以倉紘平選詩集『駅に着くとサーラの木があった』(2)(編集工房ノア、2017年12月20日発行)
以倉紘平選詩集『駅に着くとサーラの木があった』の「沙羅鎮魂」は「平家物語」のことばを題材にしている。そのうちの一篇「馬」。
と始まる。この馬の動きと、平知盛が逃走途中、馬を船から追い返したときの動きが重ねられる。馬は最初は船を離れないが、やがて陸に向かって泳ぎ始める。そして、
うーん。
私は、動けなくなる。私のことばが動かなくなる。
平家物語の馬の描写から、馬は何を見たかと以倉は考える。以倉の考えは十代、二十代、三十代、四十代と変わっていく。同じことばなのに、そのことばから考えることが違ってくる。
では、冒頭に引用されたジュール・シュペルヴィエルのことばについてはどうなのか。以倉は書いていない。書いていなけれど、やはり年代とともにかわっているだろう。
引用して書き始めたときと、「平家物語」の馬について書いた後でも、きっと違っているだろう。
「かつてまだ誰も見た事のないもの」とは何か。
それと重なるのではないか。何も見ていない。人間の営みに関係することは何も見ていない。人間の営みに関係しないから、それは人間には見えない。人間は、それを「誰も見た事がない」。
人間には見たことのないものが、世界にある。
それは、ことばにはならない。
「人間と馬との親密な絆」「運命の支配に対する澄明な悲しみ」「滅亡の挽歌」。そういう「ことば」でとらえられたものは、すべて「ない」。
「色即是空」ということばがある。その意味を私は知っているわけではない。知っているわけではないが、あ、こういうことかなあ、と思う。
「人間と馬との親密な絆」「運命の支配に対する澄明な悲しみ」「滅亡の挽歌」などの「ことば」、それが「色」である。「形」である。「考えが動いた後(軌跡)」としたの「形」。「みえる」と思っているもの。「みた」と思っているもの。そういうものは、すべて「空」である。そんなものは、「ない」。
「ない」ということが、「ある」。
これが「色即是空」か、と。
あ、これでは「ことば」が急ぎすぎている。「意味」になりすぎている。
ジュール・シュペルヴィエルは「きっかけ」というか、「始まり」なのだから、そこへもどってはいけないのかもしれない。
以倉の思い(感想)は十代、二十代、三十代、四十代と違ってきている。四十代になって「確信するに至った」と書いているが、では、十代、二十代、三十代のときの感想は、どこが間違っているのだろう。
「間違い」とか「正しい」とか、そういう「差(あるいは優劣)」というものがあるのだろうか。
別のことばで言うと、十代、二十代、三十代の「ことば」がとらえる馬は、「平家物語」の馬とつながっていないのだろうか。
そうではないと思う。
それぞれが、馬としっかりとつながっている。そして、そのそれぞれは、いまも生きている。否定されたのでも、乗り越えられたのでもなく、あるがままに、そこに「いる」。そのときの感想が、いまも「ことば」として「ある」。
だからこそ、以倉は、そのことばの全部を「いま」「ここ」に書き表すことができる。それぞれが「馬」とつながる、「平家物語」とつながる。
わたしのことばを立ち止まらせたのは、たぶん、この奇妙な「ことば」のあり方なのだ。どれが「正しい」、どれが「すぐれている」ということとは無関係に、同じものとしてそこに「ある」。あるいは「あらわれてきている」。
これは不思議だなあ。
あ、また、行き詰まった。
もう一度読み返してみる。
そうすると、
という行で、また違ったことを考え始める。
「あの澄んだ馬の瞳」と以倉は書いているが、「平家物語」のどこに馬の瞳の描写があったのだろう。以倉が引用している文章では、
となっている。「船の方をかへりみて」だから、そこに「瞳」の存在を確認することはできる。「かへりみて」のなかには「みる」がある。「みる」は「目(瞳)でみる」。「みる」の「主語」は「瞳」であると言うことができる。
でも、「澄んで」はどうだろうか。
これは、以倉がつけくわえたことばである。
そうであるなら。
この「澄んで」(澄む)という「動詞」こそが、以倉がつかみとった「ことば」のすべてをつらぬく「真実」ではないだろうか、と思う。
「澄む」は「まじりけがない」、「障碍物がない」ということだろう。
十代、二十代、三十代、四十代の、それぞれの「感想、考え(ことば)」の間には「障碍物」がない。同じように、その「ことば」と「平家物語」、あるいは「馬」との間にも「障碍物」がない。
馬は何を見たのか、と書きながら、以倉は「平家物語の馬」そのものになって「平家物語」を見ている。馬になって「平家物語」を見るとき、「平家物語」がいきいきと動き出す。
「ない」は「私がない」ということなのだ。
ジュール・シュペルヴィエルも、馬を描きながら、馬になっている。ジュール・シュペルヴィエルは消えている。
こういうジュール・シュペルヴィエルを描くとき、以倉は以倉ではなく、ジュール・シュペルヴィエルになっている。以倉は消えている。
以倉は「世界」が動くときの「障碍」になっていない。以倉は「澄んだ」人間になって、世界の中に広がっている。
あ、これは、きのう読んだ「約束」の
という世界と私の関係と同じだ。
「澄んだ」ということばが、ふいに「約束」につながり、そのままほかの以倉の詩の中を動いていく気がした。
それに驚いて、私は動けなくなったのだ。
*
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目次
カニエ・ナハ『IC』2 たなかあきみつ『アンフォルム群』11
林和清『去年マリエンバートで』15 夏目美知子「雨についての思索を一篇」18
北川透「「佃渡しで」を読む」21 野木京子「小石の指」31
疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」34 藤本哲明『ディオニソスの居場所』37
マーサ・ナカムラ『狸の匣』40 星野元一『ふろしき讃歌』46
暁方ミセイ『魔法の丘』53 狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」58
暁方ミセイ『魔法の丘』(2)63 新井豊吉『掴みそこねた魂』69
松本秀文『「猫」と云うトンネル』74 松本秀文『「猫」と云うトンネル』78
山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』83 吉田正代『る』87
福間明子『雨はランダムに降る』91 清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』95
川上明日夫『白骨草』107
*
詩集『誤読』を発売しています。
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嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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以倉紘平選詩集『駅に着くとサーラの木があった』の「沙羅鎮魂」は「平家物語」のことばを題材にしている。そのうちの一篇「馬」。
〈ひょいと後を向いたあの馬は、かつてまだ誰も見た事のないものを見た〉と二十世紀の初め、ジュール・シュペルヴィエルは書いた。
と始まる。この馬の動きと、平知盛が逃走途中、馬を船から追い返したときの動きが重ねられる。馬は最初は船を離れないが、やがて陸に向かって泳ぎ始める。そして、
〈足たつ程にもなりしかば、猶船の方をかへりみて、二三度までこそいななきけれ〉。--ところでこの馬は、ふりかえっていったい何を見たというのだろう。十代の頃、私はこの馬のいななきに、人間と馬の親密な絆を思って涙した。二十代で、厳然たる運命の支配に対する澄明な悲しみを見た。三十代で、王朝世界の滅亡の挽歌を聞いた。そして、四十代になって私は確信するに至った。人間の愚かしい営みなど、あの澄んだ馬の瞳は何も映していなかったのだと。
うーん。
私は、動けなくなる。私のことばが動かなくなる。
平家物語の馬の描写から、馬は何を見たかと以倉は考える。以倉の考えは十代、二十代、三十代、四十代と変わっていく。同じことばなのに、そのことばから考えることが違ってくる。
では、冒頭に引用されたジュール・シュペルヴィエルのことばについてはどうなのか。以倉は書いていない。書いていなけれど、やはり年代とともにかわっているだろう。
引用して書き始めたときと、「平家物語」の馬について書いた後でも、きっと違っているだろう。
「かつてまだ誰も見た事のないもの」とは何か。
人間の愚かしい営みなど、あの澄んだ馬の瞳は何も映していなかった
それと重なるのではないか。何も見ていない。人間の営みに関係することは何も見ていない。人間の営みに関係しないから、それは人間には見えない。人間は、それを「誰も見た事がない」。
人間には見たことのないものが、世界にある。
それは、ことばにはならない。
「人間と馬との親密な絆」「運命の支配に対する澄明な悲しみ」「滅亡の挽歌」。そういう「ことば」でとらえられたものは、すべて「ない」。
「色即是空」ということばがある。その意味を私は知っているわけではない。知っているわけではないが、あ、こういうことかなあ、と思う。
「人間と馬との親密な絆」「運命の支配に対する澄明な悲しみ」「滅亡の挽歌」などの「ことば」、それが「色」である。「形」である。「考えが動いた後(軌跡)」としたの「形」。「みえる」と思っているもの。「みた」と思っているもの。そういうものは、すべて「空」である。そんなものは、「ない」。
「ない」ということが、「ある」。
これが「色即是空」か、と。
あ、これでは「ことば」が急ぎすぎている。「意味」になりすぎている。
