詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

及川俊哉『えみしのくにがたり』

2018-02-23 11:38:07 | 詩集
及川俊哉『えみしのくにがたり』(詩と思想新人賞叢書12)(土曜美術社出版販売、2018年02月20日発行)

 及川俊哉『えみしのくにがたり』は、困ってしまった。「波の神、海のきらめきの神が語った歌」が巻頭の作品。東日本大震災のことを書いている。そこにこんな一行がある。

麻都我宇良尓 佐和恵宇良太知

 そして、カタカナのルビがついている。私はカタカナ難読症(と、勝手に名づけているのだが)で、カタカナが読めない。聞いたことがあることばなら読めるが、聞いたことがないことばのカタカナは、まったく読めない。
 正確に転写できるかどうかわからないが、そのカタナカは、こうである。

マツガウラニ サワエウラダチ

 目がちらちらして、頭の中が混乱する。何度か目で追いなおしていると「ウラ」という音が二回繰り返されているが、これは先に「宇良」という漢字を読んでいるからわかることであって、漢字を読んでいなければ「ウラ」が繰り返されていることにも気がつかないだろう。
 さらに、それにはこういう「読み方」が追加されている。

(ふだんはうららかな松川浦にさえ津波が騒ぎ群れ立って)

 最初の「宇良」は「浦」か。水が打ち寄せるところ。「松川」という川と海が出会うところなのだろう。次の「宇良」は及川の註釈(?)によれば、「波」になるのかなあ。「宇良」は「波が打ち寄せるところ」、「宇良」は「波」。なんとか、ここまでは、わかる。
 でも「佐和恵」は何? 「さえ」? 一字あまるなあ。「佐和恵」とつづけて読むのではなく、「佐和/恵宇良」と読むのかも。「恵」は「めぐむ/あたえる」、受け身で「めぐまれる/あたえられる」というのもあるかな? 「多い」という意味もあるかもしれない。「知恵」というのは「知」に「めぐまれる」、「知をあたえられる」「知が多い」。そうすると「恵宇良」が「多い」、あるいは「大きい」。つまり「津波」か。
 「太知」と「立つ」なんだろうなあ。
 及川は「騒ぎ群れ立って」と書いているから「佐和恵」は「騒ぐ」かもしれない。「さわさわ/ざわざわ(佐和)」で「いっぱい(恵む/恵まれる)」。そして「佐和恵+宇良」が「騒ぐ/波」になり、それが「立ち上がる」と「津波」ということかもしれない。
 どこからどこまでがどのことばか、どういう意味なのかわからない。
 わからなくてもいいのかもしれない。ことばは、最初からわかるものではなく、聞いているうちにじょじょにわかってくるものだから。
 つづいて、こういう行がある。(漢字、ルビ、口語訳?を別々に引用する。)

於伎弖伊可婆 伊毛婆麻可奈良之

オギデイガバ イモバマガナシ
 
(置いて行ったら、愛しい人が悲しむだろう)

 ふーむ。これは「東北弁」の「口語」か。音が濁っているから、そう考えるのだが、では「麻都我宇良尓 佐和恵宇良太知」はやはり東北弁(口語)だったのか。「太知/ダチ」は「東北弁」の「濁音」? でも標準語でも「つまさきだち」と「立つ」の音が濁ることがあるからなあ。

 カタカナでつまずいて、「口語(東北弁)」なのか、書きことば(標準語)なのかもわからない。「音」が書かれているはずなのに、それが「声」として統一されていないと感じる。
 及川は統一しているのかもしれないが。
 先日読んだ、芥川賞の、若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」と同じような、いやあな感じがする。「肉体」がなじんでいかない。
 なぜこんな変な漢字(古事記の原書か、万葉集の表記のような漢字)の使い方をするのか。そこに「東北弁(おそらく)」までまじえるのか。
 東日本大震災が「肉体」の「歴史」を揺さぶった。太古からのいのちを揺さぶった。揺さぶられて、肉体の奥から、古いことばが目覚めてきて動き出した、ということなのかもしれない。
 でも。
 そういう「古いいのち」って、「書きことば」? 「麻都我宇良尓」というのは、「音」があって、それに「漢字」をあてはめて記録したものだ。こういう方法は「古代」の方法であって、それは「声」の問題ではないね。
 音(声)と表記は切り離せないということなのかもしれないけれど、うーん、なじめない。ついていけない。
 
オギデイガバ イモバマガナシ

 という「音(声)」は、いまも東北で「生きている」と思う。「口語」として語られ、聞いて共有されるものだと思う。
 でも、東北のだれが、

於伎弖伊可婆 伊毛婆麻可奈良之

 という「漢字表記」を共有するだろうか。もちろん「学問」のあるひとはわかるかもしれない。読んで「音」にすることができるかもしれない。でも、大震災でかなしんでいる多くのふつうのひとは? 「婆」という文字が出てくるからついつい書いてしまうが、嘆き悲しんでいるふつうのおじいさん、おばあさんは、これを読める?
 私は疑問に思う。

 そこからさらに、こう思うのだ。
 及川は何のためにこんな表記をまじえたのか。
 「いのち」、あるいは「ことば」は「いま」突然ここにあるのではなく、長い歴史をもっている。「いま」であっても、そこには「過去」が生きている。「過去」とつながっている。大災害が奪い取れなかったのは、この「つながり」である、と訴えたいのかもしれない。
 でも、これは「頭」で整理したときに生まれる「論理(意味)」に過ぎないなあ。
 で、そういうことは、及川の「肉体」の「力」というよりも、私には「頭」の力に思える。私はこういう古い歴史を知っています、こういう表記もできます、「頭」をみせびらかしているようにも見えてしまう。
 私は無知だから、私を基準にしてしかことばを動かせない。
 こういうことば(表記)といっしょに私の「肉体」を動かせない。
 いやだなあ、と思う。

 及川は、こんな行も書いている。

浜の石を拾い、面影のある石を拾ってみます。
海の中を漂う愛しい人を思うと、冷たい海の中の愛しい人を思うと、
こちらも冷たく身が冷えてくる気がする。
拾った石を手で揉んだり、胸に掻き抱いたり、いくらかでもあたためてみたいと思う。
海からのぼる朝日が、海をあたためてくれればいいと思う。

 ここは自然に読める。「肉体」がいっしょに動く。全編がこういうことばで語られているならいいのに、と思う。




*


「詩はどこにあるか」1月の詩の批評を一冊にまとめました。

詩はどこにあるか1月号注文
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
ここをクリックして1750円の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。

目次

瀬尾育生「ベテルにて」2  閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12  谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21  井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32  伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42  喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55  壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62  福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74  池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84  植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94  岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105  藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116  宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
森口みや「余暇」129
オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



以下の本もオンデマンドで発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977



問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

えみしのくにがたり (詩と思想新人賞叢書12)
クリエーター情報なし
土曜美術社出版販売
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(11)

2018-02-23 09:18:49 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(11)(創元社、2018年02月10日発行)

 タイトルのない詩がある。「*」で区切られている。

 永遠に沈黙している限りない青空の下の一発の銃声、沈黙との戦
いはそのように始められる。言葉はもはや言葉でなくてもいい、声
はもはや声でなくてもいい。沈黙を破ろうとするひとつの音、沈黙
と音との間のその緊張、そこから戦いは始まる。

 これが最初の断章。
 このあと、「言葉の非人間的な意味」、「非人間的な意味」としての「西部劇のヒーロー」、「ジャズドラマー」へとことばが引き継がれていく。
 最後の断章の前半。

 ジャズのドラマーたちは、騒音をつくっているのではない。彼等
は沈黙に対抗するための、別の沈黙をつくっているのだ。あのドラ
ムの音の緊張のさなかで、われわれは青空の沈黙を聞かない。

