中村稔「三・一一を前に」(「現代詩手帖」2018年1月号)
「現代詩手帖」2018年1月号は「現代日本詩集2018」という特集を組んでいる。その巻頭作品が中村稔「三・一一を前に」。
どう読めばいいのだろうか。
「私たち」とは誰のことか。「間もなく」とはどれくらいの期間か。「此処」とはどこか。「立ち去る」とはどういうことか。
「立ち去る」は「遺産」ということばと結びつけて考えれば「死ぬ」ということ。
「此処」とは「この世」か。
「間もなく」はわからない。
「私たち」には「私たちの子孫」が含まれない。「私たちの子孫」と「遺産」を受け取る人間であり、それは「此処」で受け取る。
そのとき「間もなく」は、どうなるのだろうか。
「私たちの子孫」にとって「間もなく」は「間もなく」ではない。短い時間ではない。「遺産」を受け取ったら最後、それから先の「時間」に終わりがない。
「死ぬ」ことを「立ち去る」と言い換える中村は、この「終わることのない時間」とどう向き合うのだろうか。「立ち去る」から向き合うこともない。どれくらいの長さかなど気にしない。
そんなことはない、気にしている、心配していると、中村は言うだろう。
二連目以下が、中村の「意識」である。一連目だけを読んで文句を言うな、というかもしれない。
ほんとうに「何も分っていない」のか、わかっているけれど、その情報は隠されているのか。私は「溶け落ちた核燃料がどういう状態にあるか」知らないが、私が知らないからすべての人間が「分っていない」とは言えない。
「廃炉の行程が三十年」というのなら、それが確実なら、それはあてにできると思う。「私たちの子孫」にとっては「気の遠くなるほど先」のことではない。一連目で感じた終わりのない時間に、きちんと終わりは来る。
でも、そうなのか。ほんとうに「三十年先」は廃炉処理がすんでいるのか。だれが、それを保証するのか。「廃炉の工程は三十年」と言った人(主語)がない。誰が、言うのだ。この二連目には「私たち」という「ことば」がないが、まさか「私たち」が「廃炉の工程は三十年」と言うのではないだろう。中村が言うのではないだろう。
「私(たち)」は、どこへ消えたのか。
中村は誰を代弁しているのか。
「汎用性のない空しい作業」ということばに、私は、またつまずく。「汎用性がない」ということと「空しい」は同義語か。なぜ、汎用性が必要なのか。
ここに再び「遺産」ということばが登場する。
遺産は引き継がれる。引き継がれるものは汎用性があるべきだという考えが、汎用性のないものを「空しい」と定義しているようだ。汎用性があるは、共有される、効率性がある、経済的であるということか。「汎用性」は「資本主義」の「原理」だろうか。
しかし、「汎用性」があるかないかが、一番大事なことだろうか。今回ももとめられていることだろうか。汎用性がないから「空しい」というのはほんとうだろうか。
中村の詩ではなく(ことばではなく)、実際におこなわれている廃炉作業から「読み直し」をしてみる必要がある。
もし、事故を起こした東京電力福島第一原発を確実に廃炉にすることができるならば、それは「空しい作業」ではない。そして、その作業が二度と必要のないものならば、それはよろこばしいことではないのか。何度も何度もその作業が必要だとしたら、それこそ「空しい」のではないだろうか。
やっと廃炉作業が終わったと思ったら、また事故処理をしないといけないという事態が起きた方が、作業をやっているひとにとっては「空しい」のではないか。「技術」には「汎用性」があるが、廃炉作業をするひとの「気持ち」は「技術の汎用性」とは無関係である。何度でもやりたい仕事もあれば、一度でもしたくない仕事がある。一度で十分という仕事がある。
何度も何度もいのちがけで原子炉を廃炉にしなければならないという事態が起きるならば、そしてそのために開発された「技術」が「汎用性」をもつなら、それは「空しい」ことではなく、「おそろしい」ことではないか。
もう一度、問いかけよう。「私たち」とはだれなのか。
実際に廃炉作業に取り組んでいる人たちを含めているのか。廃炉作業に取り組んでいる人、技術開発をしている人たちを含めているのか。
中村は、そういう人たちの前で「空しい作業」ということばを発することができるか。「私たち」という不特定多数のなかに身を隠さずに、「私」として、同じことばを発することができるのか。
それを問いたい。
「私たち」とは誰なのか。何度でも問いたい。中村は「この不安と不信を何ともできない」というが、むしろ「何をするか」を考えるべきだろう。
中村が「私たち」ということばのなかには含んでいない人、廃炉作業に取り組んでいる人は、不安をとりのぞくために動いている。働いている。「結果」を信じて働いている。できることをやっている。
一方、懸命に廃炉作業に取り組んでいる人とは別に、「原子力発電は必要だ」と主張して、再稼働を勧める人もいる。この人たちも、たぶん中村の書いている「私たち」にはふくまれないだろう。
原子炉の廃炉作業そのものに対しては何もできない(その能力がない)としても、原子力発電を推し進めようとする動きに対しては、やはり「私たち」は何もできないのか。
