詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

自民党議員改憲条文案(だれが、主語なのか)

2018-02-20 12:44:01 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党議員改憲条文案(だれが、主語なのか)
             自民党憲法改正草案を読む/番外179(情報の読み方)

 2018年02月20日読売新聞(西部版・14版)が3面に「自民党議員改憲条文案」を紹介している。

9条2項維持 集約図る/武力行使の範囲 焦点

 という見出し。
 自民党議員から「自衛隊の根拠規定を明記する条文案」を募集していたが、それを締め切ったという。3月25日の党大会までに安倍の提唱した「9条2項を維持する案で意見を集約する」という。
 問題は幾つかあるが、最大の問題は、安倍が「条文案」を明確にしていないこと。提唱者(主導者)が知らん顔をしている。批判の矢面にたつのを避けている。「議論は党内でやっている」、あるいは「憲法審査会で議論を尽くした」と言い逃れるつもりである。あくまで「他人が(しかも複数の議員が)決めたことであって、自分は関与していない(文言に対する説明責任はない)」と言い逃れるつもりである。
 先日、「働き方改革法案」をめぐる資料のでたらめさが明らかになった。このときの対処も「資料をつくったのは私ではない。厚労省が間違っていた」と他人に責任を押しつけている。そういうでたらめを見過ごしてきた厚労相は責任をどうとるのか。さらには、その厚労相を任命した安倍の責任はどうなるのか。「私はだまされた」というような、被害者を装った対処方法は問題がある。だまされたのは安倍ではなく、野党議員であり、国民である。
 同じことをしようとしている。問題があれば、「それは私の責任ではなく、審議してきた議員の責任である」と言い逃れるために「条文案」を募集したにすぎない。

 安倍の意向を汲んだ「9条2項維持案」の文言は次のようになっている。(番号は私がつけた。)一つずつ点検していく。

(1)3項を追加し、「前項の規定は、自衛のための必要最小限度の実力を保持することを妨げない」と明記。(片山さつき)

 この案には「自衛隊(組織)」を明示することばがない。9条は「日本国民は、」と書き出されている。主語は「日本国民」である。国民のひとりひとりが「自衛のための必要最小限度の実力を保持する」という意味になる。これでは「自衛隊」ではなく、ひとりひとりの「自衛する力」である。でも、片山は、そういうことを言いたいのではない。
 つづく文言に、「保持することを妨げない」とある。「妨げない」の主語が「国民」である。「だれかが」「自衛のための必要最小限度の実力を保持する」ということを国民は、「妨げない」という意味である。
 ここから考え直すと「保持する」の「主語」は「内閣(あるいは内閣総理大臣)」である。「国民」が「主語」の9条で、突然「内閣(あるいは内閣総理大臣)」が「主語」として登場する。これは、憲法の構成上おかしい。憲法は、天皇、戦争放棄、国民、国会、内閣、司法の順で書かれている。その順序を破っている。
 片山の案には「主語」はふたつある。そのひとつ「内閣(あるいは「内閣総理大臣)」はとても巧妙に隠されている。これは、いかにも「頭」がいい人間が考えそうな「わな」である。こんなふうにして「安倍内閣総理大臣」を隠して行動すると、安倍に大事にされるようである。
 安倍の「意向」を忖度し、ことばを補えば、いいかえると、露骨に言いなおすと、

 前項の規定は、自衛のための必要最小限度の実力を「内閣(あるいは内閣総理大臣が)」保持することを、「国民は」妨げない(という意味である)。

 になる。
 昨年6月に自民党改憲推進本部がつくった「たたき台」(西日本新聞に載っていた)と類似している。
 それには、こうあった。

9条の2 ①前条の規定は、我が国を防衛するための最小限度の実力組織としての自衛隊を設けることを妨げるものと解釈してはならない。
 ②内閣総理大臣は、内閣を代表して自衛隊の最高の指揮権を有し、自衛隊は、その行動について国会の承認その他の民主的統制に服する。

 ①の「我が国を防衛する」を「自衛」と言い直し、「最小限度の実力組織」から「組織」ということばを削除し、「自衛隊を設ける」を「実力を保持する」と言いなおしている。「妨げるものをと解釈してはならない」としてしまうと「だれが解釈するか」ということが問題になるので、「解釈してはならない」を省略し、「主語」を見えにくくしている。
 ②に露骨に出てきた「内閣総理大臣」を、完全に条文から隠してしまって、問題点を見えにくくしている。
 比較すると、片山案が、いかに「巧妙なわな」をはりめぐらしているかがわかる。
 読売新聞は、この片山案を最初に掲げているが、それはもっとも「安倍案」に近いからだろう。

