詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

秋山基夫『文学史の人々』

2017-12-20 16:49:22 | 詩集
秋山基夫『文学史の人々』(思潮社マンデマンド、2017年11月10日発行)

 秋山基夫『文学史の人々』にはいろいろな人物が出てくる。しかし私が読んだことがあるのは、森鴎外だけである。そこで「森鴎外」を読んでみた。「青い空」という詩のような作品と、「東京方眼図と散歩する青年たち」という散文(ゆきあたりばったり)という感じの作品、「注」の三つから構成されている。
 はっきり言って、何が書いてあるかわからない。だが、「東京方眼図と散歩する青年たち」の次の部分に引きつけられた。

ところがこの方眼図は人にひとつの見方を要求する。(91ページ)

 地図がひとに「ひとつの見方を要求する」か。私は地図というものを、そんなふうに考えたことがなかったので、驚いた。
 秋山は何を「要求されている」と感じたのか。秋山の感じたことを探っていけば、秋山の思想(肉体)に触れることができる。
 先の文章を含む部分は、こうである。

 人はものを見る場合「自分」の目の位置でそれを見るだろう。目から遠いところは、よく見えるように目を近づけるか、ものを目に近いところにひきよせるかする。つまりものの見方は、あれこれの適当な選択によっている。ところがこの方眼図は人にひとつの見方を要求する。人は自分の目の位置をこれから行きたい目的地が存在するあるひとつの方眼の真上に持っていき、それを垂直に見おろさなければならない(対象との最短距離)。

 正気か?あるいは「文学」にするために、わざと書かれたものか。私は書き写しながら、判断に迷う。としか思えない。
 ひとはだれでも「自己中心的」に世界を見る。でも「目から遠いところは、よく見えるように目を近づけるか、ものを目に近いところにひきよせるかする。」というのは正しいようで間違っている。
 私は目が悪いので、ここに書かれていることはそのまま納得できる。「正しい」と思う。しかし、それは「現実」の世界のことである。本棚にある本の文字が読めない。近づくか、手元に引き寄せる。
 でも、これは「地図」の世界ではない。
 別な言い方をしよう。街を歩いている。歩いてどこかへゆく。そのとき「よく見る」という「動詞」はどうなるのか。遠くにある標示の町名が読めない。そういうときは「目を近づける」前に「肉体」そのものを近づける。そこに近づいていく。そして、そのとき「ものを目に近いところにひきよせる」ということなどは絶対にしない。あるビルを目印に歩いているとき、そのビルを「目に近いところにひきよせる」ということは絶対にない。ひきよせられないものがある。
 「地図」が「要求する」ものの見方とは、「ものを目に近いところにひきよせる」という見方を放棄することである。地図は「目」で読むものではない。「現実」を絶対視し、それを「動かさない」。それが前提になっている。もし、目印のビル、目印の川、目印の交差点を「目に近いところにひきよせる」ということをしてしまったら、世界がねじまげられてしまう。「目」は「目という肉体の部分」ではなく、「肉体」そのものとして対象に近づいていく、肉体を移動させるしかない。「地図」では「目」が動くのではなく、「肉体」全体が動いていく。肉体しか動かない。
 でも、秋山は、そうは考えない。

人は自分の目の位置をこれから行きたい目的地が存在するあるひとつの方眼の真上に持っていき、それを垂直に見おろさなければならない(対象との最短距離)。

 これは、まあ、「鳥」のように空中から「地図の町」を見下ろす感じなのだろうが、私はこの「強引」な秋山の「肉体」の動かし方に眩暈を覚えてしまう。
 「地図」は「垂直に見おろし」て読むものか。たとえば壁にはられた世界地図。街角の道路地図。それは「見おろし」たりはしない。向き合って「水平」に見つめる。鴎外の作った「方眼図」も手で目の位置まで持ち上げて「水平」に見ることが可能である。「水平」に見ても、「内容」がかわらないのが地図である。
 このあとに書いてあることが、さらに奇妙である。

斜めに見たりすると、あえて微妙ないい方をすれば、眼から遠いところは方眼が小さく変形してしまう。(もちろん実際のこととしては、図自体が小さくかつ文字も小さいから見えなくなるかもしれない。一定の視力以下の人は眼鏡か天眼鏡がますます必要になる。眼のいい人は斜めに見ても見えるかもしれないが、脳のなかで垂直に見たように修正しているだろう。)

