妹は、ニセの身分証明書を拒む。「自分の名前」を捨てない。「難民申請」をして、「難民」として生きることを選び、警察に出頭する。
いろいろなものを捨てる。でも「自分」は捨てない。
シェルワン・ハジにしても、「名前」を捨てたが、「妹を助け出す」という「希望」は捨てなかった。自分であろうとしている。
「ハッピーエンド」というのではないが、しみじみとする映画である。
で、ふと。
「難民」ではないが、「国内難民」ともいうべきひとに焦点を当てた「わたしは、ダニエル・ブレイク」(ケン・ローチ監督)を思い出した。社会の安全保障システムからしめだされそうになる主人公。彼はシングルマザーと2人の子どもの家族を助けたことから、社会がどうなっているかをさらに認識するようになる。
貧乏人はさらに貧乏になり、まるで社会には存在しないようになる。見えない部分に押し込められる。
だが、だれにも「名前」がある。だれにとっても、「私は私である」ということは、絶対的な「希望」だ。
この「希望」を守り抜くために、何をすべきなのか、というようなことも考えた。
「難民」問題は日本には存在しないように装われている。隠蔽するために、極右的言動が蔓延し、安倍がそれを利用している。自衛隊を憲法に書き加え、安倍が軍事独裁を完成させるとき、「難民問題」は再び「アジア諸国への侵略」という形で拡大展開することになる。「難民」を日本に入国させないという方法のために戦争をし、日本国内の「難民(貧困者)」には戦争なのだから国民は貧困に我慢すべきだと、貧困をさらにおしつけるだろう。「ほしがりません、勝つまでは」政策が、すでに始まっている。社会保障が削減され、軍需費が拡大している。
同時に「私は私である」という主張も抹殺されようとしている。護憲派の天皇は強制退位させられ、沈黙させられる。天皇を沈黙させたあと、国民を沈黙させる作戦は進んでいる。
「難民」問題はむずかしいが、少なくともヨーロッパでは「難民」を受け入れ、「国内問題」のひとつとして向き合う動きがある。そういう動きが、政府の動きとは別な形で「個人」の動きとしても存在している。
そういうことをも教えてくれる映画である。
だんだん映画の感想ではなくなったが。
(KBCシネマ1、2017年12月24日)
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「映画館に行こう」にご参加下さい。
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