川口晴美「氷の夜」、杉本真維子「論争」(「現代詩手帖」2017年12月号)
川口晴美「氷の夜」(初出「山梨日日新聞」1月23日)。
「やわらかく反りかえるおまえの骨」が魅力的だ。カーブを描いている骨(たぶん、小舟の舟底のようなカーブなのだろう。だから次に「骨の舟」ということばが出てくる)なのだろうが、最初からその形をしているのではなく、舟の底の形になるように、ゆっくりと川口の視界の中で変化していく、と読んだ。動かないものが、動く。それは「矛盾」なのだが、矛盾だからこそ、そこに詩がある。
その、川口のために変形し、舟になる骨に乗って、夜そのもののなかへ出航していく。夢のなかへ出航していく。骨は愛しいだれかの骨である。「あまく」も「濁った」も、愛しさのなかにある。
で、そのあとなのだが。
「誰も知らない城へ辿り着けなくても」の「城」って、どういう城? 姫路城とか江戸城とか、いわゆる日本の城? 私は、ちょっと天守閣のある城を思い浮かべられない。海辺の城、あるいは川岸の城というものを、あまり見たことがないからだ。(唐津城は海の近くにあったと思うが。)日本の城のまわりには、海や大きな川ではなく堀がある。、一方、西洋の城なら(映画とか、マンガを含めてだが)海辺(岬)とか、断崖の川岸に立つ城を見たことがある。だから、ふーん、「夢」だから日本(現実)を離れて、西洋の城でもいいかあ、と思うのだが。
「おまえの中のうつくしいオニがほら目覚める」の「オニ」はどうなのかなあ。西洋にオニはいるか。「悪魔」はいてもオニはいないのではないか。
何が言いたいかというと。
「城」と「オニ」ということばのつながりに、私は「ことばの肉体」を感じないのだ。つまずくというよりも、「ことばの肉体」が切断されてしまったように感じる。
「やわらかく反りかえるおまえの骨」という「矛盾」で感じだ魅力(ことばの肉体が奥底からねじまげられ、新しく生まれ変わる感じ)が、突然、消えてしまう。言い換えると、「ことば」が「頭」で書かれていると感じてしまう。最初は「真剣」でとてもおもしろいが、最後は「捏造」かなあと、思ってしまう。
*
杉本真維子「論争」(初出「三田文学」128号、1月)はどうか。法事か葬儀か、そういう状況を書いているように感じられる。
「主語-述語」の構造を突き破って、「ことばの階層」(重層構造)が露出するような杉本の文体は、私は苦手である。
でも、ここには川口の書いていたような「やわらか反りかえる骨-城-オニ」にみられるような「断絶」がない。
どこかで「ことばの肉体」がしぶとくつづいている。
「フキの煮物」と「汚れ」のあいだに割り込んでいる「不遜」ということばの強さとか、「吐かれる息の、一寸前には、弾力があった」の「弾力」の発見に、ぐいとひっぱられる。
「和菓子には手をつけてはならない」「正座を、前かがみにくずすな」という「理由のない命令」と「長女とはそういうものであるから」のあいだにも「ことばの肉体」の連続性を感じる。
「そういうもの」というのは、「ことばの肉体」が引き受けている何かである。「そういうもの」としかいえないもの、「ことば」にならない「ことば」が、そこに動いている。「遠方」ということばがあるが、「遠縁」のような、妙な「血縁」がはたらいている。動いている。
「ことばの心根」と、杉本はいうかもしれない。
その「根」が絡み合い「不遜」とか「昂奮」とか「無責任」などを、暴力的に「発芽」させる。「発芽」は「芽」でおわらずに、すぐに幹になり枝になり葉を繁らせる。その暴力的な切断と接続が杉本のことばの運動の魅力である。
でも。
最初に書いたように、私は杉本の詩が「苦手」である。「頭」では「わかる」が、どうも「閉塞的」な感じ、「土着的」な感じが強くて、息が詰まる感じがする。「肉体」がいやがる。
妙な言い方になるが、どこまで行っても「地つづき」で「海」がない。開かれた「空間」がない感じ。こんな「感覚的」なことを書いてもしようがないのかもしれないが、「育った土地が違う」と感じてしまう。杉本がどこで育ったか知らないが。
川口晴美「氷の夜」(初出「山梨日日新聞」1月23日)。
闇の底で発光するように白く
やわらかく反りかえるおまえの骨は
名前のない骨の舟
泣かずに眠れるなら
夜の彼方へ出航しよう
あまく濁ったコオリの味の
夢に沈んで
誰も知らない城へ辿り着けなくても
消えてゆく指で岸をたぐり寄せてごらん
おまえの中のうつくしいオニがほら目覚める
「やわらかく反りかえるおまえの骨」が魅力的だ。カーブを描いている骨(たぶん、小舟の舟底のようなカーブなのだろう。だから次に「骨の舟」ということばが出てくる)なのだろうが、最初からその形をしているのではなく、舟の底の形になるように、ゆっくりと川口の視界の中で変化していく、と読んだ。動かないものが、動く。それは「矛盾」なのだが、矛盾だからこそ、そこに詩がある。
その、川口のために変形し、舟になる骨に乗って、夜そのもののなかへ出航していく。夢のなかへ出航していく。骨は愛しいだれかの骨である。「あまく」も「濁った」も、愛しさのなかにある。
で、そのあとなのだが。
「誰も知らない城へ辿り着けなくても」の「城」って、どういう城? 姫路城とか江戸城とか、いわゆる日本の城? 私は、ちょっと天守閣のある城を思い浮かべられない。海辺の城、あるいは川岸の城というものを、あまり見たことがないからだ。(唐津城は海の近くにあったと思うが。)日本の城のまわりには、海や大きな川ではなく堀がある。、一方、西洋の城なら(映画とか、マンガを含めてだが)海辺(岬)とか、断崖の川岸に立つ城を見たことがある。だから、ふーん、「夢」だから日本(現実)を離れて、西洋の城でもいいかあ、と思うのだが。
「おまえの中のうつくしいオニがほら目覚める」の「オニ」はどうなのかなあ。西洋にオニはいるか。「悪魔」はいてもオニはいないのではないか。
何が言いたいかというと。
「城」と「オニ」ということばのつながりに、私は「ことばの肉体」を感じないのだ。つまずくというよりも、「ことばの肉体」が切断されてしまったように感じる。
「やわらかく反りかえるおまえの骨」という「矛盾」で感じだ魅力(ことばの肉体が奥底からねじまげられ、新しく生まれ変わる感じ)が、突然、消えてしまう。言い換えると、「ことば」が「頭」で書かれていると感じてしまう。最初は「真剣」でとてもおもしろいが、最後は「捏造」かなあと、思ってしまう。
*
杉本真維子「論争」(初出「三田文学」128号、1月)はどうか。法事か葬儀か、そういう状況を書いているように感じられる。
フキの煮物をひとさしでおく
楊枝が不遜に汚れ
和菓子には手をつけてはならない、と
女中は、かかえた盆を裏返し
心根をおくる
その耳は、近親者の談でみたされ
遠方者のわたしの
席はない
押し込めて、蓋をすると
吐かれる息の、一寸前には、弾力があった
「主語-述語」の構造を突き破って、「ことばの階層」(重層構造)が露出するような杉本の文体は、私は苦手である。
でも、ここには川口の書いていたような「やわらか反りかえる骨-城-オニ」にみられるような「断絶」がない。
どこかで「ことばの肉体」がしぶとくつづいている。
「フキの煮物」と「汚れ」のあいだに割り込んでいる「不遜」ということばの強さとか、「吐かれる息の、一寸前には、弾力があった」の「弾力」の発見に、ぐいとひっぱられる。
洗ったばかりの、墓が、昂奮する
今さら、土など盛り上がらせて
けしかけられても
骨はいまも、無責任に
すべすべしているではないか
正座を、前かがみにくずすな
すぐに懇願をかたどり
卒塔婆に肩をはたかれる
長女とはそういうものであるから
「和菓子には手をつけてはならない」「正座を、前かがみにくずすな」という「理由のない命令」と「長女とはそういうものであるから」のあいだにも「ことばの肉体」の連続性を感じる。
「そういうもの」というのは、「ことばの肉体」が引き受けている何かである。「そういうもの」としかいえないもの、「ことば」にならない「ことば」が、そこに動いている。「遠方」ということばがあるが、「遠縁」のような、妙な「血縁」がはたらいている。動いている。
「ことばの心根」と、杉本はいうかもしれない。
その「根」が絡み合い「不遜」とか「昂奮」とか「無責任」などを、暴力的に「発芽」させる。「発芽」は「芽」でおわらずに、すぐに幹になり枝になり葉を繁らせる。その暴力的な切断と接続が杉本のことばの運動の魅力である。
でも。
最初に書いたように、私は杉本の詩が「苦手」である。「頭」では「わかる」が、どうも「閉塞的」な感じ、「土着的」な感じが強くて、息が詰まる感じがする。「肉体」がいやがる。
妙な言い方になるが、どこまで行っても「地つづき」で「海」がない。開かれた「空間」がない感じ。こんな「感覚的」なことを書いてもしようがないのかもしれないが、「育った土地が違う」と感じてしまう。杉本がどこで育ったか知らないが。
裾花 | |
クリエーター情報なし | |
思潮社 |