ソフィア・コッポラ監督「ビガイルド 欲望のめざめ」(★★)
監督 ソフィア・コッポラ 出演 コリン・ファレル、ニコール・キッドマン、キルステン・ダンスト、エル・ファニング
イーストウッドが出た「白い肌の異常な夜」のリメイク。私はイーストウッドが足を切られるというストーリーしか覚えていない。映画館ではなくテレビで見たんだろうなあ。
ソフィア・コッポラの映画は「少女趣味的」で好きではない。父親のコッポラも、まあ、少女趣味が強かった。「ワン・フロム・ザ・ハート」はナスターシャ・キンスキーが出たので見たが、うーん、まるで少女マンガ。
それに。
キルステン・ダンストが私は嫌い。この映画の中で、コリン・ファレルが「美人だ」と絶賛するのだが、私はキルステン・ダンストを美人だと思ったことが一度もない。なぜ、映画女優をやっているか、わからない。
それなのに、なぜ見たか。
処女趣味が「欲望のめざめ」みたいな映画でどう展開するか、それを見たかった。これは「覗いてみたかった」ということ。
で、結果を言うと。
「少女趣味」は、ドレスのシーン、あるいはブローチだとかイヤリングのシーン(ことばのやりとりを含めて)に発揮されているのだが、私は、こういう「細部」の「少女趣味」(こだわりの美意識)というのが大嫌いなのだったということを思い出しただけだった。装飾品とか化粧品とか、あんなめんどうくさいものを選ぶ感性(忍耐強さ?)には近づきたくない。
また、これか。
選ぶ映画を間違えた、と思った。
まあ、おもしろい部分というのは、「少女趣味」ではなくて、「少女」そのものを描いている部分かなあ。
エル・ファニングが「少女」と「おとな」の境目を演じていて、その「境目」を基準にして言うと、「おとな(女)」の部分はおもしろくないねえ。「趣味」ではとらえきれないからなんだろうなあ。
もっとおさない「少女」の方が、むしろ「おとなびと」いて興味深い。
「白い肌の異常な夜」はまったく覚えていないが、毒キノコを食べさせようと少女が思いつくシーンがすごいなあ。「おとな」の意識を先回りして、とってしまう。こういう残酷さは「少女」にしかできない。「おとな(おんな)」は自分では言わない。言わないけれど、そういうことは「カンのいい」こどもは「本能」の力で先取りする。
この延長で、コリン・ファレルがキルステン・ダンストにキノコ料理をすすめるとき、それをみて「先生はキノコが嫌いだったわよね」と言って、食べさせないところもいいなあ。
なにもかも知っている。それが「こども」。これは「本能」は知らないことを先取りするということなんだろうけれど。
男の監督は、ここまで「少女」を「おとな」として描かないかもしれない。「少女」のままに描いて、「おとな(おんな)」を浮かび上がらせるかもしれない。
でも、これは「少女趣味」とは違った問題だね。
女は年齢に関係なく、同性を「おんな」として見ている、ということなんだろうなあ。
それから……。
南部の風景に私はかなり関心を持っていた。アメリカ映画の緑は私にはどうもなじめない。ほんとうにアメリカの緑がああいう色なのか、疑問をもっている。この映画ではファーストシーンで南部の森が出てきたので、それがどう展開していくか気になったのだが、やはり納得がいかない。深みがない。広さが深さを奪っていくのかもしれないが、自然の力を感じることができない。
これもがっかりした理由かなあ。
(ソラリアシネマ・スクリーン3、2018年02月25日)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
監督 ソフィア・コッポラ 出演 コリン・ファレル、ニコール・キッドマン、キルステン・ダンスト、エル・ファニング
イーストウッドが出た「白い肌の異常な夜」のリメイク。私はイーストウッドが足を切られるというストーリーしか覚えていない。映画館ではなくテレビで見たんだろうなあ。
ソフィア・コッポラの映画は「少女趣味的」で好きではない。父親のコッポラも、まあ、少女趣味が強かった。「ワン・フロム・ザ・ハート」はナスターシャ・キンスキーが出たので見たが、うーん、まるで少女マンガ。
それに。
キルステン・ダンストが私は嫌い。この映画の中で、コリン・ファレルが「美人だ」と絶賛するのだが、私はキルステン・ダンストを美人だと思ったことが一度もない。なぜ、映画女優をやっているか、わからない。
それなのに、なぜ見たか。
処女趣味が「欲望のめざめ」みたいな映画でどう展開するか、それを見たかった。これは「覗いてみたかった」ということ。
で、結果を言うと。
「少女趣味」は、ドレスのシーン、あるいはブローチだとかイヤリングのシーン(ことばのやりとりを含めて)に発揮されているのだが、私は、こういう「細部」の「少女趣味」(こだわりの美意識)というのが大嫌いなのだったということを思い出しただけだった。装飾品とか化粧品とか、あんなめんどうくさいものを選ぶ感性(忍耐強さ?)には近づきたくない。
また、これか。
選ぶ映画を間違えた、と思った。
まあ、おもしろい部分というのは、「少女趣味」ではなくて、「少女」そのものを描いている部分かなあ。
エル・ファニングが「少女」と「おとな」の境目を演じていて、その「境目」を基準にして言うと、「おとな(女)」の部分はおもしろくないねえ。「趣味」ではとらえきれないからなんだろうなあ。
もっとおさない「少女」の方が、むしろ「おとなびと」いて興味深い。
「白い肌の異常な夜」はまったく覚えていないが、毒キノコを食べさせようと少女が思いつくシーンがすごいなあ。「おとな」の意識を先回りして、とってしまう。こういう残酷さは「少女」にしかできない。「おとな(おんな)」は自分では言わない。言わないけれど、そういうことは「カンのいい」こどもは「本能」の力で先取りする。
この延長で、コリン・ファレルがキルステン・ダンストにキノコ料理をすすめるとき、それをみて「先生はキノコが嫌いだったわよね」と言って、食べさせないところもいいなあ。
なにもかも知っている。それが「こども」。これは「本能」は知らないことを先取りするということなんだろうけれど。
男の監督は、ここまで「少女」を「おとな」として描かないかもしれない。「少女」のままに描いて、「おとな(おんな)」を浮かび上がらせるかもしれない。
でも、これは「少女趣味」とは違った問題だね。
女は年齢に関係なく、同性を「おんな」として見ている、ということなんだろうなあ。
それから……。
南部の風景に私はかなり関心を持っていた。アメリカ映画の緑は私にはどうもなじめない。ほんとうにアメリカの緑がああいう色なのか、疑問をもっている。この映画ではファーストシーンで南部の森が出てきたので、それがどう展開していくか気になったのだが、やはり納得がいかない。深みがない。広さが深さを奪っていくのかもしれないが、自然の力を感じることができない。
これもがっかりした理由かなあ。
(ソラリアシネマ・スクリーン3、2018年02月25日)
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