小池昌代『野笑』(澪標、2017年11月09日発行)
小池昌代『野笑』の「黒い廃タイヤの歌」に「そういうもの」ということばが出てくる。
「そういうもの」とは「人間の言葉が入っていかぬもの」ということになるだろうか。でも、なぜ「そういうもの」と言いなおしたのだろうか。
「そういうもの」というのは、とても散文的なことばだ。
漠然としすぎている。
詩にはふさわしくない、と思う。詩のことばというのは、もっと凝縮したものではないのか、と思う。
けれど、私は、この「そうしたもの」に強く引かれた。
ここに詩がある、と思った。
たぶん「そういうもの」は、私が最初に書いたように「人間の言葉が入っていかぬ」ではないのだ。そんなふうに明確に「言い直し」がきくものなら「そういうもの」とは書かないだろうと思う。「明確」なものがあって、わざわざそれを「そういうもの」と漠然としたものに言い換えてことばをつないでいくというのでは、どうも詩としては見劣りがする。あえてそうしたのはなぜなの。
「そういうもの」とは何だろうか。
よくわからないが、「そういうもの」と書いたあと、詩は「廃タイヤ」から離れていく。
「主役(?)」がタイヤを見ている小池から、タイヤそのものにかわっている。「わたしはここにいる」の「わたし」は小池ではなく「タイヤ」である。タイヤが「歌っている」。
でも、こういう「読み方」は、たぶん「学校教科書(学校)」文法の読み方だろうなあ。そのせいかもしれないが、こう書きながら、私はむずむずする。違った風に読みたい。「誤読」したいのだ。
「わたし」は「タイヤ」であって、「タイヤ」ではない。「タイヤ」とは呼べない何か、「そういうもの」としかいえない何かなのだ。「タイヤ」と言い換えてしまうと、何かが違ってしまう。「断定」というか、「限定」しないで、「そういうもの」と漠然と、そこにあるものをそのまま「名づけずに」肯定する。「名前」以前に、もどる。
このとき、小池自身も、「小池」という名前をもった存在ではなく、まだ「名前」のない存在になっている。「人間」でもない。何の「限定」も受けない存在。「名前」がないから、「そいうもの」としか言いようがない。
そういう「名前」以前のものになって、いま、ここにあることを肯定する。そうすると、「声」が自在に動き始める。「声」が生まれ始める。
「おーはいふー」「うーわいあー」「あーはいはー」「あーほいあー」
この「予兆」はすでに「あーはいはー」「うーはいはー」という形で書かれてはいるのだけれど、それがもっと、強く、明確に出てきている。
この「声」について、小池は「歌わせたい」と書いている。「使役」のかたちで動詞を動かしているけれど、実際に「そういうもの」が「声」を出すとき、それは「歌わされた」ものではない。また、小池が「歌っている」のでもない。タイヤと小池は、区別がない。「わたし」は小池でも、タイヤでもない。
小池がタイヤになって歌っているということもできるかもしれないが、そんなふうに相対化し、区別してはいけないのだろうと思う。区別のできないもの、「そういうもの」としてとらえることが、この詩のなかに入っていくことになる。
「曲がりくねる水の土地」は、馬に乗る詩である。ガイドが小池にあてがってくれた馬に乗る。ハワイでの体験のようだ。
そこにこんな部分がある。
「運命を分かち合う」、馬と人が「一体」になる。この「一体」の感じが「そういうもの」だろうなあ、と思う。「一体」と言ってしまうと、「説明」は簡単だが、何かが違ってしまう。
詩のつづき。
完全に「一体」なのではない。瞬間瞬間に馬になったり人間になったりしている。いや、「首筋」になったり「風」になったり、「地面に落ちたマンゴー」にさえなっているような気がする。「世界」になって、その瞬間瞬間、そこにあらわれてくるものになっている。
私の「誤読」したままに言い換えると。
私はここに書かれていることを「絵」のようには見ていない。「固定化した世界」とは見ていない。小池の書くことばと一緒に動いている。「アラ」ということばに触れれば馬が見え、「川の水」ということばに触れれば、馬を忘れて「川の水」しか見えない。「美味しそうに飲んだ」ということばと一緒に「馬が美味しい」と感じる、その「美味しさ」を感じてしまう。瞬間瞬間が「具体的」すぎて、何か酔ったような感じになる。
「そのようなもの」としか言えないような何か、である。
前後して読んだ『幼年 水の町』(白水社、2017年12月20日発行)の「赤い夏」というエッセイにこういう部分がある。小学校の水泳の授業。男子たちは「赤ふん」である。
わたしは何も感じなかった。ふんどしに萌える女子など周りに皆無だったし、嫌悪するほど意識もしていない。何かを感じたり考えたりはしていたはずだが、みんな黙って、表現しなかった。そしてただ、赤ふんの「赤」を、目のなかに収めていた。
この「ただ」が「そのようなもの」なんだろうなあ、と思った。
「そのようなもの」は「そのようなもの」として、ことばにしないで体験しているときは、「ただ」そこにある。その「ただ」が「世界」のあり方である。
「そのようなもの」を、「感じたこと」「考えたこと」として「ことば」にすると、そこには今まで存在しなかったものが動き始める。
「そのようなもの」というのは、何とも落ち着きのないことばだけれど、「そのようなもの」ということばを書かなければ、タイヤの詩の後半はなかった。つまり、「そのようなもの」は小池のキーワード(肉体のことば)である、と私は感じたのだ。「そのようなもの」といことばは「そのようなもの」としか書けなかった。そこに「正直」があらわれている。
*
詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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小池昌代『野笑』の「黒い廃タイヤの歌」に「そういうもの」ということばが出てくる。
浅岡自動車修理工場前の路上
廃タイヤが
十も二十も積まれている
十も二十も三十も
それは黒くて
とても硬い
パンパンに張りながら
用をなさない
静かで
迫力があり
尊敬にあたいする
あーはいはー
何を言っても
黒い廃タイヤは
人間の言葉が入っていかぬ
無言に押し返すその弾力
うーはいはー
そういうものにこそ
歌わせたい
「そういうもの」とは「人間の言葉が入っていかぬもの」ということになるだろうか。でも、なぜ「そういうもの」と言いなおしたのだろうか。
「そういうもの」というのは、とても散文的なことばだ。
漠然としすぎている。
詩にはふさわしくない、と思う。詩のことばというのは、もっと凝縮したものではないのか、と思う。
けれど、私は、この「そうしたもの」に強く引かれた。
ここに詩がある、と思った。
たぶん「そういうもの」は、私が最初に書いたように「人間の言葉が入っていかぬ」ではないのだ。そんなふうに明確に「言い直し」がきくものなら「そういうもの」とは書かないだろうと思う。「明確」なものがあって、わざわざそれを「そういうもの」と漠然としたものに言い換えてことばをつないでいくというのでは、どうも詩としては見劣りがする。あえてそうしたのはなぜなの。
「そういうもの」とは何だろうか。
よくわからないが、「そういうもの」と書いたあと、詩は「廃タイヤ」から離れていく。
山に続くもの
おーはいふー
わたしはここにいる
路上にころがって
おーはいふー
本部から遠く
町ごと押し流され
あのときからだ
じゅくじゅくと発酵し
うーわいあー
とても軽くなり 自由になった
使役をまぬがれ どこにでもいける
このからだで
あーはいはー
くりぬかれた中心から
湧き上がる歌
あーほいあー
「主役(?)」がタイヤを見ている小池から、タイヤそのものにかわっている。「わたしはここにいる」の「わたし」は小池ではなく「タイヤ」である。タイヤが「歌っている」。
でも、こういう「読み方」は、たぶん「学校教科書(学校)」文法の読み方だろうなあ。そのせいかもしれないが、こう書きながら、私はむずむずする。違った風に読みたい。「誤読」したいのだ。
「わたし」は「タイヤ」であって、「タイヤ」ではない。「タイヤ」とは呼べない何か、「そういうもの」としかいえない何かなのだ。「タイヤ」と言い換えてしまうと、何かが違ってしまう。「断定」というか、「限定」しないで、「そういうもの」と漠然と、そこにあるものをそのまま「名づけずに」肯定する。「名前」以前に、もどる。
このとき、小池自身も、「小池」という名前をもった存在ではなく、まだ「名前」のない存在になっている。「人間」でもない。何の「限定」も受けない存在。「名前」がないから、「そいうもの」としか言いようがない。
そういう「名前」以前のものになって、いま、ここにあることを肯定する。そうすると、「声」が自在に動き始める。「声」が生まれ始める。
「おーはいふー」「うーわいあー」「あーはいはー」「あーほいあー」
この「予兆」はすでに「あーはいはー」「うーはいはー」という形で書かれてはいるのだけれど、それがもっと、強く、明確に出てきている。
この「声」について、小池は「歌わせたい」と書いている。「使役」のかたちで動詞を動かしているけれど、実際に「そういうもの」が「声」を出すとき、それは「歌わされた」ものではない。また、小池が「歌っている」のでもない。タイヤと小池は、区別がない。「わたし」は小池でも、タイヤでもない。
小池がタイヤになって歌っているということもできるかもしれないが、そんなふうに相対化し、区別してはいけないのだろうと思う。区別のできないもの、「そういうもの」としてとらえることが、この詩のなかに入っていくことになる。
「曲がりくねる水の土地」は、馬に乗る詩である。ガイドが小池にあてがってくれた馬に乗る。ハワイでの体験のようだ。
そこにこんな部分がある。
名前はアラ
ハワイ語で道
速い川の流れを横ぎるとき
思いのほか、激しい勢いに抗し
人と馬
初めて運命を分かち合う
「運命を分かち合う」、馬と人が「一体」になる。この「一体」の感じが「そういうもの」だろうなあ、と思う。「一体」と言ってしまうと、「説明」は簡単だが、何かが違ってしまう。
詩のつづき。
アラは川の水を美味しそうに飲んだ
その首筋の 急傾斜を
水のようにすべり落ちるわが視線
馬上には
よそよそしい爽やかな非人情の風が吹き
馬から見る地上はにわかに抽象的
地面に落ちたマンゴーの実さえ
今にも 歌いだしそうに見える
完全に「一体」なのではない。瞬間瞬間に馬になったり人間になったりしている。いや、「首筋」になったり「風」になったり、「地面に落ちたマンゴー」にさえなっているような気がする。「世界」になって、その瞬間瞬間、そこにあらわれてくるものになっている。
私の「誤読」したままに言い換えると。
私はここに書かれていることを「絵」のようには見ていない。「固定化した世界」とは見ていない。小池の書くことばと一緒に動いている。「アラ」ということばに触れれば馬が見え、「川の水」ということばに触れれば、馬を忘れて「川の水」しか見えない。「美味しそうに飲んだ」ということばと一緒に「馬が美味しい」と感じる、その「美味しさ」を感じてしまう。瞬間瞬間が「具体的」すぎて、何か酔ったような感じになる。
「そのようなもの」としか言えないような何か、である。
前後して読んだ『幼年 水の町』(白水社、2017年12月20日発行)の「赤い夏」というエッセイにこういう部分がある。小学校の水泳の授業。男子たちは「赤ふん」である。
わたしは何も感じなかった。ふんどしに萌える女子など周りに皆無だったし、嫌悪するほど意識もしていない。何かを感じたり考えたりはしていたはずだが、みんな黙って、表現しなかった。そしてただ、赤ふんの「赤」を、目のなかに収めていた。
この「ただ」が「そのようなもの」なんだろうなあ、と思った。
「そのようなもの」は「そのようなもの」として、ことばにしないで体験しているときは、「ただ」そこにある。その「ただ」が「世界」のあり方である。
「そのようなもの」を、「感じたこと」「考えたこと」として「ことば」にすると、そこには今まで存在しなかったものが動き始める。
「そのようなもの」というのは、何とも落ち着きのないことばだけれど、「そのようなもの」ということばを書かなければ、タイヤの詩の後半はなかった。つまり、「そのようなもの」は小池のキーワード(肉体のことば)である、と私は感じたのだ。「そのようなもの」といことばは「そのようなもの」としか書けなかった。そこに「正直」があらわれている。
野笑 Noemi | |
小池昌代 | |
澪標 |
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詩集『誤読』を発売しています。
1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
オンデマンド形式なので、注文からお手もとに届くまでに約1週間かかります。
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