詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小笠原鳥類「魚の歌」

2017-12-13 15:46:17 | 詩(雑誌・同人誌)
小笠原鳥類「魚の歌」(「現代詩手帖」2017年12月号)

 小笠原鳥類「魚の歌」(初出「エウメニデスⅢ」52、16年11月)のなかで、ことばはどう動いているだろうか。

よいことがあると、いい。あの、ええ、
それが、とても、いい。
とても、穏やかに、うれしい、ことが、いい。

 何かを言おうとする。しかし、ことばはすぐには「成文化」されない。とぎれとぎれにことばがでてくる。とぎれとぎれを確かめながら、なんとか「成文化」しようとしている。そんな感じだろうか。この始まりは。
 この始まりを受けて、ことばは、こう動く。

あの川に、いろいろな、種類の歌が
魚が(魚の図鑑は歌の図鑑だ)楽譜が……
泳いでいて、魚の背中が見える。

 書き出しの三行をいいなおしているだろう。「いい、こと」とはたとえば「魚」を見たときのことかもしれない。川の中を泳ぐ魚。それは魚だけれど、同時に「音楽」でもある。「楽譜」でもある。魚が泳ぐのを見ていると、小笠原の肉体のなかで音楽の記憶がよみがえる、ということか。それが、楽しい。それが「いい、こと」。
 そういうことを「成文化」させていうのはなかなかむずかしい。どういう順序でことばをととのえなおせばいいのか、よくわからない。その瞬間の、「よくわからさない、けれど言いたい」という感じをそのまま、ととのえずに(成文化させずに)、なるべく自然に放出したものが、ここに書かれていることばかもしれない。
 そうすると、小笠原にとっては、詩とは「成文化」されるまえの、「未成文」のことばのあり方ということになる。

 うーん。

 そういってしまえば、そうなんだけれど、と私はここで非常に悩んでしまう。
 私は非常に頭が悪い。だから「成文化」されていないことばというのは、何と言えばいいのか、「覚えられない」。
 「覚えられない」は「考えられない」ということでもある。「考えなくてもい」のかもしれないけれど、ことばというのは「考える」ためにあると思うので、どうも納得できない。
 これを逆に(?)言いなおすと。
 小笠原は、こういう「成文化」を否定したことばを連続させることで、何を考えようとしているのか、私にはわからないということだ。
 「わからなくてもいい」のが詩、「考えなくてもいい」のが詩、なのかもしれないけれど。

 あ、違うなあ。
 そういうことではない。

 小笠原は、こういう「成文化」を否定したことばで、まだ存在していない「成文」というものをつくりだそうとしているのか、それとも「成文化」を否定しさえすればそれで詩になると考えているのか、そこのところがよくわからない。
 いままで存在しなかった「文体」をつくるという意識でことばを動かしているのなら、それはおもしろいことだけれど、単に「成文化を否定する」ということで詩をばらまいているのだとしたら、それは「手抜き」ではないかなあ、と感じてしまう。ぽきぽきと折れた「文体の断面」を見せられているだけのような気がする。

 実は、判断がつかない。

魚は透明なので、内臓も見えるだろう健康な。
健康な健康だ、
魚のウロコがたくさんあって、それらの
輪郭の線が黒くなって、見える。
黒い絵、というものが、あった。魚を描いたんだろう
魚の図鑑が、画集で、あって
版画、だった。版画の群れ。
版画は十九世紀で、とても線が細いものだ
銅版画。銅の、版画。よいことである

 「魚の図鑑」がさまざまに言いなおされている。「図鑑」に関することばが、あちらこちらからあらわれてくる。「見える」という動詞がことばを動かしている。
 でも、「(魚の図鑑は歌の図鑑だ)楽譜が……」の「歌/楽譜」はどこへ行ったのか。「歌(音)」ではなく「楽譜(音の再現方法を示した記録)」だから、「見る/見える」を中心にして動くのは自然なことなのか。
 「成文化を否定する」のだとしたら、この「ととのえ方」はちょっと「ととのいすぎている」。
 そういうことも感じる。
 ずーとあとの方にゆくと、

魚の内臓を食べる人も、いるだろう
それは苦くて美味だ、と言われる。歌われた
よいことだ。レコードで歌を聞いていた
歌を聞きながら、料理を、作っていた。

 と「歌」が登場してくるが、その「歌」の復活までの「図鑑」に象徴される「図=絵=視覚」との関係が、よくわからない。
 考えられない。
 版画に言い換えられた図のなかで、聴覚はどう生きつづけていて、それが何をきっかけに視覚をつきやぶってあらわれてきたのか、その「ことばの肉体」のなかの「聴覚」と「視覚」の切断、連続、融合というものが、わからない。「肉体」が「連続性」のあるものとして、感じられない。
 「歌」を聴覚ではなく視覚でとらえなおしたもの、と考えればいいのかなあ。

