小笠原鳥類「魚の歌」(「現代詩手帖」2017年12月号)
小笠原鳥類「魚の歌」(初出「エウメニデスⅢ」52、16年11月)のなかで、ことばはどう動いているだろうか。
何かを言おうとする。しかし、ことばはすぐには「成文化」されない。とぎれとぎれにことばがでてくる。とぎれとぎれを確かめながら、なんとか「成文化」しようとしている。そんな感じだろうか。この始まりは。
この始まりを受けて、ことばは、こう動く。
書き出しの三行をいいなおしているだろう。「いい、こと」とはたとえば「魚」を見たときのことかもしれない。川の中を泳ぐ魚。それは魚だけれど、同時に「音楽」でもある。「楽譜」でもある。魚が泳ぐのを見ていると、小笠原の肉体のなかで音楽の記憶がよみがえる、ということか。それが、楽しい。それが「いい、こと」。
そういうことを「成文化」させていうのはなかなかむずかしい。どういう順序でことばをととのえなおせばいいのか、よくわからない。その瞬間の、「よくわからさない、けれど言いたい」という感じをそのまま、ととのえずに(成文化させずに)、なるべく自然に放出したものが、ここに書かれていることばかもしれない。
そうすると、小笠原にとっては、詩とは「成文化」されるまえの、「未成文」のことばのあり方ということになる。
うーん。
そういってしまえば、そうなんだけれど、と私はここで非常に悩んでしまう。
私は非常に頭が悪い。だから「成文化」されていないことばというのは、何と言えばいいのか、「覚えられない」。
「覚えられない」は「考えられない」ということでもある。「考えなくてもい」のかもしれないけれど、ことばというのは「考える」ためにあると思うので、どうも納得できない。
これを逆に(?)言いなおすと。
小笠原は、こういう「成文化」を否定したことばを連続させることで、何を考えようとしているのか、私にはわからないということだ。
「わからなくてもいい」のが詩、「考えなくてもいい」のが詩、なのかもしれないけれど。
あ、違うなあ。
そういうことではない。
小笠原は、こういう「成文化」を否定したことばで、まだ存在していない「成文」というものをつくりだそうとしているのか、それとも「成文化」を否定しさえすればそれで詩になると考えているのか、そこのところがよくわからない。
いままで存在しなかった「文体」をつくるという意識でことばを動かしているのなら、それはおもしろいことだけれど、単に「成文化を否定する」ということで詩をばらまいているのだとしたら、それは「手抜き」ではないかなあ、と感じてしまう。ぽきぽきと折れた「文体の断面」を見せられているだけのような気がする。
実は、判断がつかない。
「魚の図鑑」がさまざまに言いなおされている。「図鑑」に関することばが、あちらこちらからあらわれてくる。「見える」という動詞がことばを動かしている。
でも、「(魚の図鑑は歌の図鑑だ)楽譜が……」の「歌/楽譜」はどこへ行ったのか。「歌(音)」ではなく「楽譜(音の再現方法を示した記録)」だから、「見る/見える」を中心にして動くのは自然なことなのか。
「成文化を否定する」のだとしたら、この「ととのえ方」はちょっと「ととのいすぎている」。
そういうことも感じる。
ずーとあとの方にゆくと、
と「歌」が登場してくるが、その「歌」の復活までの「図鑑」に象徴される「図=絵=視覚」との関係が、よくわからない。
考えられない。
版画に言い換えられた図のなかで、聴覚はどう生きつづけていて、それが何をきっかけに視覚をつきやぶってあらわれてきたのか、その「ことばの肉体」のなかの「聴覚」と「視覚」の切断、連続、融合というものが、わからない。「肉体」が「連続性」のあるものとして、感じられない。
「歌」を聴覚ではなく視覚でとらえなおしたもの、と考えればいいのかなあ。
*
詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。
ここをクリックし、「製本の注文はこちら」のボタンを押してください。
小笠原鳥類「魚の歌」(初出「エウメニデスⅢ」52、16年11月)のなかで、ことばはどう動いているだろうか。
よいことがあると、いい。あの、ええ、
それが、とても、いい。
とても、穏やかに、うれしい、ことが、いい。
何かを言おうとする。しかし、ことばはすぐには「成文化」されない。とぎれとぎれにことばがでてくる。とぎれとぎれを確かめながら、なんとか「成文化」しようとしている。そんな感じだろうか。この始まりは。