いや、中村は何もしないのか。
原子力発電に対し、「不安と不信」を持ちはするが、何もしないのか。
たとえ「間もなく此処を立ち去る」のだとしても、あるいは「間もなく此処を立ち去る」のならなおのこと、その「間もなく」のあいだくらい、原発再稼働に反対と言ったらどうなのか。東京電力福島第一原発の事故について「アンダーコントロール(制御できている)」と言った安倍に対して、「うそつき、責任をとれ」くらい言ったらどうなのか。原発再稼働に反対という運動を「遺産」として残したらどうなのか。
「何もできない」としても、「何がしたいか」くらい言え。
「私たち」は「何もできない」などと言うな。
*
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目次
カニエ・ナハ『IC』2 たなかあきみつ『アンフォルム群』11
林和清『去年マリエンバートで』15 夏目美知子「雨についての思索を一篇」18
北川透「「佃渡しで」を読む」21 野木京子「小石の指」31
疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」34 藤本哲明『ディオニソスの居場所』37
マーサ・ナカムラ『狸の匣』40 星野元一『ふろしき讃歌』46
暁方ミセイ『魔法の丘』53 狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」58
暁方ミセイ『魔法の丘』(2)63 新井豊吉『掴みそこねた魂』69
松本秀文『「猫」と云うトンネル』74 松本秀文『「猫」と云うトンネル』78
山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』83 吉田正代『る』87
福間明子『雨はランダムに降る』91 清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』95
川上明日夫『白骨草』107
*
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「現代詩手帖」2018年1月号は「現代日本詩集2018」という特集を組んでいる。その巻頭作品が中村稔「三・一一を前に」。
私たちは間もなく此処を立ち去るだろう。
私たちはフクシマを廃炉にすることができないまま
これを私たちの遺産として
私たちの子孫に残していくより他はないだろう。
どう読めばいいのだろうか。
「私たち」とは誰のことか。「間もなく」とはどれくらいの期間か。「此処」とはどこか。「立ち去る」とはどういうことか。
「立ち去る」は「遺産」ということばと結びつけて考えれば「死ぬ」ということ。
「此処」とは「この世」か。
「間もなく」はわからない。
「私たち」には「私たちの子孫」が含まれない。「私たちの子孫」と「遺産」を受け取る人間であり、それは「此処」で受け取る。
そのとき「間もなく」は、どうなるのだろうか。
「私たちの子孫」にとって「間もなく」は「間もなく」ではない。短い時間ではない。「遺産」を受け取ったら最後、それから先の「時間」に終わりがない。
「死ぬ」ことを「立ち去る」と言い換える中村は、この「終わることのない時間」とどう向き合うのだろうか。「立ち去る」から向き合うこともない。どれくらいの長さかなど気にしない。
そんなことはない、気にしている、心配していると、中村は言うだろう。
二連目以下が、中村の「意識」である。一連目だけを読んで文句を言うな、というかもしれない。
溶け落ちた核燃料がどういう状態にあるか
七年の歳月が経ってなお何も分っていない。
廃炉の工程は三十年というが、
気の遠くなるほど先のことをあてにできるか。
ほんとうに「何も分っていない」のか、わかっているけれど、その情報は隠されているのか。私は「溶け落ちた核燃料がどういう状態にあるか」知らないが、私が知らないからすべての人間が「分っていない」とは言えない。
「廃炉の行程が三十年」というのなら、それが確実なら、それはあてにできると思う。「私たちの子孫」にとっては「気の遠くなるほど先」のことではない。一連目で感じた終わりのない時間に、きちんと終わりは来る。
でも、そうなのか。ほんとうに「三十年先」は廃炉処理がすんでいるのか。だれが、それを保証するのか。「廃炉の工程は三十年」と言った人(主語)がない。誰が、言うのだ。この二連目には「私たち」という「ことば」がないが、まさか「私たち」が「廃炉の工程は三十年」と言うのではないだろう。中村が言うのではないだろう。
「私(たち)」は、どこへ消えたのか。
中村は誰を代弁しているのか。
廃炉にするための技術開発はつらく過酷だが、
フクシマ一回限り、汎用性のない空しい作業だ。
そんな空しい作業もまた私たちの遺産として
私たちの子孫に残さなければならないか。
「汎用性のない空しい作業」ということばに、私は、またつまずく。「汎用性がない」ということと「空しい」は同義語か。なぜ、汎用性が必要なのか。
ここに再び「遺産」ということばが登場する。
遺産は引き継がれる。引き継がれるものは汎用性があるべきだという考えが、汎用性のないものを「空しい」と定義しているようだ。汎用性があるは、共有される、効率性がある、経済的であるということか。「汎用性」は「資本主義」の「原理」だろうか。
しかし、「汎用性」があるかないかが、一番大事なことだろうか。今回ももとめられていることだろうか。汎用性がないから「空しい」というのはほんとうだろうか。
中村の詩ではなく(ことばではなく)、実際におこなわれている廃炉作業から「読み直し」をしてみる必要がある。
もし、事故を起こした東京電力福島第一原発を確実に廃炉にすることができるならば、それは「空しい作業」ではない。そして、その作業が二度と必要のないものならば、それはよろこばしいことではないのか。何度も何度もその作業が必要だとしたら、それこそ「空しい」のではないだろうか。
やっと廃炉作業が終わったと思ったら、また事故処理をしないといけないという事態が起きた方が、作業をやっているひとにとっては「空しい」のではないか。「技術」には「汎用性」があるが、廃炉作業をするひとの「気持ち」は「技術の汎用性」とは無関係である。何度でもやりたい仕事もあれば、一度でもしたくない仕事がある。一度で十分という仕事がある。
何度も何度もいのちがけで原子炉を廃炉にしなければならないという事態が起きるならば、そしてそのために開発された「技術」が「汎用性」をもつなら、それは「空しい」ことではなく、「おそろしい」ことではないか。
もう一度、問いかけよう。「私たち」とはだれなのか。
実際に廃炉作業に取り組んでいる人たちを含めているのか。廃炉作業に取り組んでいる人、技術開発をしている人たちを含めているのか。
中村は、そういう人たちの前で「空しい作業」ということばを発することができるか。「私たち」という不特定多数のなかに身を隠さずに、「私」として、同じことばを発することができるのか。
それを問いたい。
私たちはフクシマを忘れることはない。
しかし、私たちは不安と不信をぬぐいきれない。
しかも、私たちが無念なのは
この不安と不信を何ともできないことなのだ。
「私たち」とは誰なのか。何度でも問いたい。中村は「この不安と不信を何ともできない」というが、むしろ「何をするか」を考えるべきだろう。
中村が「私たち」ということばのなかには含んでいない人、廃炉作業に取り組んでいる人は、不安をとりのぞくために動いている。働いている。「結果」を信じて働いている。できることをやっている。
一方、懸命に廃炉作業に取り組んでいる人とは別に、「原子力発電は必要だ」と主張して、再稼働を勧める人もいる。この人たちも、たぶん中村の書いている「私たち」にはふくまれないだろう。
原子炉の廃炉作業そのものに対しては何もできない(その能力がない)としても、原子力発電を推し進めようとする動きに対しては、やはり「私たち」は何もできないのか。
いや、中村は何もしないのか。
原子力発電に対し、「不安と不信」を持ちはするが、何もしないのか。
たとえ「間もなく此処を立ち去る」のだとしても、あるいは「間もなく此処を立ち去る」のならなおのこと、その「間もなく」のあいだくらい、原発再稼働に反対と言ったらどうなのか。東京電力福島第一原発の事故について「アンダーコントロール(制御できている)」と言った安倍に対して、「うそつき、責任をとれ」くらい言ったらどうなのか。原発再稼働に反対という運動を「遺産」として残したらどうなのか。
「何もできない」としても、「何がしたいか」くらい言え。
「私たち」は「何もできない」などと言うな。
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目次
カニエ・ナハ『IC』2 たなかあきみつ『アンフォルム群』11
林和清『去年マリエンバートで』15 夏目美知子「雨についての思索を一篇」18
北川透「「佃渡しで」を読む」21 野木京子「小石の指」31
疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」34 藤本哲明『ディオニソスの居場所』37
マーサ・ナカムラ『狸の匣』40 星野元一『ふろしき讃歌』46
暁方ミセイ『魔法の丘』53 狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」58
暁方ミセイ『魔法の丘』(2)63 新井豊吉『掴みそこねた魂』69
松本秀文『「猫」と云うトンネル』74 松本秀文『「猫」と云うトンネル』78
山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』83 吉田正代『る』87
福間明子『雨はランダムに降る』91 清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』95
川上明日夫『白骨草』107
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