詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

樽井将太「亜体操卍」

2018-02-07 09:43:56 | 詩(雑誌・同人誌)
樽井将太「亜体操卍」(「みらいらん」1、2018年01月20日発行)

 樽井将太「亜体操卍」は何が書いてあるか、わからない。けれど、書きたいという欲望と、欲望を書きたいという「気持ち」がわかる。書く「対象」に対する「欲望」と、欲望を「書きたい」が拮抗して、区別がつかない。別なことばで言うと、そこに「妄想」だけがある。妄想が「ことば」になり、ことばが「妄想」になる。

すめらす
ににぎの体操
あちこちまがる蠱か

 「すめら」とか「ににぎ」というのは、いまはつかわないことばだ。「古語」。かすかな記憶では、神とか天皇につながることばだ。
 樽井はどう思っているかわからないが、私は、この「すめら」とか「ににぎ」という「音」は奇妙だなあと思う。「意味」がはっきりわからない。別なことばで言うと「漢字」でどう書くのか思い出せない。「漢字」は「表意文字」。「意味」がなんとなくわかる。ひらがなは「表音文字」。「意味」がわからない。ただ、その「音」を「肉体」で繰り返すとき、妙に「肉体」の奥がうごめく。形にならないまま、むずむずする感じがある。舌を動かす、口の中で舌が口の内部をこする。これが、妙に、「いろっぽい」。
 日本をつくった神とか天皇とかは、はじめてセックスをする日本人(?)だね。神(天皇)のセックスのから、人間がつぎつぎにうまれてくる。それは健全な「体操」かも。
 「蠱」は、たしか「こわく」というという「熟語」につかわれているな。
 うーむ。
 昔の人(?)は、虫に「なまめかしい」ものを感じていたのか。この「虫」は、しかし毛のない虫、裸の、肌の下が透けて見えるような虫だろうなあ。なぜ、そういうものに「なまめかしさ」を感じるのか。「裸」だからだろうなあ。そして、その「内部」が動いているのが見えるようなところが色っぽいのだろうなあ。
 「あちこちまがる」と樽井は書いているが、まっすぐではない。くねる。まっすぐではいられない。と、いうことろにセックスの秘密があるのかも。
 セックスは「卍」の形で動く「体操」、いや「亜体操」か。このときの「亜」は「亜種」の「亜」だね。(でも、なぜ、「亜種」というのだろう。)

たまももかるくはずむ
膝のうえでは何か小動物のような襞の
食むような仕ぐささえ
たのしいおんがくが
応援します、
(にこにこ)
なんで柔らかいね、
あちこちまがる蠱
ひらきひるこながるる

 「たまももかるく」は「漢字(表意)」ではどうなるのか。「玉藻も軽く」か「玉・腿軽く」か。「玉」とか「腿」を思ってしまうのは、まあ、私の「妄想」であって、樽井がそう思っているかどうかは、わからない。
 「音」をとおして、私は「音」そのものの「欲望」に触れる。いや、そういうことを樽井が「妄想」しているだろうなあと、妄想し、それをさらに広げる。樽井が何を見ているか(伝えようとしているか)を無視して、その「音」からこういうものが「見える」とかってに思う。
 樽井を忘れて、私は「ことば(音)」そのもののなかで、「音の肉体」が持っているものと「私の肉体」を重ねる。「音の肉体/ことばの肉体」が「私の肉体」になるのか、「私の肉体」が「ことばの意味」を「音の肉体」にかえてしまうのか。よくわからない。よくわからないが、こういう瞬間というのは、私は好きだなあ。私の「妄想」は間違っているかもしれないが、間違っているということが「妄想」の正しい動きであり、そこには「正しい想像」ではつかみとれない「強い何か」がある。
 あ、これでは、強引すぎるか。
 「腿」「膝」、それから「襞」か。どうしたって、その「襞」というのは女性性器の「比喩」だね。(これって、直喩? 換喩? たぶん、換喩。換喩って、いやらしいね。直喩に比べると。直喩なら、「熟れた花びら」とか「つぼみ」とか。ね、「襞」の方が、換喩の方が「直接的」でしょ?)
 「食む」というのも、「食べる」ではなんでもないが、「はむ」という音が妙にあいまいで、いろっぽい。「は」という吐く息、「む」という閉ざす息の交錯があるからだね。「仕ぐさ」も古くさくて、「抑圧」を感じさせる。「欲望」は暴走するものだけれど、その暴走は「抑圧」があってこそなんだ。
 あ、こんなことは書いてないんですよ。私がかってにつけくわえているだけなんですよ。
 で、ついでにつけくわえる。
 「たのしい」「にこにこ」「柔らかい」。そのあとの、

ひらきひるこながるる

 あ、また、わけのわからないことば。わけがわからないから、「わかる」を見つけ出して「妄想」する。「開き・蛭子・流るる」。放出した精液が膣から逆流してくる(あふれてくる)?
 こんなに早く終わってしまってはいけないのだけれど、若いから、二回戦からが本番ということもあるだろうなあ、なんて。
 いや「ひらきひるこながるる」の「ひ」の繰り返し、「ら」が「る」に変わると、「き」が「こ」に変わる。この音の変化の微妙さ。さらに「る」「る・る」の繰り返しの間の、か行が「清音(き)」から「濁音(が)」への変化も、とても楽しい。「肉体」にぐいと迫る。
 そんなことは書いていない? 書いていなくてもいい。そう読んでしまう。詩は、書いた人のものではなく、読んだ人のもの。

 樽井の「意図」は違うかもしれないが、ことばが「音」になって、「音」がことばを揺さぶって、「妄想」を誘うというのは詩の特権だと思う。「正しい」ことなんてつまらない。ありえないこと(間違っていること)が、あるかのように思える瞬間が楽しい。わくわくする。




*


「詩はどこにあるか」1月の詩の批評を一冊にまとめました。

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目次

瀬尾育生「ベテルにて」2  閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12  谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21  井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32  伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42  喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55  壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62  福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74  池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84  植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94  岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105  藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116  宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
森口みや「余暇」129
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嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977



問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

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