(2)3項か「9条の2」を追加し、国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛のための組織を置く」と明記。(三宅伸吾)

 「自衛のための組織」という文言が出てくる。「自衛隊」を言いなおしたものだ。しかし、「自衛隊」がそれにあたるかどうかは、これだけでは言えない。「警察」や「海上保安部」なども「国の平和と安全を維持する」組織と定義できる。「組織」が具体的に何かを示していない。隠している。
 また、この案でも「だれが」組織を置くなのか、「置く」という動詞の「主語」が隠されている。国民のだれか(ひとりひとり)が「組織を置く」ということはできない。「内閣が」という主語が隠されている。
 この案では、9条の(そして憲法全体の)主語である「国民」が存在しない。消されてしまう。国民不在の憲法になる。

(3)3項を追加し、「我が国の平和と安全、国民の生命、財産を守るため、必要な自衛の措置をとる内閣総理大臣を最高指揮官とする自衛隊を保持する」と明記(坂本哲志)

 この案は、昨年6月の「たたき台」の案をていねいに踏襲している。「内閣総理大臣」を明記し、安倍にすりよっている。「平和、安全、生命」につけくわえて「財産」と書き込んでいるのが、ごますり加減を露骨にあらわしている。「経済」さえよければいい、「経済最優先(金持ちがもうかることが最優先)」の「アベノミクス」を踏まえての条文である。
 この坂本案に、憲法の「主語」である「国民」をつけくわえると、どうなるか。

我が国の平和と安全、国民の生命、財産を守るため、必要な自衛の措置をとる内閣総理大臣を最高指揮官とする自衛隊を保持する。「これを、国民は認める」

 日本国憲法には、たとえば「19条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」という具合に、テーマ(思想の自由)を提示し、テーマを「これを」という具合に言いなおしている。
 その文体を踏まえると、坂本案は、そうなるのだが、ここでまた問題が起きる。
 憲法は国民の「権利」を保障し、国家権力の行使に制限を加えるものである。国家権力を拘束するものである。19条でも、国家に対して「これを侵してはならない」と言っている。
 「これを、国民は認める」では、「これを、国民が認めなければならない」になってしまう。「文体」が巧妙にずらされ、国民を拘束することになる。
 9条2項の「国の交戦権は、これを認めない」(国民は、国の交戦権を認めない)と完全に矛盾する。国の権力を拘束する(権力を認めない)のが一貫した主張なのに、ここでは「認める」になっている。「認める」は言い換えると「認めさせる」である。「独裁」である。

(4)3項を追加し、「前2項の規定は、自衛権の発動を妨げない」と明記。(長尾敬) 

 長尾案は、「主語」を国民ではなく、「条項」(文言)そのものにしている。抽象的である。だからわかりにくいが、ここでも「国民が主語」であることが、ないがしろにされている。「国民」を削除して、「条文」(文言)に限定して整合性をとっているにすぎない。
 また「自衛権」の明記は「自衛隊」を明記することとは違う。

(5)9条に手を加えず、内閣の構成などを定めた66条2項に「内閣は自衛隊を自衛のための実行組織として有することができる」との文言を追加(寺田稔)

 寺田案は「裏技」のようなものだ。つまり、国民をだますことだけをねらっている。憲法自体の「整合性」という点では、いちばん「問題点が少ないと思う。9条で「戦争を放棄する」、しかし66条で「自衛組織(自衛隊)を内閣は組織する、指揮する」。
 しかし、なぜ、「自衛隊」だけが、ここに明記されなければならないのか。警察や海上保安部なども「自衛組織」にあたるのではないのか。

 9条2項を削除する案も二つ紹介されている。

(6)2項を「我が国の独立と平和及び国民の安全と自由並びに国際社会の平和と安定を確保するため、陸海空自衛隊を保持する」と改正する。(石破茂)
(7)2項を「我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を守るため自衛隊を保持する」などと改正。(衛藤征士郎)

 (6)(7)は、これだけを読むと、単純に「自衛隊を保持する」と書き加えるだけのように見えるが。
 現行憲法と比較すると問題点が明確になる。
 現行憲法9条2項は、こうなっている。