この始まりを受けて、ことばは、こう動く。
あの川に、いろいろな、種類の歌が
魚が(魚の図鑑は歌の図鑑だ)楽譜が……
泳いでいて、魚の背中が見える。
書き出しの三行をいいなおしているだろう。「いい、こと」とはたとえば「魚」を見たときのことかもしれない。川の中を泳ぐ魚。それは魚だけれど、同時に「音楽」でもある。「楽譜」でもある。魚が泳ぐのを見ていると、小笠原の肉体のなかで音楽の記憶がよみがえる、ということか。それが、楽しい。それが「いい、こと」。
そういうことを「成文化」させていうのはなかなかむずかしい。どういう順序でことばをととのえなおせばいいのか、よくわからない。その瞬間の、「よくわからさない、けれど言いたい」という感じをそのまま、ととのえずに(成文化させずに)、なるべく自然に放出したものが、ここに書かれていることばかもしれない。
そうすると、小笠原にとっては、詩とは「成文化」されるまえの、「未成文」のことばのあり方ということになる。
うーん。
そういってしまえば、そうなんだけれど、と私はここで非常に悩んでしまう。
私は非常に頭が悪い。だから「成文化」されていないことばというのは、何と言えばいいのか、「覚えられない」。
「覚えられない」は「考えられない」ということでもある。「考えなくてもい」のかもしれないけれど、ことばというのは「考える」ためにあると思うので、どうも納得できない。
これを逆に(?)言いなおすと。
小笠原は、こういう「成文化」を否定したことばを連続させることで、何を考えようとしているのか、私にはわからないということだ。
「わからなくてもいい」のが詩、「考えなくてもいい」のが詩、なのかもしれないけれど。
あ、違うなあ。
そういうことではない。
小笠原は、こういう「成文化」を否定したことばで、まだ存在していない「成文」というものをつくりだそうとしているのか、それとも「成文化」を否定しさえすればそれで詩になると考えているのか、そこのところがよくわからない。
いままで存在しなかった「文体」をつくるという意識でことばを動かしているのなら、それはおもしろいことだけれど、単に「成文化を否定する」ということで詩をばらまいているのだとしたら、それは「手抜き」ではないかなあ、と感じてしまう。ぽきぽきと折れた「文体の断面」を見せられているだけのような気がする。
実は、判断がつかない。
魚は透明なので、内臓も見えるだろう健康な。
健康な健康だ、
魚のウロコがたくさんあって、それらの
輪郭の線が黒くなって、見える。
黒い絵、というものが、あった。魚を描いたんだろう
魚の図鑑が、画集で、あって
版画、だった。版画の群れ。
版画は十九世紀で、とても線が細いものだ
銅版画。銅の、版画。よいことである
「魚の図鑑」がさまざまに言いなおされている。「図鑑」に関することばが、あちらこちらからあらわれてくる。「見える」という動詞がことばを動かしている。
でも、「(魚の図鑑は歌の図鑑だ)楽譜が……」の「歌/楽譜」はどこへ行ったのか。「歌(音)」ではなく「楽譜(音の再現方法を示した記録)」だから、「見る/見える」を中心にして動くのは自然なことなのか。
「成文化を否定する」のだとしたら、この「ととのえ方」はちょっと「ととのいすぎている」。
そういうことも感じる。
ずーとあとの方にゆくと、
魚の内臓を食べる人も、いるだろう
それは苦くて美味だ、と言われる。歌われた
よいことだ。レコードで歌を聞いていた
歌を聞きながら、料理を、作っていた。
と「歌」が登場してくるが、その「歌」の復活までの「図鑑」に象徴される「図=絵=視覚」との関係が、よくわからない。
考えられない。
版画に言い換えられた図のなかで、聴覚はどう生きつづけていて、それが何をきっかけに視覚をつきやぶってあらわれてきたのか、その「ことばの肉体」のなかの「聴覚」と「視覚」の切断、連続、融合というものが、わからない。「肉体」が「連続性」のあるものとして、感じられない。
「歌」を聴覚ではなく視覚でとらえなおしたもの、と考えればいいのかなあ。
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詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。
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