石田瑞穂「Tha Long Way Home 」(「現代詩手帖」2017年12月号)
「現代詩手帖」2017年12月号に、「2017年代表詩選130 選」が掲載されている。その巻頭に掲載されているのが、石田瑞穂「Tha Long Way Home 」(初出「文藝春秋」16年11月号)。
短い作品だ。
さて、どう読めばいいのかなあ。
終わりの二行が、「現代詩」っぽいなあ。言い換えると「難解」、さらに言い換えると「わからないなあ。何を書いているんだ?」。
「秋雷色」が読めないぞ。
「残片」もどう読むのか、よくわからない。引用するとき、ためしに「ざんぺん」と打って変換キーを押したら「残片」になった。ふーん、「ざんぺん」か。
しかし、こんなことば、私は聞いたことがない。聞いたことがないことばは、私には「意味」がわからない。言い換えると「つかい方」がわからない。「目」で見て、なんとなく「感じ」はわかるけれど、「声」になって「肉体」のなかを通り抜けてくれない。
こういうとき、どうするか。
「わかる」ことばを手がかりにする。
「わかる」ことば、「耳」で聞いたことがあるし、自分でもつかったことのあることば。この作品には、そういうものがいくつもあるが、私が「これだな」と思って読み返したのが、4行目「どこへ?」
だれでもつかうね。
なぜ「どこへ?」を読み返してみようかと思ったかというと。
(ここからが、私の「誤読」の方法です。)
この「どこへ?」は、なくても、詩の「意味」はかわらない。
「記憶に干されたTシャツ」は「干された(干されていた)Tシャツの記憶」でもあると思う。またそれはTシャツであるだけではなく「干された」という「動詞」派生の状態のことでもあると思う。何が「テーマ」(あるいは主語)かは、読み方次第で変わる。たぶん、入れ替えながら読むことが世界をつかむことになると思う。
で、「そのようなもの」が飛んで行った。当然、「どこから」「どこへ」飛んで行ったかが、意識のなかに「問題」として生まれてくる。
「どこから」は「干されていた場所」である。ここで「干す/干される(干された)」という動詞が「場所」とくっついてあらわれてくる。だからこそ、先にテーマ(主語)は「Tシャツ」か「記憶」か「干す(干された)」かと書いたのだが。
「どこから」かは「わかる」。でも「どこへ?」はわからない。これは、必然的に、意識が「問う」ものである。だから「どこへ?」は書かなくても「意味」は同じ。出発点が書かれていれば、だれでも到達点を自然に思い浮かべる。つまり、「干された場」から「飛んでいった」ものは、「どこへ?」たどりつくかは、このあと「必然的」に書かれることなのだ。
こういうことばは、読みとばしてしまう。
あるいは、書き飛ばしてしまう。
その「読みとばし」「書き飛ばす」ことばを、石田は、ここではっきりと書いている。しかも「一行」として独立させて書いている。
なぜ、こんな「どうでもいい」ことば、だれもが「無意識」に補って読んでしまうことばを「わざわざ」書いたのか。
それは「どこへ?」という一行のあとに展開することばこそ、石田が書きたいものである、と明確に知らせるためである。
つまり、「どこへ?」ということばを「境界線」にして、ことばの「質」が変わるということを「宣言」するためである。
実際に、ここからことばが変わる。
前半にも「風の河」という「比喩」があるが、これは「風」を言いなおしただけのもの、「風の流れ(流れ=河)」ということがすぐに「わかる」。「きざったらしい」と思うかもしれない。見え透いた装飾(詩の装い)と思うかもしれないけれど。でも、まあ、「風の河」と読んで、これは何を意味するか、と悩むひとはいないだろう。
でも、
ここでは、少し立ち止まるだろう。
「ビルとビルがハンガーみたく」って、どういうこと? ビルとハンガーは似ていない。まったく別のもの。それが「みたく」(の、ように?)と言われても、まごついてしまう。「みたく」って、いやったらしい口調だなあ、とも思ってしまう。
この「みたく」は、行を越えて「くっついた」につながっている。
狭い洋服ダンス(いまはクローゼットというかな?)のなかで、ハンガーがくっついている。そんな具合にビルとビルが接近している。その隙間(空き地)の青空。
散文化して「説明」するのは、できそうで、できない。書き出すと、とてもめんどうになる。書き出しの「記憶に干されたTシャツ」と同じように、「ビル」「青空」「空き地(隙間)」が「ハンガー」というものを媒介にして瞬時に入れ替わりながら「場」をつくっている。世界を、そこに出現させている。ことばが、ここでは「世界」になって、新しく動いている。
こういう「新しいことば/新しい世界」へ飛躍するために、「どこへ?」という一行が「踏み台」として必要だったのである。読者にとってはなくてもいいことば、あっても読みとばしてしまうようなどうでもいいことばだが、石田にとってとは書かないと先に進むことができない重要なことばなのである。
このあと、「ここにはここにはあらゆるものが飛んできて」と、最初の部分に出てきた「飛ぶ」という「動詞」をくりかえしたあと、それを
とさらに言いなおす。