 方眼図は秋山によれば、縦77・5センチ、横55センチのものと、縦21・5センチ、横8・5センチの二種類の組み合わせ。大判のものはともかく小さい地図など、わざわざ「斜め」の方から見る必要などないだろう。「眼から遠い」といっても「遠さ」には限度がある。
 「脳のなかで」「修正している」ということばがあるが、「地図」とはもともと「脳のなかで修正したもの」だろう。「脳のなかで修正されたもの」を「現実に復元しながら」地図の道を歩く。
 どうも秋山は「地図の見方」が、私の感覚から言うと「尋常」ではない。とても変わっている。
 で、ここから大胆に端折ってしまうのだが、鴎外の「この地図」が「人にひとつのものの見方を要求する」と受け止める秋山は、「世界」を見るとき、また「特別なものの見方」をしていることを間接的に語っていないか。「脳のなかで修正して」ものを見る、ということを拒み、ただひたすら「眼(目、とどう違うか考えてみないといけないのかもしれないが)」で見る。眼(目)に触れたものを、そのままことばにしていく。それが秋山の「肉体」のあり方なのである。
 私は目が悪い人間だから、私のものの見方(世界の見方)の方が間違っているのかもしれないが、私は秋山のようにはもの(世界)を見ることができない。目に見えるものは「多すぎる」。目が悪いので、そのすべてを「認識する」ということはできない。最初から余分なものは見ないようにしている。見えているものが限られているにもかかわらず、さらにそれを「脳のなかで整理し(情報を修正し)」、情報量を減らしている。余分なものを捨てている。「脳」とは、「肉体」のなかでももっとも「自己中心的な存在」だと思う。全部、自分の都合で「情報操作」し、不都合なことはなかったことにする。つまり、平気で嘘をつく。
 いま、こうやって書いている文章にしろ、私は「脳」が選んだ部分だけをとりあげて、書いている。秋山が書いていることのほとんどを無視して書いている。情報操作をしている。そうしないと動けない。
 でも、秋山は違う。
 私が引用しない部分では、高校で森鴎外が主人公の「舞姫」の芝居を見ている。前田愛の本を読んでいる。ほかにもいろいろあって、それを「ずるずるずる」とつないで「世界」(ことばの地図)にしている。「修正(取捨選択)」があるにしろ、それは「取捨選択」を感じさせない。見えたものはなんでも「ひとつの地図(作品)」に取り込んでしまう。
 こういう感覚で世界を見つめるから、

ところがこの方眼図は人にひとつの見方を要求する。

 と感じる。地図が「ひとつの見方」で作られているから,それが「ひとつの見方」を要求するのはあたりまえなのに、「要求されている」と感じる。そして「窮屈」に感じる。「便利」ではなく、不自然だと感じるのだろう。
 この「ひとつの見方」を、秋山はさらに言いなおしている。

 肝心なのは方眼図がどの方眼も同じ面積をもつ等質の空間だということだ。不特定の人のための道案内という目的にしたがうかぎり、等質でなければならないし、歪んだりしていてはいけないし、勝手に歪めたりするべきではない。

 地図は同じ縮尺でできている。「方眼」の大きさは等しいというのは、「常識」だと思うが、秋山は、このことが不満である。「等質」ということが気に入らないようだ。ひとは生きている。それぞれの人の生き方は「等質」ではない。「同じ」ではない。歪んでいてこそ、生きている世界なのだ。
 森鴎外についての読み見方(感じ方)も、それぞれが違う。高校生の読み方(感じ方)と前田愛の読み方も違う。その「質」も違う。それが鴎外の「この方眼図」には反映されない。それと同じように、ひとそれぞれの暮らし(思想)によって、「地図」は違うはずなのに、鴎外の「この方眼図」は「方眼」であることを強いている。
 で、その「方眼」を破ろうとして、秋山はことばを書き続ける。こんなに違う質の人間がいる。ことばがある。秋山が直接見たもの(体験したもの)だけでも、「方眼」におさまりきれないものがある。
 いや、わかるんですよ。秋山の言っていることは。秋山の言っているとおりですよ。ひとの「解釈」は違う。「方眼」にはあてはまらない。
 でもねえ、それを言うために「方眼図」に対して「人にひとつの見方を要求する」というのはなあ。
 「この方眼図」の「この」は「鴎外の」を言いなおしたものだけれど、この部分の「この」というこだわりが、なんとも言えずおかしい。「鴎外の方眼図(地図)」に限らず、どの地図もたいていは「方眼図」の方式で書かれている。東西南北(天地左右)に、見えない「方眼」が書かれている。その見えない「方眼」の上に、道路とか川とかビルとかが書かれている。それは「人にひとつの見方を要求する」のではなく、人が「地図」に対して「ひとつの描き方を要求した」結果なのである。鴎外はそういう「ひとの要求」にあわせて地図を考案しただけである。
 「方眼図」を見ていないけれど、鴎外ファンの私としては、そう反論しておきたい。

文学史の人々
クリエーター情報なし
株式会社思潮社

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目次
カニエ・ナハ『IC』2   たなかあきみつ『アンフォルム群』11
林和清『去年マリエンバートで』15   夏目美知子「雨についての思索を一篇」18
北川透「「佃渡しで」を読む」21   野木京子「小石の指」31
疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」34   藤本哲明『ディオニソスの居場所』37
マーサ・ナカムラ『狸の匣』40   星野元一『ふろしき讃歌』46
暁方ミセイ『魔法の丘』53   狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」58
暁方ミセイ『魔法の丘』(2)63   新井豊吉『掴みそこねた魂』69
松本秀文『「猫」と云うトンネル』74   松本秀文『「猫」と云うトンネル』78
山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』83   吉田正代『る』87
福間明子『雨はランダムに降る』91   清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』95
川上明日夫『白骨草』107



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