詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

詩はどこにあるか11月号

2017-12-14 12:34:01 | その他(音楽、小説etc)
「詩はどこにあるか」11月の詩の批評を一冊にまとめました。

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目次
カニエ・ナハ『IC』2   たなかあきみつ『アンフォルム群』11
林和清『去年マリエンバートで』15   夏目美知子「雨についての思索を一篇」18
北川透「「佃渡しで」を読む」21   野木京子「小石の指」31
疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」34   藤本哲明『ディオニソスの居場所』37
マーサ・ナカムラ『狸の匣』40   星野元一『ふろしき讃歌』46
暁方ミセイ『魔法の丘』53   狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」58
暁方ミセイ『魔法の丘』(2)63   新井豊吉『掴みそこねた魂』69
松本秀文『「猫」と云うトンネル』74   松本秀文『「猫」と云うトンネル』78
山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』83   吉田正代『る』87
福間明子『雨はランダムに降る』91   清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』95
川上明日夫『白骨草』107




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松尾真由美「まなざしと枠の交感」、朝吹亮二「空の鳥影」

2017-12-14 11:49:58 | 詩(雑誌・同人誌)
松尾真由美「まなざしと枠の交感」、朝吹亮二「空の鳥影」(「現代詩手帖」2017年12月号)

 松尾真由美「まなざしと枠の交感」(初出『花章-ディヴェルティメント』2月)。タイトルにすこしげんなりする。「交感」は「意味」が強すぎる。「意味」にあわせてことばが強制的に動かされているのではないか、と身構えてしまう。

このような
窓のひろがり
あざやかな熱視をねがい
きっと誰かが見つめている
血の色の鋭敏さと空想の両眼と
正午に浮きあがる書物のページの
なまなましい胸のいたみ
香っていてあえいでいて
剥がされた花びらは
なお希求の
欠けらとなる

 「このような」という始まりは、「このような」としか言えないものと向き合っているのだろう。「このような」が「どのような」ものなのか、そのあとのことばが語ることになる。
 しかし、「このような」が「あざやかな」というのでは、私は納得できない。最初から「あざやかな」と始めてしまえば「このような」は不要になるだろう。余分なことが書かれていると思ってしまう。
 「熱視」は「見つめる」という動詞で言いなおされたあと、「熱」の部分が「血の色の鋭敏さ」と「空想」と言い換えられ、さらに「なまなましい」と言い換えられる。それに「あざやか」が「血の色」「正午」ということばで交錯する。そこから「書物のページ」という「具体的なもの」が「空想」のように「浮き上がる」。このとき、それを「誰かが見つめている」のか、それとも「書物のページ」のなかから、登場人物としての誰かが松尾を見つめているのか。
 「そのような/このような」関係。
 「なまなましい」関係。「なまなましい」は、松尾にとっては「このような」感じ。どこかで「抽象」を含む。「抽象」を「なまなましい」ものとして感じるのが、松尾の「交感」の基本にある。「意味」で、「なまなましい」が動いている、と私は感じてしまう。
 「香っていてあえいでいて」には「香る」という動詞と「あえぐ」という動詞が共存している。「共存」が「交感」ということなのだろう。
 「書物のページ」は「花びら」という比喩になる。「花びら」が「書物のページ」の比喩かもしれない。比喩とは「共存」の言い直しである。その「書物のページ/花びら」が「剥がれる/剥がされる」という動詞のなかでさらに「共存」を深める。「剥がされる」は一種の「死」。だからこそ、それに抗うように「希求」ということばを輝かせようとするのだろうが、いっそう死んでしまった方が強い官能が残るのではないかと思ってしまう。
 こんなところで「希求」なんかを求めてしまうと、それがたとえ「欠けら」であっても、道徳の教科書(流通の意味)でことばをととのえられているような気がして、興ざめしてしまう。
 「頭」で書いていない?
 いや、私が「頭」で読んでいるだけなのかもしれないが、「頭」で読んでしまう詩というのはつまらない。



 朝吹亮二「空の鳥影」(初出「si:ka」3月)は、外国の風景だろうか。移動の途中(という感じがする)に見かけた鳥を描いている。

不可視の
夢は零れて
天空と深淵をつなぐむすびめはほどけて

 
 というような非常に抽象的な、ああ、こんな抽象的なことばにつきあうのはいやだなあと思う行があるのだが、これは即座に、

たとえば落雷とかね、たとえば
旋風とかね、たとえば

 と具体的に言いなおされ、さらに

空っぽの
空の
黒い鳥

 と具体化される。
 なんにもない空に黒い鳥の影。鳥だけが飛んでいる。「なんにもない空に鳥が一羽飛んでいたんだ。それが印象的だった」を朝吹は、もう一度言いなおす。そのどこが印象的だったのか。
 「このような/そのような」の「この」「その」を言いなおす。

不可視のやさしい手をさしのべてはかき消えていくのさ、
うっとりする鎌鼬のように
そう、どこにでもある空を映す空隙の洞
空を映す透明なリュートの胴
空の
臍、飛ぼうとする形のまま
天空と深淵を結んで
共振する、空の
鳥影

 「鳥」ではなく「鳥影」。「影」という一語が追加されているために、「空影」とでも言えばいいのか、「空のなかにある空/空が映し出した空の深淵(空隙、と朝吹は書いているが)」を見たような感じがする。それもただ「見る」のではなく、「臍」ということばがあるために、何と言うか、私の「肉体」が「空」になってしまった感じ。同時に「鳥」になって飛んでいる感じ。
 「共振」と朝吹は書くのだが、「共存」、あるいは「一体」という感じ。「一体」になって動くから「共振」なのかもしれない。「空」と「鳥」は別々の存在だが、ふたつの存在の間に「音楽」がひろがる。「和音」が「共振」している、と言えばいいのか。
 朝吹は「交感」ということばをつかっていないのだが、朝吹の詩の方が「交感」をつかんでいると思う。「空」と「鳥」と朝吹の三者が、ひとつの音楽を響きあわせている。

現代詩手帖 2017年 12 月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
思潮社

*


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「司法リスク」とは何か。

2017-12-14 09:25:32 | 自民党憲法改正草案を読む
「司法リスク」とは何か。
             自民党憲法改正草案を読む/番外156(情報の読み方)

 読売新聞2017年12月14日朝刊(西部版・14版)1面、

伊方原発 差し止め命令/3号機 「阿蘇火砕流 到達の恐れ」

 という見出し。広島高裁の仮処分決定を報道している。その関連記事が経済面にある。その見出しに驚いた。

原発 司法リスク再び/伊方差し止め命令 四電 減益不可避

 前文には、こう書いてある。

(四電に加え)関西電力や九州電力は、司法判断が再び経営上のリスクになりかねないと警戒を強めている。

 本文中には、

「払拭されたはずの『司法リスク』がよみがえった」(電気事業連合関係者)と危惧する声も出ている。

 司法が原発に対して再稼働を認めないと、電力会社の経営が苦しくなる。そういうことらしいが、これは自然に読めば「経営リスク」というものだろう。
 なぜ、「司法リスク」と言い換えるのか。
 背後に司法に対する批判がある。「原発は安全だ」という意識が経営者にはある。それはそれでいいが、自分が正しいから、司法の判断は「リスク」をもっている。「危険である」という批判の仕方は、どういうものだろう。
 「理解していただけなかった点については、理解していただけるよう、より詳しい説明をしたい」
 というのが、反論の基本的な仕方ではないだろうか。
 「司法」を「リスク」と結びつけて批判するのは「三権分立」の精神に反している。どんなときでも司法の判断を優先する必要がある。判断に不満があるときのために、日本の裁判は「三審制」をとっている。
 司法よりも自分の判断が正しい、司法は間違っている、という批判を通り越して、「司法は危険だ(リスクがある)」という姿勢はおかしい。こういう「ことば」の背後にある考え方(自分だけが絶対に正しい)が「独裁」を生む。
 安倍独裁の影響が、こんな形で電力会社の経営陣にも共有されている。



#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
クリエーター情報なし
ポエムピース
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