これが「飛躍」の第二段階を知らせることば。
「記憶に干されたTシャツ」だけではなく、ほかのものも飛ぶ。飛んで、そこへやってくるだけではなく、通過していく。
この「通過する」という「動詞」が必然的に「時間」を呼び寄せ、「時間」は「記憶(過去)」を呼び寄せる。「覚えているもの」を呼び寄せる。
そこに登場するのものは、石田が「覚えているもの(記憶)」なのだから、簡単には読者とは共有できないものである。一緒に生きてきたわけではないからね。
でも「干されたTシャツ」のようによーく記憶を探ってみれば、どこかで見ている「日常」かもしれない。「虹」は見たことがあるでしょ? 「パンティ」も「避雷針」も「雷」も「コート」も「洗濯バサミ」も。「秋」も知っている。「色」も知っている。
「亡命する」「滞在期限(が切れる)」というのは、実際には「体験」することがないかもしれないけれど、そういうことばをたいがいのひとは知っている。「亡命」と「滞在期間」ということばには、よくわからないが「脈絡」がありそうだ、というようなことも感じるだろう。
はっきりとはわからないが、そういうものが石田の「意識/思想/肉体」と関係しているんだろうなあ、と想像することができる。
「そういうようなもの」、「流通言語」になる前のことばを、石田自身の「正直さ」で書いたのが、最後の二行というとになる。
詩のきっかけに「記憶に干されたTシャツ」があり、それが「どこへ?」ということばを踏み台にして、「詩の領域」に踏み込み、「通過していった」ということばでさらに「詩の本質」へ突き進む。
そういう「構造(設計図)」でこの詩は作られている。
で、その「設計図」を支えているのが「どこへ?」という、だれでもが知っていることば、だれでもがつかうことば、書かれなくても読むひとが補ってしまうようなことばであるところが、この詩のポイントだと私は読む。
「どこへ?」がこの詩のキーワードであり、それを「動詞」として言い換えると「通過する」ということばになる。「どこへ」到着するのではなく、「どこへ」を意識しながら、さらに「通過する」ことで「どこへ」を新たに生み出し続けると言えば、石田の詩全体をつらぬく運動をつかまえる「方法」になるかもしれない。
*
詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。
ここをクリックし、「製本の注文はこちら」のボタンを押してください。
「現代詩手帖」2017年12月号に、「2017年代表詩選130 選」が掲載されている。その巻頭に掲載されているのが、石田瑞穂「Tha Long Way Home 」(初出「文藝春秋」16年11月号)。
短い作品だ。
記憶に干されたTシャツが
風の河を
飛んでいった
どこへ?
ビルとビルがハンガーみたく
くっついた青空の空き地
ここにはあらゆるものが飛んできて
通過していった
虹の残片 パンティ 避雷針へ亡命する秋雷色のコート
滞在期限のきれた街中の洗濯バサミと
さて、どう読めばいいのかなあ。
終わりの二行が、「現代詩」っぽいなあ。言い換えると「難解」、さらに言い換えると「わからないなあ。何を書いているんだ?」。
「秋雷色」が読めないぞ。
「残片」もどう読むのか、よくわからない。引用するとき、ためしに「ざんぺん」と打って変換キーを押したら「残片」になった。ふーん、「ざんぺん」か。
しかし、こんなことば、私は聞いたことがない。聞いたことがないことばは、私には「意味」がわからない。言い換えると「つかい方」がわからない。「目」で見て、なんとなく「感じ」はわかるけれど、「声」になって「肉体」のなかを通り抜けてくれない。
こういうとき、どうするか。
「わかる」ことばを手がかりにする。
「わかる」ことば、「耳」で聞いたことがあるし、自分でもつかったことのあることば。この作品には、そういうものがいくつもあるが、私が「これだな」と思って読み返したのが、4行目「どこへ?」
だれでもつかうね。
なぜ「どこへ?」を読み返してみようかと思ったかというと。
(ここからが、私の「誤読」の方法です。)
この「どこへ?」は、なくても、詩の「意味」はかわらない。
「記憶に干されたTシャツ」は「干された(干されていた)Tシャツの記憶」でもあると思う。またそれはTシャツであるだけではなく「干された」という「動詞」派生の状態のことでもあると思う。何が「テーマ」(あるいは主語)かは、読み方次第で変わる。たぶん、入れ替えながら読むことが世界をつかむことになると思う。
で、「そのようなもの」が飛んで行った。当然、「どこから」「どこへ」飛んで行ったかが、意識のなかに「問題」として生まれてくる。
「どこから」は「干されていた場所」である。ここで「干す/干される(干された)」という動詞が「場所」とくっついてあらわれてくる。だからこそ、先にテーマ(主語)は「Tシャツ」か「記憶」か「干す(干された)」かと書いたのだが。
「どこから」かは「わかる」。でも「どこへ?」はわからない。これは、必然的に、意識が「問う」ものである。だから「どこへ?」は書かなくても「意味」は同じ。出発点が書かれていれば、だれでも到達点を自然に思い浮かべる。つまり、「干された場」から「飛んでいった」ものは、「どこへ?」たどりつくかは、このあと「必然的」に書かれることなのだ。
