荒川洋治「代表作」(「現代詩手帖」2017年12月号)
荒川洋治「代表作」(初出「文藝春秋」9月号)は短い作品。
わからない部分が多い。
というか。
私には、書き出しの二行しかわからない。
こういうことを聞きに来る人は、その店の常連だろう。その店の味が好きなのだろう。好きなものがあるというのはいいことだ。そしてそれは、好かれることはいいことだということにつながる。
作るひとと食べるひとの分け隔てがない。
違うひとがいるのに、違うひとという感じがしない。
分け隔てがないというのは「わかりあう」ということかもしれない。
「わかっている」から想像する。「あすは、親しいけれども大切な人たちと/楽しい昼食なのかもしれない」。
で、ここから、きのう読んだ徳弘康代の作品で考えたことが、ちょっと思い出される。
この「あすは、親しいけれども大切な人たちと/楽しい昼食なのかもしれない」というのは誰の「声」だろう。「……かもしれない」という推量がふくまれているから、あすの定食が何なのか聞きに来た人ではない。定食をつくっている人が、想像しているととらえるのが一番自然かもしれない。でも、もしかすると、たまたまその定食屋にいた誰かかもしれない。たとえば、その定食屋に荒川がいあわせて、あすの定食は何かと聞く声を聞き、想像しているのかもしれない。荒川も常連なので、「ナスの炒めなど二種類しかないのに」と思いながら、なぜ、そんなことを聞くのだろうと想像している。「あすは、」の読点「、」の呼吸がとてもおもしろい。「、」によって、呼吸が少し変わる。想像が加速するというか、想像が飛躍する。そういうことも、これはもしかするとたまたま会話を聞いた人の思いなのかなあと感じさせる。
そのあとも、わからないことがつづくが、このわからないことのなかに、「常連の人」の通じ合うものが含まれてくる。どこか、いきつけの店の味のこと、それを味わうときの体験のようなものが含まれてくる。荒川の書いている定食屋がどこのことか知らないが、私は私の行きつけの店のことなどを思い出し、その体験を重ねてしまう。
「それ」は何を指しているのだろう。「定食の内容(メニュー)」というよりも、「楽しい」を指しているのかもしれない。「親しい人/大切な人」との昼食の「楽しさ」、その「楽しさ」がどんなものになるか、あらかじめ「知る」。想像する。そういうふうに「誤読」したい気持ちになる。想像している人(こう書くとき、私は、荒川を思い描くのではなく、ある定食屋にいる私自身を思っている)は、この食堂の「楽しさ」を知っている。すでに知っていることを、あらためて知る。あす起こることを、あすのために知っておく。それは、たぶん、その人だけの秘かな「楽しさ」でもある。
そのあとの、タイトルにもなっていることばが含まれる一行は、もっとわからないが、やはり想像はどこまでも走り出す。
どういう「意味」だろう。「代表作」って、何? まさか、あしたの定食のメニュー? そうではなくて、「代表作」というのは「楽しさ」の「比喩」なのだ。
「楽しさ」の「主人公」は人ではない。「誰」ではない。「楽しさ」は誰のものでもない。「楽しさ」は共有される何かであって、そこには「誰」は存在しない。「楽しい」という共有された気持ちが、すべての人を「代表」する。「象徴」としてすべての人を統合する。「比喩」になる。
こんなことは、書いていないか。まあ、いい。
先の行の「それ」がわからないのと同じように、ここでもそれが何を指しているか、はっきりとはわからない。でも、私は、つい想像してしまう。
そしてまた、こんなことも考える。
この「わからない」は私には「わからない」のだけれど、このことばを発している人(この詩の中の主人公)ひとには「わかる」。
荒川には「わかる」という意味ではない。荒川は作者なので、まあ、「わかる」のが当然なのかもしれないが、私は、作者だからそのことばの意味がわかるとは考えない。
作者ではなく、登場人物には「わかる」のである。
人は誰でも、自分だけが「わかっている」ことばを無意識につかうことがある。
そういうものが、ここでは動いている。
そういうものの動きを荒川は、ここでは書いている。
「わかっていすぎる」、そのため「透明」になっている。「澄んでいる」。そのため、そのことばをつかもうとすると、つかみどころがない。
この詩の、「誰もいない」は、言っている人すらもいないということである。「透明になって」消えている。
でも「こと」はある。「主人公」が消えて、「楽しいこと」が、そこにある。
この「それ」もわからないが、私は「楽しいこと」「あす起きること」と誤読する。
定食のメニューを聞きに来た人が「婦人」で、定食のメニューを知ると、うれしそうになったのか。それとも「楽しい昼食になる」ということを「知って」うれしくなったのか。あるいは「代表作のまわりにはいつも誰もいない」ということを「知って」うれしくなったのか。区別せずに、その瞬間瞬間、どれでもいいかなあと思う。