 「沈黙との戦い」としての「音」。その具体例として「銃声」(西部劇を含む)と「ドラム」がある。ドラムが沈黙と対抗するための別の沈黙をつくっているのだというのなら、銃声もまた別の沈黙と対抗するための音である。沈黙を破るための、沈黙とは呼ばれていない沈黙。「非沈黙」という「意味」の「沈黙」が「銃声/銃音」「ドラム」ということか。
 これは「ことば」のなかで生まれる「意味」という「沈黙」である。「聞こえない」(意味にならない)意味である。考えるとき、その考えの中で動いている「何か」である。とりあえず「意味」と名づけたが、それは「非流通の意味」(共有されていない意味)でもある。
 これは詩と呼ぶこともできるが、こういうことは書き始めればきりがない。「論理(意味)」はどこまでも自律的なものであり、暴走し続けるものである。暴走しながら「完結」を装うものである。
 だから、違うことを書く。
 私はこの詩では「青空」ということばに思わず傍線を引いた。

永遠に沈黙している限りない青空の下

果てない砂漠の上の果てない青空

われわれは青空の沈黙を聞かない

 「限りない青空」と「果てない青空」は同じものである。それは「限りない/果てない沈黙」である。最初のふたつには「限りない青空の沈黙の下」「果てない青空の沈黙」と「沈黙」を補い、最後のひとつには「限りない(果てない)青空の沈黙」と「限りない(果てない)」を補うことができる。
 そしてこの「限りない(果てない)」と「青空」「沈黙」は三つのことばで構成されているが「ひとつ」のものである。「宇宙」のことである。地球(人間)を起点にすると「青空」に見えるが、「人間的な意味」を捨て去れば「青空」を捨て去れば「宇宙」に吸い込まれていく。
 谷川は、ときどきというか、あるいは、それが基本なのかもしれないが、人と向き合うよりも「宇宙」と向き合う。
 「宇宙」と「谷川」の「間」を意識する。
 再読したとき、傍線を引いたのは、「間」である。「沈黙と音との間のその緊張」というつらなりのなかにでてくる。「間」は「その」と反復されている。ほかのことばが「強い」ので最初は見落としていた。
 ここから、こう考えた。
 「宇宙」を「沈黙」、「谷川」を「ことば/声」と言い換えると、「間」は「音楽」ということになる。
 それは「宇宙」から聞こえるのか。「宇宙」は「沈黙」しているから、「谷川」から聞こえるのか(生み出されるのか)と問うことは、あまり有効とは思えない。「間」は「あいだ」、それは両側(?)に何かがあって初めて存在するもの。そうであるなら、それは「結びつく」ことによって生まれるもの、切り離せないものになる。
 「沈黙」と「音」はいっしょになって「音楽」になる。この「いっしょになる」は、この詩では「緊張」とも「戦い」とも言いなおされている。まだ「音楽」になりきれていない、「音楽」のうまれる瞬間を描いているからだろう。

 (補足/蛇足)
 この作品は、最後を「人間宣言」のようなもので閉じている。「沈黙」と「音」との「戦い」を「人間の肉のリズム」から出発して、「勝利」という形で閉じようとしている。これは「意味(論理)」としてはわかるが、私には「強引」に感じられる。「無理」をしているように感じられる。
 谷川から私が感じるのは、「調和」ということばを思い起こさせるものが多い。「調和」の静かさ、やさしさというものが多い。「勝利」というような、何かを「制服」することによって生まれるものとは違う何か。
 「戦い」ということばで始まった詩だから「勝利」という結論を書かないと落ち着かないのかもしれないが、それでは「意味」にとらわれてしまう。つまり「音楽」を殺してしまうことになる。音楽は意味を、その内部から解き放つものだから。どこまでも広がっていくのだから。
 だからこそ、「青空(宇宙)」ということばへ引き返したくなる。「青空」が谷川なんだなあ、と思うのである。




*


「詩はどこにあるか」1月の詩の批評を一冊にまとめました。

詩はどこにあるか1月号注文
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
ここをクリックして1750円の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。

目次

瀬尾育生「ベテルにて」2  閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12  谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21  井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32  伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42  喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55  壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62  福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74  池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84  植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94  岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105  藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116  宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
森口みや「余暇」129
オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



以下の本もオンデマンドで発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977



問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com


聴くと聞こえる: on Listening 1950-2017
クリエーター情報なし
創元社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする