詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

フェルナンド・レオン・デ・アラノア監督「ロープ 戦場の生命線」(★★★★★)

2018-02-18 20:54:06 | 映画
フェルナンド・レオン・デ・アラノア監督「ロープ 戦場の生命線」(★★★★★)

監督 フェルナンド・レオン・デ・アラノア 出演 ベニチオ・デル・トロ、ティム・ロビンス、オルガ・キュリレンコ、メラニー・ティエリー、フェジャ・ストゥカン

 おもしろいなあ。大好きだなあ。こういう作品。「戦場」なのに戦争ではなく「日常」が描かれている。どこにでも「日常」がある。でも、それはよく見ると「日常」ではなく、やっぱり「戦場(戦争)」。
 区別がつかない。
 井戸に投げ込まれた死体をひきあげる。でもロープが切れてしまう。そのロープを求めて右往左往する。店にはたくさんロープがあるが売れないという。旗を掲げているポールのロープがある。「売ってくれ」「旗を降ろせば戦争だから殺される」。ロープなら家にある、という少年といっしょに家に行ってみれば、ロープは確かにあるが、猛犬をつないでいる。奪えない。思いがけずロープを手に入れて井戸へ引き返してみると、死体をひきあげるためについた嘘が邪魔をしてひきあげ作業は中断してしまう。
 うーん。
 これは、喜劇か?
 いや、「日常」というものは、そういうものなんだろうなあ。
 では、こういうとき、映画の何を見る?
 役者ですね。役者の「肉体」。顔。表情。目つきや、口の動き。さらには、ベニチオ・デル・トロもティム・ロビンスも、太ってしまって、完全に「おじさんだなあ」とか。
 完全に「おじさん」になっているにもかかわらず、あらまあ、もてるんだわ。これが。で、そのもてぶりを見ながら、どうすればもてるようになるかなあ、なんていうことを考える。あの目つき? それとも冷淡ふうなあしらい? 困惑?
 これは自分の「日常」を考えるということだね。
 映画って、これにつきる。
 映画で見ることというのは、自分では体験できないこと。見たことがないものを見ること。でも、その見たことがないものを見ながら、自分の「日常」にひきつけて、あれこれ思う。
 このあれこれなんて、ことばにするのは面倒くさい。ことばにしないまま、あ、そうか、と思うだけなんだけれど。
 たとえば、ティム・ロビンスとメラニー・ティエリーが乗った車が牛の死骸と出くわす。車は右か左か、どちらかを通らないといけない。地雷が埋めてあるのは、どっち? わからない。で、ティム・ロビンスは牛を避けるのではなく、牛を乗り越えていくことにする。そのあと、メラニー・ティエリーが猛烈に怒る。これは、どうして? 安全かどうかわからない行動にメラニー・ティエリーをまきこんだから? それとも死んでいるとはいえ、牛をもう一度ひき殺すという野蛮が許せないから? 「答え」は観客にまかされている。
 これが「しょっぱな」だから、あとはその連続。
 これは、どうして? このときベニチオ・デル・トロ、ティム・ロビンスは、何を思っている? そのこと行動は、ほんとうにそうしたいから? それとも仕方がないから? それで、その正解は?
 わからないね。
 わからなくてもつづいていくのが「日常」。
 ベニチオ・デル・トロとオルガ・キュリレンコが「痴話喧嘩」をして、「財布を見たのか」「パスポートを探しただけよ」というのを、別の車の中で聞いていて(大声だから聞こえてくる)、話をふられたときに「財布を見たのか」「パスポートを探しただけ」と繰り返すところなんか傑作だなあ。
 「仲間うち」のなれあいというか、どうしようもできない「信頼感」のようなものが、そこからぱっと噴き出る。「秘密」なんて、ない。それが「戦場」であり、それが「日常」。みんな知っているからこそ、助け合える。
 最後の「雨さえ降らなければ、最高の日(パーフェクトデイ)」と言ったとたんに雨が降り始める。でも、それは「最高の日」を望む人にとって「最低の日」になるのだけれど、一方で、知らない力が働いて、あれほど苦労したのにひきあげられなかった死体が、井戸に流れ込んだ雨のために浮かんでくるというオチなんかが、とってもいい。
 
 それにしてもね。

 あんな山の中。そんなところで戦争してどうなるんだろう。その土地を奪う、あるいはそこに暮らしている人を殺して、世界がどう変わるんだろう。戦争というのは、いったいなんなのだろうなあ、と素朴な疑問も持つのである。
 そういう素朴な疑問を、素朴にもつための映画かもしれない。
   (2018年02月18日、ユナイテッドシネマキャナルシティ、スクリーン9)



 *

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佐伯裕子の短歌

2018-02-18 12:26:37 | 詩(雑誌・同人誌)
佐伯裕子の短歌(2018年02月17日のフェイスブックから)

 2018年02月17日のフェイスブックの鈴木茂雄のページに、次の短歌が紹介されている。

一面に花ひるがえりめぐりくる春を異性の息と思いぬ  佐伯裕子

 これを、どう読むか。(どう評価するか。)
 私は、つまずいた。
 で、そういうことを書いたところ、私と鈴木茂雄、Fuuka Nishimura のあいだで、以下のようにやりとりがつづいた。
 私はいつも、独りよがりで感想を書いている。こういうやりとりはおもしろかったので、許可を得て、ブログに転写することにした。名前は長いので鈴木、Fuuka 、谷内という形に省略した。(Fuuka の発言には「絵文字」があるのだが、ブログでは表記できないので「絵文字あり」とした。)



〈谷内〉「異性の」と、いうのか。
ちょっと突き放した(客観的?)な感覚を新しいと思うか、奇をてらっていると思うか。「新感覚派」の文体とおなじように、流行し、なじんでいくものなのか。
〈鈴木〉春の息吹を「異性の息」と捉えたもの。短歌のような短詩型は比喩の出来不出来は作品の命。短い言葉で何を表現するかというより、如何に表現するかに腐心します。そこが現代詩と違うところだと思います。
〈谷内〉ふつうは「異性」といわず、男なら「女性の」、女なら「男性の」というのでは? 私は「異性」ということばは、男女がいっしょにいて、その「両性」を対象とするときにしかでてこないことばのように思っていたので、とてもびっくりした。私がこの歌を書いたとしたら、
  一面に花ひるがえりめぐりくる春をおんなの息と思いぬ
になると思う。多くの男は、そう書くのでは? 「異性の」と書くときは、かなり気取らないと書けない。
〈鈴木〉男ならそう書くかもしれませんが、作者は女性。あからさまに「男」と書かず、春の息吹を男の息と捉え、喩えて「異性の息」としたものだと思います。「春を男の息と思いぬ」と。女が女の息を感じる?
〈谷内〉いや、むずかしいですね。たとえば与謝野晶子なら「おとこの息」とは書かなくても、「おとこの足」とか、もっと「肉体的」に書いたかも。「異性」ということばには「性」の文字があるけれど、「性」はふつうは文字にならないように私は感じる。「性」をはぎとって「肉」になるとき、ぐいと迫ってくる。「おとこの息」と書かない(あるいは書けない)ところに、文学の「男女差別」が残っているのを感じる。
 「異性の息」で佐伯さんが「男性の息」を意味していることはよくわかるけれど、短歌(俳句、詩、文学)って意味ではなく、ことばを読んだときに感じる「力」のことだと思う。「異性の息」では「意味」を考えてしまう。考えると、ことばの「力」は9 割以上消えてしまう。
〈鈴木〉なるほど、「異性の息では意味を感じる」そうですか。わたしは具体的に「男の息」と言われるとストレートに意味を感じて、想像の余地がなくなってしまいます。それと、短歌的表現、俳句的表現、というのは、明らかにあると感じます。「文学の男女差別が残っている」のご指摘はわかります。
〈Fuuka 〉は~ァ …矢張りこんなんでも…受け入れないと、いけないのでしょうか。益々遠い世界に「絵文字あり」
〈Fuuka 〉谷内修三さま
門外漢の私が申しあげるのも、どうかと思いますが、私は谷内さまの〈おんなの息と思いぬ〉の方が断然良いと思います。
特にこの歌に関しては。春、花、と来れば…「絵文字あり」作者が女性なので、難しいところですね。
〈鈴木〉春の息吹に男(異性=自分と違う性)の息を感じたと言っていると思うのですが、Nishimura さんは、春の息吹に「同性の息」を感じるんですか?
〈谷内〉一面に花ひるがえりめぐりくる春は声変わりする少年の息
「息」と女性にとっての「異性」を意識するなら。つまり私が女性なら、たとえば、そんなふうに詠むかも。
「異性」をどうことばにするか。「異性」が「異性」のままの、抽象的(客観的?)に出てきたところに、私はびっくりする。私の方が、感覚的に古いのだと思うけれど。
で、「新感覚派」ということばも書いたのだけれど。
〈鈴木〉「異性」をどうことばにするか、それはまたむずかしい修辞的な問題ですが、上掲の歌は、わたし(作者)と違う性の対象を「男」とも「彼」とも言わず「異性」と表現したことが、作者の個性だと思います。皆が皆「男性の」と言うので類想になる、作者もそう思って類想を避けたのでは、と思いたい。小説なら「男性」でいいのでしょうが、、、
〈Fuuka 〉鈴木さま
私は単純にこの歌の文字「春」「花」と出てきたので谷内さまがコメントされた「おんなの息」の方がぴったり合う。と思ったまで。「作者が女性なので、難しいところ」と書きましたでしょ? あのコメントは谷内氏(男性)に対して申したまでです。深い意味はございません。
〈谷内〉私はひとりで感想を書いていて、他人と意見交換をすることがない。で、きょうのやりとりがとても楽しかった。fuuka さんの発言を含めて、ブログに再掲していいいですか?
〈谷内〉鈴木さんは、句を読むとき、句の世界を読む。私は句の世界(意味)ではなく、詠んだひとに関心がある。読んだとき、そこから魅力的な女性が見えるか。あ、この女性、好きになれるか、とか。与謝野晶子だと、短歌を読んだとき、自信満々の若い女性が見える。肌が白くて、ぴちぴち。乳房もつんとみなぎっている。で、スケベ根性丸出しで、いいなあと思う。短歌を超えて、与謝野晶子を好きになる。
 そういうところが、もしかすると、鈴木さんと私の「読み方」の違いかも。
〈鈴木〉わたしは「句を読むとき、句の世界を読む。」。よく読んで下さっていますね、ありがとうございます。再掲の件、もちろんOKです。発言に言葉足らずなところが気になりますが、、、
〈Fuuka 〉どうぞどうぞ。私はいつも、本音で話す上に、特にこの様に短く書く場合、言葉足らずになり、時々誤解される場合があります。宜しくお願い致します。