ジュール・シュペルヴィエルは「きっかけ」というか、「始まり」なのだから、そこへもどってはいけないのかもしれない。
以倉の思い(感想)は十代、二十代、三十代、四十代と違ってきている。四十代になって「確信するに至った」と書いているが、では、十代、二十代、三十代のときの感想は、どこが間違っているのだろう。
「間違い」とか「正しい」とか、そういう「差(あるいは優劣)」というものがあるのだろうか。
別のことばで言うと、十代、二十代、三十代の「ことば」がとらえる馬は、「平家物語」の馬とつながっていないのだろうか。
そうではないと思う。
それぞれが、馬としっかりとつながっている。そして、そのそれぞれは、いまも生きている。否定されたのでも、乗り越えられたのでもなく、あるがままに、そこに「いる」。そのときの感想が、いまも「ことば」として「ある」。
だからこそ、以倉は、そのことばの全部を「いま」「ここ」に書き表すことができる。それぞれが「馬」とつながる、「平家物語」とつながる。
わたしのことばを立ち止まらせたのは、たぶん、この奇妙な「ことば」のあり方なのだ。どれが「正しい」、どれが「すぐれている」ということとは無関係に、同じものとしてそこに「ある」。あるいは「あらわれてきている」。
これは不思議だなあ。
あ、また、行き詰まった。
もう一度読み返してみる。
そうすると、
あの澄んだ馬の瞳は何も映していなかった
という行で、また違ったことを考え始める。
「あの澄んだ馬の瞳」と以倉は書いているが、「平家物語」のどこに馬の瞳の描写があったのだろう。以倉が引用している文章では、
猶船の方をかへりみて、二三度までこそいななきけれ
となっている。「船の方をかへりみて」だから、そこに「瞳」の存在を確認することはできる。「かへりみて」のなかには「みる」がある。「みる」は「目(瞳)でみる」。「みる」の「主語」は「瞳」であると言うことができる。
でも、「澄んで」はどうだろうか。
これは、以倉がつけくわえたことばである。
そうであるなら。
この「澄んで」(澄む)という「動詞」こそが、以倉がつかみとった「ことば」のすべてをつらぬく「真実」ではないだろうか、と思う。
「澄む」は「まじりけがない」、「障碍物がない」ということだろう。
十代、二十代、三十代、四十代の、それぞれの「感想、考え(ことば)」の間には「障碍物」がない。同じように、その「ことば」と「平家物語」、あるいは「馬」との間にも「障碍物」がない。
馬は何を見たのか、と書きながら、以倉は「平家物語の馬」そのものになって「平家物語」を見ている。馬になって「平家物語」を見るとき、「平家物語」がいきいきと動き出す。
「ない」は「私がない」ということなのだ。
ジュール・シュペルヴィエルも、馬を描きながら、馬になっている。ジュール・シュペルヴィエルは消えている。
こういうジュール・シュペルヴィエルを描くとき、以倉は以倉ではなく、ジュール・シュペルヴィエルになっている。以倉は消えている。
以倉は「世界」が動くときの「障碍」になっていない。以倉は「澄んだ」人間になって、世界の中に広がっている。
あ、これは、きのう読んだ「約束」の
中に私が必ずいる
という世界と私の関係と同じだ。
「澄んだ」ということばが、ふいに「約束」につながり、そのままほかの以倉の詩の中を動いていく気がした。
それに驚いて、私は動けなくなったのだ。
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「詩はどこにあるか」11月の詩の批評を一冊にまとめました。
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目次
カニエ・ナハ『IC』2 たなかあきみつ『アンフォルム群』11
林和清『去年マリエンバートで』15 夏目美知子「雨についての思索を一篇」18
北川透「「佃渡しで」を読む」21 野木京子「小石の指」31
疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」34 藤本哲明『ディオニソスの居場所』37
マーサ・ナカムラ『狸の匣』40 星野元一『ふろしき讃歌』46
暁方ミセイ『魔法の丘』53 狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」58
暁方ミセイ『魔法の丘』(2)63 新井豊吉『掴みそこねた魂』69
松本秀文『「猫」と云うトンネル』74 松本秀文『「猫」と云うトンネル』78
山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』83 吉田正代『る』87
福間明子『雨はランダムに降る』91 清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』95
川上明日夫『白骨草』107
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