河邉由紀恵「島」(「どぅるかまら」23、2018年01月10日発行)
河邉由紀恵「島」の一連目。
二行目の「のびて」は何だろう。野草のいのちの強さ、暴力のようなものを、「のびる」という動詞を強調することであらわしているのか。「あめりか朝顔がのびてのびて」と一行で書いてしまうときと、どう違うのだろう。「のびてのびて」の方が音が一気に動き、そこからリズムが生まれても来ると思うが、どうだろう。「のびて/のびて」では、間合いが生まれてしまう。リズムとして弱くないか。この一種の「分断」が様々な野草の名前を引き出すとも言えるのだが。
私は、この二行目の「のびて」、一行として独立した「のびて」につまずいた。
「のびて」は「からみあい」と方向を変えている。「のびて」「からみあう」ということだが、「しらみあう」には「のびる」のような「まっすぐ」というか「方向性」がない。「抑圧されている」という感じがどこかにある。「のびたい」けれど「からみあい」「のびることができない」。それが「ぐじぐじぐじ」だろう。「ぐじぐじぐじ」は「のびることができない」という動詞として言いなおすことができると思う。
「からみあい」、その「からみあい」の内部に何かを抱え込む。「ぐじぐじぐじ」を抱え込むのかもしれない。隣家は絡み合った草におおわれ、「島」のように見える。
視点が野草から「隣家」へ移動している。「からみあい」が抱え込む「内部」からを、「なかから」と言いなおすとき、「ぐじぐじぐじ」は「隣家の内部」をあらわすことになる。「ぐじぐじぐじ」は「じくじくじく」に通じるもの、「陰湿」な響きをもっている。それが「のぞく」という動詞に結びついている。
「見ている」(私)と「のぞいている」(隣家)が対比されているが、これは「主観」の違い。「隣家」からすれば、のぞいているのは「私(河邉)」かもしれない。
まあ、これは、問わないことにする。
最終連。
「陰湿な内面(内部)」は「うらがわ」と言いなおされている。現実には、雨は「表」を濡らし、それが「裏側(内部)」までしみていくのだが、内部までしみてしまうと水の行き場はなくて、内部を満たし始める。内部に「水分」がたまりはじめる。それを「ぬれて」と言い直している。「内部に水がたまる」感じを「ふくらむ」と言いなおしている。「内部」から「ふくらみ」、それが「外部」にまで拡大する。「内部」がふくらめば「外部」もふくらむ。
これを河邉は「這いはじめる」と言いなおす。「這う」という動詞でとらえなおす。「隣家(島)」は動かないはずのものである。それが「這う」ようにして動いてくる。近づいてくる。
この「這う」こそが、一連目二行目の「のびて」だったのだ。
野草は無軌道に「のびて」いるのではなかった。垂直の方向にだけのびていくのでもなかった。それは、一連目を書いたときは明確に認識できなかったけれど、「私(河邉)」の方へも「のびて」きている。「方向」を特定していないが、何かまだことばとして「特定」できないものを先取りする形で二行目の「のびて」は動いているのだろう。
「のびて」は基本的には「のびて/いく」であるけれど、それは「のびて/くる」にかわるものでもある。「方向」は自在だ。方向が隠されていた、隠れた方向があったから、私はつまずいたのだと気づく。また隠されていたものが最後になって具体的なものとして噴出してきたからこそ、それが不気味な「現実(リアリティー)」になるのだとも思った。
自分の方へ動いてくる(のびてくる)から、不気味なのだ。
河邉の詩のことばは、何度も何度も別なことばで言いなおされながら、ことばの「内部」を深めていく。そういう特質がこの作品でもしっかりと動いている。
*
「詩はどこにあるか」1月の詩の批評を一冊にまとめました。
詩はどこにあるか1月号注文
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目次
瀬尾育生「ベテルにて」2 閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12 谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21 井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32 伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42 喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55 壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62 福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74 池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84 植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94 岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105 藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116 宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
森口みや「余暇」129
オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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なお、他の本(「詩はどこにあるか」11月号、12月号)も発売中です。
問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
河邉由紀恵「島」の一連目。
あめりか朝顔がのびて
のびて
南の窓を軒を
屋根をひろくおおい
うら庭では
キヅタやヘデラや
ヤブガラシが壁にはりついて
戸をふさぎ
野いばらやサンザシが繁っている