こういうことばは、読みとばしてしまう。
あるいは、書き飛ばしてしまう。
その「読みとばし」「書き飛ばす」ことばを、石田は、ここではっきりと書いている。しかも「一行」として独立させて書いている。
なぜ、こんな「どうでもいい」ことば、だれもが「無意識」に補って読んでしまうことばを「わざわざ」書いたのか。
それは「どこへ?」という一行のあとに展開することばこそ、石田が書きたいものである、と明確に知らせるためである。
つまり、「どこへ?」ということばを「境界線」にして、ことばの「質」が変わるということを「宣言」するためである。
実際に、ここからことばが変わる。
前半にも「風の河」という「比喩」があるが、これは「風」を言いなおしただけのもの、「風の流れ(流れ=河)」ということがすぐに「わかる」。「きざったらしい」と思うかもしれない。見え透いた装飾(詩の装い)と思うかもしれないけれど。でも、まあ、「風の河」と読んで、これは何を意味するか、と悩むひとはいないだろう。
でも、
ビルとビルがハンガーみたく
くっついた青空の空き地
ここでは、少し立ち止まるだろう。
「ビルとビルがハンガーみたく」って、どういうこと? ビルとハンガーは似ていない。まったく別のもの。それが「みたく」(の、ように?)と言われても、まごついてしまう。「みたく」って、いやったらしい口調だなあ、とも思ってしまう。
この「みたく」は、行を越えて「くっついた」につながっている。
狭い洋服ダンス(いまはクローゼットというかな?)のなかで、ハンガーがくっついている。そんな具合にビルとビルが接近している。その隙間(空き地)の青空。
散文化して「説明」するのは、できそうで、できない。書き出すと、とてもめんどうになる。書き出しの「記憶に干されたTシャツ」と同じように、「ビル」「青空」「空き地(隙間)」が「ハンガー」というものを媒介にして瞬時に入れ替わりながら「場」をつくっている。世界を、そこに出現させている。ことばが、ここでは「世界」になって、新しく動いている。
こういう「新しいことば/新しい世界」へ飛躍するために、「どこへ?」という一行が「踏み台」として必要だったのである。読者にとってはなくてもいいことば、あっても読みとばしてしまうようなどうでもいいことばだが、石田にとってとは書かないと先に進むことができない重要なことばなのである。
このあと、「ここにはここにはあらゆるものが飛んできて」と、最初の部分に出てきた「飛ぶ」という「動詞」をくりかえしたあと、それを
通過していった
とさらに言いなおす。
これが「飛躍」の第二段階を知らせることば。
「記憶に干されたTシャツ」だけではなく、ほかのものも飛ぶ。飛んで、そこへやってくるだけではなく、通過していく。
この「通過する」という「動詞」が必然的に「時間」を呼び寄せ、「時間」は「記憶(過去)」を呼び寄せる。「覚えているもの」を呼び寄せる。
そこに登場するのものは、石田が「覚えているもの(記憶)」なのだから、簡単には読者とは共有できないものである。一緒に生きてきたわけではないからね。
でも「干されたTシャツ」のようによーく記憶を探ってみれば、どこかで見ている「日常」かもしれない。「虹」は見たことがあるでしょ? 「パンティ」も「避雷針」も「雷」も「コート」も「洗濯バサミ」も。「秋」も知っている。「色」も知っている。
「亡命する」「滞在期限(が切れる)」というのは、実際には「体験」することがないかもしれないけれど、そういうことばをたいがいのひとは知っている。「亡命」と「滞在期間」ということばには、よくわからないが「脈絡」がありそうだ、というようなことも感じるだろう。
はっきりとはわからないが、そういうものが石田の「意識/思想/肉体」と関係しているんだろうなあ、と想像することができる。
「そういうようなもの」、「流通言語」になる前のことばを、石田自身の「正直さ」で書いたのが、最後の二行というとになる。
詩のきっかけに「記憶に干されたTシャツ」があり、それが「どこへ?」ということばを踏み台にして、「詩の領域」に踏み込み、「通過していった」ということばでさらに「詩の本質」へ突き進む。
そういう「構造(設計図)」でこの詩は作られている。
で、その「設計図」を支えているのが「どこへ?」という、だれでもが知っていることば、だれでもがつかうことば、書かれなくても読むひとが補ってしまうようなことばであるところが、この詩のポイントだと私は読む。
「どこへ?」がこの詩のキーワードであり、それを「動詞」として言い換えると「通過する」ということばになる。「どこへ」到着するのではなく、「どこへ」を意識しながら、さらに「通過する」ことで「どこへ」を新たに生み出し続けると言えば、石田の詩全体をつらぬく運動をつかまえる「方法」になるかもしれない。
耳の笹舟 | |
石田 瑞穂 | |
思潮社 |
*
詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。
ここをクリックし、「製本の注文はこちら」のボタンを押してください。