前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 (6)(7)に共通しているのは「国の交戦権は、これを認めない」が削除されていることである。逆に言うと、国夫交戦権は、これを国民は認める。主語の国民を補うと、自民党の案はどれもこれもデタラメ、国民をごまかすだけの文言である。
 現行憲法は9条1項で「国権の発動たる戦争」は「永久にこれを放棄する」(日本国民が政府に対し戦争を放棄させる)と明言している。その上でさらに「国の交戦権は、これを(国民が)認めない」と補足している。
 (6)(7)では、やはり「主語」の「国民」が消えている。「陸海空自衛隊」を「保持する」の「主語」はだれなのか。「国民」を消し去って、だれが「主語」になろうとしているのか。

 9条の改正は、「主語」をだれにするか、が問われている。
 「国民」が「主語」なのか、「内閣総理大臣」が「主語」なのか。
 「国民を守る(平和を守る)」という美しいことばで、「独裁」が準備されている。独裁者が独裁を強固にするために、戦争をする。そのために憲法が改悪されようとしている。



#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 

憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー
クリエーター情報なし
ポエムピース
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(8)

2018-02-20 12:20:06 | 詩集
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(8)(創元社、2018年02月10日発行)

 「26」には「生」と「死」が出てくる。「死」の意識によって「生」が輝く。輝きに満ちた「生の日々」、それこそが「私の墓」なのだ、というちょっと複雑な構造の「意味」が動いている。複雑というよりも、「理屈っぽい」かもしれない。「理屈(論理)」だから「完結している」。つまり「正しい」、あるいは「間違いがない」。
 でも、こういうことって、窮屈だよなあ。

 で、きょうの私は「理屈(論理)」が始まる前の一連目についてだけ感想を書く。

ささやかなひとつの道を歩き続けると
やがて挨拶の出来る親しいものが増えてゆく
小さな歌をうたっていると
うたっている間の幸せが私のものだ

 なんだかうれしくなる。歌を歌いながらなんでもない道を、どこへ行くともなく歩いてみたい気がする。きょうは天気がいいし、気持ちが晴れやかになりそうだ。
 「歩き続ける」の「続ける」がいいんだろうなあ。「続ける」と「同じ」ではいられなくなる。最初は「挨拶」できなかったもの、よそよそしいものが身近になってくる。親しいものになってくる。それが増えてくる。この変化は、「私」そのものの変化だ。私以外のもの(他者)がかわるのではなく、「私」がかわる。私が私でなくなる、というのは楽しい。
 最初の二行の、どこまでも動いていく感じは、ゲーテを思わせる。ゲーテの詩を読んだのはもう五十年以上も前のことなので、何も思い出せないが、ことばのリズムとういか、スピードが快活で気持ちがいい。どこまでもこのまま動いて行けそうな軽やかさ、疲れを知らない力がある。
 それにつづく二行もおもしろい。「うたっている間のしあわせ」というけれど、この「うたっている」と「間」と「幸せ」は、どう違うのだろう。どこで区別ができるのだろう。私には「ひとつ」に見える。ついでにいうと、その三つに「私」も加わって「ひとつ」。
 「うたっている」という「動詞」が「私」、「うたっている間(時間)」が「私」、「幸せ」が「私」。区別ができない。区別がない。それなのに、それが別々のことばになって溢れ出てくる。
 書き出しの二行も同じことだ。「ささやか」は「ひとつ(の道)」であり、「歩く」も「ささやかな」行動である。何か目的があって歩くのではなく、目的はあるかもしれないが「ささやか」。それを「続ける」。何が何でも続けるのではなく、「ささやか」に続ける。「やがて」も「ささやかな」時間、つまり何時間とかわざわざ区切っていうようなものではない。「あいさつ」も「ささやか」だ。「親しさ」も「ささやか」だ。
 「ささやか」が増えて、それが溢れだす。「歌」になる。「うたう」という動詞になる。「歩いている」のか「うたっている」のか。区別がない。「あるきながら、うたう」。ひとは、同時に複数のことができる。この不思議な「肉体の拡大」の瞬間。これは「ささやかな/幸せ」かなあ。

 そういうものが、区別のつかないもの(和音)となって「ひとつ」になって、溢れてくる。そういうものを、私は、聞く。私に聞こえる。




*


「詩はどこにあるか」1月の詩の批評を一冊にまとめました。

詩はどこにあるか1月号注文
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
ここをクリックして1750円の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。

目次

瀬尾育生「ベテルにて」2  閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12  谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21  井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32  伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42  喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55  壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62  福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74  池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84  植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94  岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105  藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116  宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
森口みや「余暇」129
オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



以下の本もオンデマンドで発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977



問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

聴くと聞こえる: on Listening 1950-2017
クリエーター情報なし
創元社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする