詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ソフィア・コッポラ監督「ビガイルド 欲望のめざめ」(★★)

2018-02-25 19:53:59 | 映画
ソフィア・コッポラ監督「ビガイルド 欲望のめざめ」(★★)

監督 ソフィア・コッポラ 出演 コリン・ファレル、ニコール・キッドマン、キルステン・ダンスト、エル・ファニング

 イーストウッドが出た「白い肌の異常な夜」のリメイク。私はイーストウッドが足を切られるというストーリーしか覚えていない。映画館ではなくテレビで見たんだろうなあ。
 ソフィア・コッポラの映画は「少女趣味的」で好きではない。父親のコッポラも、まあ、少女趣味が強かった。「ワン・フロム・ザ・ハート」はナスターシャ・キンスキーが出たので見たが、うーん、まるで少女マンガ。
 それに。
 キルステン・ダンストが私は嫌い。この映画の中で、コリン・ファレルが「美人だ」と絶賛するのだが、私はキルステン・ダンストを美人だと思ったことが一度もない。なぜ、映画女優をやっているか、わからない。
 それなのに、なぜ見たか。
 処女趣味が「欲望のめざめ」みたいな映画でどう展開するか、それを見たかった。これは「覗いてみたかった」ということ。
 で、結果を言うと。
 「少女趣味」は、ドレスのシーン、あるいはブローチだとかイヤリングのシーン(ことばのやりとりを含めて)に発揮されているのだが、私は、こういう「細部」の「少女趣味」(こだわりの美意識)というのが大嫌いなのだったということを思い出しただけだった。装飾品とか化粧品とか、あんなめんどうくさいものを選ぶ感性(忍耐強さ?)には近づきたくない。
 また、これか。
 選ぶ映画を間違えた、と思った。
 まあ、おもしろい部分というのは、「少女趣味」ではなくて、「少女」そのものを描いている部分かなあ。
 エル・ファニングが「少女」と「おとな」の境目を演じていて、その「境目」を基準にして言うと、「おとな(女)」の部分はおもしろくないねえ。「趣味」ではとらえきれないからなんだろうなあ。
 もっとおさない「少女」の方が、むしろ「おとなびと」いて興味深い。
 「白い肌の異常な夜」はまったく覚えていないが、毒キノコを食べさせようと少女が思いつくシーンがすごいなあ。「おとな」の意識を先回りして、とってしまう。こういう残酷さは「少女」にしかできない。「おとな(おんな)」は自分では言わない。言わないけれど、そういうことは「カンのいい」こどもは「本能」の力で先取りする。
 この延長で、コリン・ファレルがキルステン・ダンストにキノコ料理をすすめるとき、それをみて「先生はキノコが嫌いだったわよね」と言って、食べさせないところもいいなあ。
 なにもかも知っている。それが「こども」。これは「本能」は知らないことを先取りするということなんだろうけれど。
 男の監督は、ここまで「少女」を「おとな」として描かないかもしれない。「少女」のままに描いて、「おとな(おんな)」を浮かび上がらせるかもしれない。
 でも、これは「少女趣味」とは違った問題だね。
 女は年齢に関係なく、同性を「おんな」として見ている、ということなんだろうなあ。
 それから……。
 南部の風景に私はかなり関心を持っていた。アメリカ映画の緑は私にはどうもなじめない。ほんとうにアメリカの緑がああいう色なのか、疑問をもっている。この映画ではファーストシーンで南部の森が出てきたので、それがどう展開していくか気になったのだが、やはり納得がいかない。深みがない。広さが深さを奪っていくのかもしれないが、自然の力を感じることができない。
 これもがっかりした理由かなあ。
               (ソラリアシネマ・スクリーン3、2018年02月25日)

 *

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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(13)

2018-02-25 14:56:37 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(13)(創元社、2018年02月10日発行)

 「ピアノ」の前半の二連。

誰かがピアノを弾いている
塀はどこまでもつづいていて
道には人影ひとつない

誰かがピアノを弾いている
窓はわずかにひらかれていて
枯れかけた花の匂いがする

 ピアノは音、音楽。ここから始まって、二連目の最後で「花の匂い」という音楽とは関係のないもの、異質なものが出てくる。「花の匂い」は「花」と「匂い」にわけることができるが、重きが置かれているのは「匂い」だろう。
 聴覚が嗅覚を目覚めさせたのか。
 この「匂い」という「音」ではないものがあらわれたのは、どうしてなのか。
 「音ではないもの」とは「音とは名づけられないもの」、つまり「沈黙」ではないのか。
 だが「沈黙」と名づけてはいけない。「沈黙」と名づけてしまうと、それは「沈黙」が出現してしまう。しかし、「沈黙」とはほんらい「音が存在しない」ということ、そこには何の「あらわれ(出現)」もないはずだ。
 だから「沈黙」とは名づけない。
 「沈黙」と名づけないことによって、「ことば以前の沈黙」になる。
 そういう「ことばの運動」が「匂い」ということばに託されている。
 「沈黙」なのだけれど、「沈黙」と名づけずに、「匂い」と名づける。「音」に関係することばを否定する。拒絶する。「意味」をなくしてしまう。
 この「無意味化」をナンセンスと呼べば、「きいている」の「ねこのひげの さきっちょ」「きみのおへその おく」と同じもの(似通ったもの)になる。

 「スキャットまで」では「黙っているのは龍安寺の石庭」と「黙っている=沈黙」が出てきた。それと対比するとわかるのだが、この「ピアノ」では、「沈黙」の別の書き方がしめされている。「沈黙」ということばをつかわずに、新しいことばで「沈黙」を谷川は書こうとしている。

 「沈黙」とは名づけていないが、「沈黙」と同じもの。それが存在することによって「ピアノ」は「音楽」になる。音が旋律をもち、リズムをもてば、それが「音楽」になるわけではない。「沈黙」と向き合っていないといけない。「沈黙」を無意識のうちに出現させてしまうのが「音楽」なのだ。

 ここから私はまた別のことを考えた。
 この詩には「私」という「主語」は明示されていない。ここにいる人で明示されている(ことばになっている)のは「誰か」だけである。「人影ひとつない」と「ひと」の存在は否定されている。けれど「誰かがピアノを弾いている」ということを認識するひとがいる。「私」が隠れている。
 「私」と「誰か」。これは「音楽」と「沈黙」の関係に比べると、なんとなく不安定に感じる。落ち着かない。
 そう思ったとき、ふと「花」は「あなた」なのではないか、という気がしてきた。
 「私」は「あなた」という人間と向き合うことで「私」になり、「あなた」は「私」と向き合うことで「あなた」になる。「対」によって世界がしっかりと固まる。
 そういう存在を無意識に求めるこころがあって、「花」を引き寄せたのだ。
 「花」がピアノを弾くわけではない。しかし、音楽が「匂い」という「沈黙以前の沈黙」といっしょに動いているとき、「誰か」は「花」をとおって「あなた」として存在している。「私(谷川)」にとって、確かな存在になっている。
 そう感じさせる。

 では、なぜ「枯れかけた」という否定的なニュアンスのことばが「花」を修飾するかたちでそこに動いているのか。
 これは「聞こえてくる」音楽の種類(ニュアンス)を伝えるためである。予告する形で、二連目にあらわれているといえる。
 三、四連目は、こうつづいていく。

誰かがピアノを弾いている
一年が過ぎ 従妹は嫁ぎ
十年が過ぎ 都市は燃え
百年が過ぎ 国は興り--

誰かがピアノを弾いている
その部屋で鏡はまぶしく輝いて
戸口に倒れた一人の兵士をうつしている
そのむこう真昼の海をうつしている

 ここには「存在しないもの」が視覚化されている。そこにたどりつくために「枯れかけた」ということばがあった。「あなた(誰か)」にとっての「あなた」は「私(谷川)」ではなく、「一人の兵士」である。そこまで書くと、「音楽」ではなく「ドラマ」になってしまう。だからこれ以上書かない。
 この詩は「花の匂い」を「ピアノ(音楽)」と向き合わせたところで、「音楽」そのものになっている。あとは「音楽の内容(意味=ドラマ)」になる。「意味」があるところでは「沈黙」が消えると思う。



*


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目次

瀬尾育生「ベテルにて」2  閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12  谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21  井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32  伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42  喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55  壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62  福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74  池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84  植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94  岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105  藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116  宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
森口みや「余暇」129
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嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977



問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

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