二行目の「のびて」は何だろう。野草のいのちの強さ、暴力のようなものを、「のびる」という動詞を強調することであらわしているのか。「あめりか朝顔がのびてのびて」と一行で書いてしまうときと、どう違うのだろう。「のびてのびて」の方が音が一気に動き、そこからリズムが生まれても来ると思うが、どうだろう。「のびて/のびて」では、間合いが生まれてしまう。リズムとして弱くないか。この一種の「分断」が様々な野草の名前を引き出すとも言えるのだが。
私は、この二行目の「のびて」、一行として独立した「のびて」につまずいた。
ぼんやりした葉むらや
ばかげた枝や草むらが
ぐじぐじぐじとからみあい
隣の空家は すでに
ひとつの島になっている
「のびて」は「からみあい」と方向を変えている。「のびて」「からみあう」ということだが、「しらみあう」には「のびる」のような「まっすぐ」というか「方向性」がない。「抑圧されている」という感じがどこかにある。「のびたい」けれど「からみあい」「のびることができない」。それが「ぐじぐじぐじ」だろう。「ぐじぐじぐじ」は「のびることができない」という動詞として言いなおすことができると思う。
「からみあい」、その「からみあい」の内部に何かを抱え込む。「ぐじぐじぐじ」を抱え込むのかもしれない。隣家は絡み合った草におおわれ、「島」のように見える。
なかがどうなっているのか
だれが住んでいるのか
わからないが
島を見ていると
なかから
こちらの方を
ぢいっと のぞいている
視点が野草から「隣家」へ移動している。「からみあい」が抱え込む「内部」からを、「なかから」と言いなおすとき、「ぐじぐじぐじ」は「隣家の内部」をあらわすことになる。「ぐじぐじぐじ」は「じくじくじく」に通じるもの、「陰湿」な響きをもっている。それが「のぞく」という動詞に結びついている。
「見ている」(私)と「のぞいている」(隣家)が対比されているが、これは「主観」の違い。「隣家」からすれば、のぞいているのは「私(河邉)」かもしれない。
まあ、これは、問わないことにする。
最終連。
びたりびたり
なが雨が降り
島はうらがわから
ぬれて すこしずつ
黒くふくらんで
ゆっくりと
這いはじめる
「陰湿な内面(内部)」は「うらがわ」と言いなおされている。現実には、雨は「表」を濡らし、それが「裏側(内部)」までしみていくのだが、内部までしみてしまうと水の行き場はなくて、内部を満たし始める。内部に「水分」がたまりはじめる。それを「ぬれて」と言い直している。「内部に水がたまる」感じを「ふくらむ」と言いなおしている。「内部」から「ふくらみ」、それが「外部」にまで拡大する。「内部」がふくらめば「外部」もふくらむ。
これを河邉は「這いはじめる」と言いなおす。「這う」という動詞でとらえなおす。「隣家(島)」は動かないはずのものである。それが「這う」ようにして動いてくる。近づいてくる。
この「這う」こそが、一連目二行目の「のびて」だったのだ。
野草は無軌道に「のびて」いるのではなかった。垂直の方向にだけのびていくのでもなかった。それは、一連目を書いたときは明確に認識できなかったけれど、「私(河邉)」の方へも「のびて」きている。「方向」を特定していないが、何かまだことばとして「特定」できないものを先取りする形で二行目の「のびて」は動いているのだろう。
「のびて」は基本的には「のびて/いく」であるけれど、それは「のびて/くる」にかわるものでもある。「方向」は自在だ。方向が隠されていた、隠れた方向があったから、私はつまずいたのだと気づく。また隠されていたものが最後になって具体的なものとして噴出してきたからこそ、それが不気味な「現実(リアリティー)」になるのだとも思った。
自分の方へ動いてくる(のびてくる)から、不気味なのだ。
河邉の詩のことばは、何度も何度も別なことばで言いなおされながら、ことばの「内部」を深めていく。そういう特質がこの作品でもしっかりと動いている。
*
「詩はどこにあるか」1月の詩の批評を一冊にまとめました。
詩はどこにあるか1月号注文
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ここをクリックして1750円の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。
目次
瀬尾育生「ベテルにて」2 閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12 谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21 井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32 伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42 喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55 壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62 福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74 池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84 植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94 岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105 藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116 宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
森口みや「余暇」129
オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
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以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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なお、他の本(「詩はどこにあるか」11月号、12月号)も発売中です。
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