西岡寿美子「ごあんない」(「二人」321、2018年02月05日発行)
西岡寿美子「ごあんない」。これから私が書くことは、詩の感想になるのかどうかわからないが。
陽が落ちて
木枯らしも静まったようだ
夜の気配が深まると
誰かに急かされることでもないが
包丁を揃え
夜なべ仕事を始めたくなる
それは渋柿の皮剥きであったり
大根の千切りであったり
切り干しサツマ芋であったり
ここまで読み進んで、その三連目を私は何度も読み返してしまった。
そうか、「夜なべ」には、それぞれ「ことば」があったのかと、不思議な気持ちになったのだ。
私は田舎育ちなので、ここに書いてあることは全部わかる。「渋柿の皮剥き」は得意である。「大根の千切り」「切り干しサツマ芋」の手伝いはしたことがないが、母親が夜なべ仕事をしているのを見たことはある。しかしそのときは、それに「ことば」があるとは思わなかった。ただ「渋柿」「大根」「サツマ芋」があり、同時に包丁と肉体がある。肉体が動いている。「もの」と「肉体」が「ある」。それだけだった。「柿の皮を剥いて」と言われれば、ただ、そうした。そのときは「柿の皮を剥く」という「ことば」はいらない。左手で柿をもち、右手で包丁をもち、包丁を動かすというよりも手に持っている柿を動かすという感じで皮を剥く。「ことば」はどこにもなく、ただ「柿」と「包丁」というものがあり、私の「手」があった。
「ことば」がなくて、「もの」と「行動(肉体)」がある。こういう「暮らし」がある。あった。
ここから思うのだ。
「ことばにする」ということは、どういうことなのか。
わからない。
逆に考えればいいのかもしれない。いつでも、「ことば」にしないものが、ただ「ある」。その「ある」ものといっしょに生きているのが「暮らし」というものなのだ。
ここから唐突に私のことばは違うところへ動いて行く。
きょうの「日記(感想)」だけを読んだ人にはわからなかもしれないが、私は最近谷川俊太郎の『聴くき聞こえる』の感想を書きつづけている。谷川は「自然音」と「音楽」の両方に触れている。私は小さいとき周囲に「音楽」というものがなかった。「自然音」はあった。しかし、その「自然音」も「聞いた」という記憶がまったくない。それは、ただ「ある」だけだった。つまり「ことば」にする必要がなかった。「ある」というだけで十分だった。これを「ことば」にするのは、どういえばいいかわからないが、よくよくのことである。
「ことば」にするのは、「ものを生み出す」ということに似ている。いいかえると、そこに「ない」ものを「ある」にするということだ。そこに「ある」ものは「ことば」にしないで生きているというのが「暮らし」なのだ。
うーむ、なんだかとりとめがないか。
ことばが脱線しているのか。
そうでもないかもしれない。
「ない」ものを「ある」に変えるということにつながると思うのだが、西岡の詩は、こう閉じられる。
畳なわるあの嶺々の彼方
世を代えた父母や
目鼻立ちも定かではない
累々繋がる祖父母や曾祖父母らは
わたしによく似た祖々を慕うているのだ
待ってて
暮れ春の間には頃合に仕上がるだろう
すれば味よく煮しめてあげよう
距離も有って無いあなた方だから
一夕揃って
裔の裔のお膳造りも味わいに来て頂戴
父母も祖父母もいまは「いない」(ない)。でもことばにするとき「いる」。生きている。
こういう「声」が、私の幼いときに「あった」のかどうか、よく思い出せないが、きっと「あった」のだろうと思う。
私は両親が年取ってから生まれた子どもなので、父方の祖父母も母方の祖父母も、見たことかない。私にとっての最初の死者は、父の兄であった。だから、もう死んでしまった人を「いま/ここ」に呼び出すというときの、「肉体」の動き、「声」というものが、「暮らし」の中に「あった」という感じは実感としては思い出せないのだが、確かに両親のあれこれの動きというのは、「いない」祖先を「ある」ものとしていっしょに生きていたかもしれないと感じる。
「法事」の「案内」というのは、あれは生きているひとに対する「案内」であるだけではなく、死んだひとへの「案内」でもあったのか。「法事」での飲み食いは、死んだ人を「ある」という状態へ呼び寄せることだったのか。
五十年以上も前のことだが、私の田舎の「暮らし」には、「ことば」になっていないものが、ただ「ある」という状態であった。
「有っても無い」なら「無くても有る」のが「田舎の暮らし」だ。
ひとの「履歴」と「ことば」、「文学」というものは、どれくらい「関係」を突き詰めないといけないのかわからないが、なにもかもがただ「ある」が「ことば」はないというところで暮らしてきた人間が、谷川のように「音楽」が日常としてあり、「自然」が避暑先の(?)非日常としてあるという「暮らし」のなかで「音/音楽」を生きてきた人間の「ことば」を読めば、これはどうしたって、何か奇妙な「ずれ」があるなあ。
*
関係があるかないかわからないが……。
西岡は「特殊詐欺(オレオレ詐欺の一種)」の被害者になりそうになったことを「よしなしごと二」というエッセイで書いている。
西岡は寸前のところで被害に遭わずにすんでいるのだが、そのきっかけが、とてもおもしろい。
「警察へ先に通報した方がよろしいのでは?」と質した時に、ほんの一呼吸中山氏の反応が遅れ、「やはり銀行協会へ」と、反復指示した、その一瞬がわたしに疑念を生じさせたのであった。
「ほんの一呼吸」が「ある」。そういう間が「ある」。その、ことばにはならない「ある」を西岡は肉体でつかみとっている。
同時に、こんなことも思う。
そうか、西岡にとっては「警察」は見たことがあるが、「銀行協会」というのは見たことがないものなのだな、と感じた。銀行は見たこと、行ったことはあるが、「銀行協会」となると、どうかなあ。「ことば」としては「ある」が「実体」は西岡にとっては「ない」。(これは、まあ、私自身に引きつけての感想なのだけれど。私も「銀行協会」なんて、「ことば」としてはあるかもしれないと思うが、実在は知らない。つまり「暮らし」のなかに存在しない。)
「ことば」はなんでも「ある」に変えることができる。
でも「ある」ものと「ことば」、「ない」ものと「ことば」の関係は、実際に「ことばにする(声に出す)」と微妙に違うのだ。
で、ここから「正直」が判断できる。「一呼吸」の違いが出る。
またまた脱線というか、飛躍してしまうが、私が西岡の詩が好きなのは「正直」が自然にあらわれてくるからだ。
「ない」ものを書かない。「ある」だけを、「ある」がままに書く。
詩にもどると、死んでしまった父母、祖父母、さらにその先の祖先。それは、死んだのだから「いない」(ない)が、夜なべ仕事をするときに、西岡の「肉体」のなかに「ある」。つまり生きている。「ある」を「ある」がままのかたちで西岡はことばにしている。それが美しい。とても自然だ。だから、私はその部分を何度も読み返したのだと思う。
*
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目次
瀬尾育生「ベテルにて」2 閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12 谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21 井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32 伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42 喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55 壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62 福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74 池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84 植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94 岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105 藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116 宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
森口みや「余暇」129
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嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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