学校の授業や試験なら「正しい答え」というものがあるのだろうけれど、私は「正しさ」を気に留めない。
むしろ、「間違えて」読んでいくとき、その「間違い」のなかで、私と作者と登場人物が融合するようで、それが楽しい。
*
「詩はどこにあるか」11月の詩の批評を一冊にまとめました。
詩はどこにあるか11月号注文
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ここをクリックして1750円の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。
オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
目次
カニエ・ナハ『IC』2 たなかあきみつ『アンフォルム群』11
林和清『去年マリエンバートで』15 夏目美知子「雨についての思索を一篇」18
北川透「「佃渡しで」を読む」21 野木京子「小石の指」31
疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」34 藤本哲明『ディオニソスの居場所』37
マーサ・ナカムラ『狸の匣』40 星野元一『ふろしき讃歌』46
暁方ミセイ『魔法の丘』53 狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」58
暁方ミセイ『魔法の丘』(2)63 新井豊吉『掴みそこねた魂』69
松本秀文『「猫」と云うトンネル』74 松本秀文『「猫」と云うトンネル』78
山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』83 吉田正代『る』87
福間明子『雨はランダムに降る』91 清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』95
川上明日夫『白骨草』107
*
詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。
ここをクリックし、「製本の注文はこちら」のボタンを押してください。
荒川洋治「代表作」(初出「文藝春秋」9月号)は短い作品。
あすはどんな定食ですかと
わざわざ聞きにくる人がいる
ナスの炒めなど二種類しかないのに
あすは、親しいけれども大切な人たちと
楽しい昼食なのかもしれない
それをあらかじめ知ることなのだ
代表作のまわりにはいつも誰もいないのだ
婦人はそれを知ると
うれしそうに店を出て
霧の吹く長い道を歩く
わからない部分が多い。
というか。
私には、書き出しの二行しかわからない。
こういうことを聞きに来る人は、その店の常連だろう。その店の味が好きなのだろう。好きなものがあるというのはいいことだ。そしてそれは、好かれることはいいことだということにつながる。
作るひとと食べるひとの分け隔てがない。
違うひとがいるのに、違うひとという感じがしない。
分け隔てがないというのは「わかりあう」ということかもしれない。
「わかっている」から想像する。「あすは、親しいけれども大切な人たちと/楽しい昼食なのかもしれない」。
で、ここから、きのう読んだ徳弘康代の作品で考えたことが、ちょっと思い出される。
この「あすは、親しいけれども大切な人たちと/楽しい昼食なのかもしれない」というのは誰の「声」だろう。「……かもしれない」という推量がふくまれているから、あすの定食が何なのか聞きに来た人ではない。定食をつくっている人が、想像しているととらえるのが一番自然かもしれない。でも、もしかすると、たまたまその定食屋にいた誰かかもしれない。たとえば、その定食屋に荒川がいあわせて、あすの定食は何かと聞く声を聞き、想像しているのかもしれない。荒川も常連なので、「ナスの炒めなど二種類しかないのに」と思いながら、なぜ、そんなことを聞くのだろうと想像している。「あすは、」の読点「、」の呼吸がとてもおもしろい。「、」によって、呼吸が少し変わる。想像が加速するというか、想像が飛躍する。そういうことも、これはもしかするとたまたま会話を聞いた人の思いなのかなあと感じさせる。
そのあとも、わからないことがつづくが、このわからないことのなかに、「常連の人」の通じ合うものが含まれてくる。どこか、いきつけの店の味のこと、それを味わうときの体験のようなものが含まれてくる。荒川の書いている定食屋がどこのことか知らないが、私は私の行きつけの店のことなどを思い出し、その体験を重ねてしまう。
それをあらかじめ知ることなのだ
「それ」は何を指しているのだろう。「定食の内容(メニュー)」というよりも、「楽しい」を指しているのかもしれない。「親しい人/大切な人」との昼食の「楽しさ」、その「楽しさ」がどんなものになるか、あらかじめ「知る」。想像する。そういうふうに「誤読」したい気持ちになる。想像している人(こう書くとき、私は、荒川を思い描くのではなく、ある定食屋にいる私自身を思っている)は、この食堂の「楽しさ」を知っている。すでに知っていることを、あらためて知る。あす起こることを、あすのために知っておく。それは、たぶん、その人だけの秘かな「楽しさ」でもある。
そのあとの、タイトルにもなっていることばが含まれる一行は、もっとわからないが、やはり想像はどこまでも走り出す。
代表作のまわりにはいつも誰もいないのだ
どういう「意味」だろう。「代表作」って、何? まさか、あしたの定食のメニュー? そうではなくて、「代表作」というのは「楽しさ」の「比喩」なのだ。
「楽しさ」の「主人公」は人ではない。「誰」ではない。「楽しさ」は誰のものでもない。「楽しさ」は共有される何かであって、そこには「誰」は存在しない。「楽しい」という共有された気持ちが、すべての人を「代表」する。「象徴」としてすべての人を統合する。「比喩」になる。
こんなことは、書いていないか。まあ、いい。
先の行の「それ」がわからないのと同じように、ここでもそれが何を指しているか、はっきりとはわからない。でも、私は、つい想像してしまう。
そしてまた、こんなことも考える。
この「わからない」は私には「わからない」のだけれど、このことばを発している人(この詩の中の主人公)ひとには「わかる」。
荒川には「わかる」という意味ではない。荒川は作者なので、まあ、「わかる」のが当然なのかもしれないが、私は、作者だからそのことばの意味がわかるとは考えない。
作者ではなく、登場人物には「わかる」のである。
人は誰でも、自分だけが「わかっている」ことばを無意識につかうことがある。
そういうものが、ここでは動いている。
そういうものの動きを荒川は、ここでは書いている。
「わかっていすぎる」、そのため「透明」になっている。「澄んでいる」。そのため、そのことばをつかもうとすると、つかみどころがない。
この詩の、「誰もいない」は、言っている人すらもいないということである。「透明になって」消えている。
でも「こと」はある。「主人公」が消えて、「楽しいこと」が、そこにある。
婦人はそれを知ると
この「それ」もわからないが、私は「楽しいこと」「あす起きること」と誤読する。
定食のメニューを聞きに来た人が「婦人」で、定食のメニューを知ると、うれしそうになったのか。それとも「楽しい昼食になる」ということを「知って」うれしくなったのか。あるいは「代表作のまわりにはいつも誰もいない」ということを「知って」うれしくなったのか。区別せずに、その瞬間瞬間、どれでもいいかなあと思う。
学校の授業や試験なら「正しい答え」というものがあるのだろうけれど、私は「正しさ」を気に留めない。
むしろ、「間違えて」読んでいくとき、その「間違い」のなかで、私と作者と登場人物が融合するようで、それが楽しい。
詩とことば (岩波現代文庫) | |
クリエーター情報なし | |
岩波書店 |
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「詩はどこにあるか」11月の詩の批評を一冊にまとめました。
詩はどこにあるか11月号注文
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オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
目次
カニエ・ナハ『IC』2 たなかあきみつ『アンフォルム群』11
林和清『去年マリエンバートで』15 夏目美知子「雨についての思索を一篇」18
北川透「「佃渡しで」を読む」21 野木京子「小石の指」31
疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」34 藤本哲明『ディオニソスの居場所』37
マーサ・ナカムラ『狸の匣』40 星野元一『ふろしき讃歌』46
暁方ミセイ『魔法の丘』53 狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」58
暁方ミセイ『魔法の丘』(2)63 新井豊吉『掴みそこねた魂』69
松本秀文『「猫」と云うトンネル』74 松本秀文『「猫」と云うトンネル』78
山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』83 吉田正代『る』87
福間明子『雨はランダムに降る』91 清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』95
川上明日夫『白骨草』107
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詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。
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