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*


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弱者から金をむしりとる安倍政権

2017-12-13 09:43:17 | 自民党憲法改正草案を読む
弱者から金をむしりとる安倍政権
             自民党憲法改正草案を読む/番外156(情報の読み方)

 読売新聞2017年12月13日朝刊(西部版・14版)2面に、

税制改正 大枠固まる/高所得者は負担増/賃上げで法人税減税

 という見出し。いろいろポイントはあるのだが、一番大きな部分は年収850万円を超す会社員が増税対象になるということ。一方、高い水準の賃上げを実施した企業には法人税を減税する、というもの。ほかにたばこの増税、出国税と森林税の新設がある。
 私の年収は850万円からほど遠いので、あまりピンと来ないのだが。
 この「税制改正案」を見ながら一番疑問に思うことは、あれっ、どうして「増税」の必要があるのか、ということ。
 政府は日本は好景気が続いていると言っていなかったか。好景気なら、個人所得も企業所得も増える。税率を変えなくても、必然的に「税収」は増える。国庫財源は増える。
 増税は国庫財源に不足が生じるから、それを補うためにするものだろう。自然増収に期待できないから、増税をする。
 どうしたって、「増税」を含む「税制改正」はアベノミクスが失敗していることの証明にしかならないねえ。
 しかも。
 安倍とは個人的につながりのない「一般サラリーマン」を対象に「少しずつ」増税。一方、安倍とは個人的に会う機会があるかもしれない経済人(企業のトップ)向けには減税。サラリーマンの税金は天引き。サラリーマンの苦情は会社にまかせておいて、かわりに会社(経営者)を優遇しようということか。
 これは、ずるいぞ。
 安倍の周辺は「にこにこ顔」で取り囲み、不平をいう人間は遠ざける。「にこにこ顔」の人間を「防御壁」にしている。「あんなひとたち(不平をいう国民)」のことなんか知らない、ということだろう。

 さらに。
 関連して、こういう見出しがある。

生活保護母子加算 2割減/厚労省、見直しを提案

 生活保護を受けている1人世帯への上乗せ「母子加算」を2割削減し、さらに小中高生がいる過程に支給される「学習支援費」も「定額」から「実費」に切り換えるという。「実費」に切り換えることで増えるのならいいが、きっと切り下げられる。「実費」を厳しく調べられ、「これは不要な経費」という具合に削減されるはずだ。
 この措置の解説(説明?)部分にこうある。

母子加算については、両親がいる世帯と同程度の生活水準に合わせる必要があるとして、現行の月額平均2万1000円から最大で同1万7000円に引き下げる。

 非常に奇妙な論理である。
 母子加算のために、両親のいる保護世帯との「生活水準」が平等になっていない。だから平等にするために、母子加算を減らす。
 これって、おかしくないか。
 母子加算している世帯と「生活水準」が同じになっていないとするなら、両親のいる保護世帯の保護費をアップすればいいだろう。なぜ、「低い水準」に合わせる必要があるのだろう。切り捨てても大丈夫という「保障」はどこにあるのだろう。
 ここにも「声を出しにくい人(弱者)」を狙い撃ちする安倍の姿勢が露骨に見える。
 「保護を受けている人間が文句を言うな」ということだろう。「もっと低い水準の生活の人がいる。それに合わせろ」というのである。
 もしこういう論理が「正しい」のだとしたら、企業の経営者の給料は高すぎる。不平等が生じないように、新入社員の給料にまで引き下げろ、とか、安倍の給料は高すぎる、公務員の初任給と同じになるように引き下げろ、というところまで「正しさ」を推し進めないといけない。「高い水準」は「低い水準」に引き下げる必要がある、という論理を貫かないといけない。
 自分の「水準」を引き下げるのではなく、他人の「水準」を引き下げることで「平等」を実現するというのは、論理的におかしい。
 以前、NHKの放送に登場した女子高校生(だったと思う)が貧乏を訴えたところ、「あの暮らしは貧乏じゃない」という声があふれた。「もっとがまんしろ」ということだろう。
 ひとは「貧乏をする」「がまんをする」ために生きているのではない。
 「貧乏をする、我慢をする」としても、それは自分や家族のためであって、他人のためではない。他人から、「貧乏」の定義までしてもらわなくても結構だ。それに「貧乏させられ、我慢させられ」、そこで少しずつ積み上げた金が、つかったらとりかえしのつかないことになる戦争の道具(武器)に注ぎ込まれるのだとしたら、あまりにもばかげている。
 戦争に対しては「武器の水準」を引き上げるべきである、「生活水準」については引き下げるべきである、というのは、「欲しがりません、勝つまでは」の精神構造だなあ。戦争は、もうはじまっているということだろう。それう追認するために、「憲法改正」を安倍はもくろんでいる。弱者を狙い撃ちした「増税」は戦争の準備である。


 

#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 

詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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