 ここに、私の感想を書き加えると「後出しジャンケン」のようになってしまうが、その「後出しジャンケン」を書きたくて書いているのだから、鈴木とFuuka には許してもらうしかない。このブログは書き込むとフェイスブックとツイッターに連動してリンクがはられるので、二人からの反論は、フェイスブックか、このブログのコメント欄でしてもらうことにして、私の思ったことを追加しておく。

一面に花ひるがえりめぐりくる春を異性の息と思いぬ  佐伯裕子

 この短歌の「異性の息」を「男性の息」という意味にとらえている点では三人の「理解(解釈)」は一致していると思う。
 「男性の息」ととらえた上で、私は、それを「異性の息」と言い変えることに違和感を覚えた。「男性の息(男の息)」だとあからさますぎるということなのかもしれないが、どうして佐伯が「異性の」ということばを選んだのか、非常に疑問に思った。
 作者が女性の場合、「異性」は男になる。作者が男性の場合、「異性」は女になる。だから、私がもしこの短歌を詠んだのだとしたら「おんなの息」と書くだろうなあと思った。
 鈴木は逆に「男の息」だと「類型」(既成の表現?)であり、おもしろくない。「異性の息」という表現に「個性」を感じている。
 Fuuka は「おんなの息」の方が短歌として自然だろうと言っている。「春、花、と来れば…」と書いているのは、「春、花」が「おんな」となじみやすいことば(イメージ)だと理解してのことだと思う。

 鈴木はFuuka に対しては、「春の息吹に「同性の息」を感じるんですか?」と質問しているけれど、これは作者が「女性」であることにこだわっての発言のように思える。また、Fuuka が春の息吹を「同性の息」と感じると主張していると、踏み込んで解釈しているように思う。
 Fuuka はあくまで、「春、花」という連想でことばを動かせば「女性(おんな)」の方がイメージがまとまりやすいと言っているのだと思う。だれがつくったか、作者が男性か、女性かを考慮せずに、ことばの運動としてとらえている。あることばのまわりにあることば、それが「異性の息」ということばの「異性」とどうつながっているか。「文学の歴史(既成のイメージ)」との関係を言っているのだと思う。
 鈴木は、そういう「既成のイメージ」とは関係なく、純粋に佐伯の短歌に向き合っている。あるいは、そういう「既成のイメージ」のことばの運動を破る新しさ、「個性」を感じ取って作品と向き合っている。そして、そこに書かれている「意味」を中心に短歌世界を見ている。「論理」として短歌内で完結している。

 うーん。

 実は、私はこのことに、とても驚いた。
 私は感想を書くとき、テキスト(ことば)を中心に、そのことばがどのことばと関係しているか、他のことばをどう動かしているかを中心に読み進むけれど。
 私は読み進みながら、テキストを逸脱していく。書いた人間、その「肉体」の方に引き込まれていく。
 与謝野晶子の例を書いたが、私は与謝野晶子の「乱れ髪」を読むとき、その短歌の「内容」に引き込まれると同時に、「内容」を忘れてしまう。引き込まれすぎて、与謝野晶子の「肉体」を思い描いてしまう。若い女性。美人。(実際に美人であるかどうか知らないが、歌からは美人を思い描いてしまう)。真っ黒な神。はち切れる乳房。触れると鼓動が伝わってくる肌。「歌」が好きなのか、妄想で描いている「女の肉体」が好きなのか、区別がつかない。きっと、妄想の「女体」の方が短歌よりも好きなのだろう。
 で、また、「肉体派」の与謝野晶子なったつもりで、もし私が与謝野晶子なら。

一面に花ひるがえりめぐりくる春は私の吐きだす燃える息

 のようになるかもしれないと思ったりする。私のことばは不十分だが、与謝野晶子なら、自分自身の「春の肉体」、力みなぎる血潮で春を圧倒していくだろうなあとも思う。
 私は「短歌の内容(意味)」ではなく、短歌をつくったひとに会いたいのだ。会っていると妄想したいのだ。きっと。
 私は「思想」とか「精神」とか、そういう「抽象的」なのものを考えるのが苦手だ。「肉体」なら、それが妄想であっても、私の知っているもの。「手触り」「手応え」「安心感」のようなものがある。それを、どうしても追い求めてしまう。その人といっしょに痛いと思うかどうかを考えてしまう。その人が何を見ているか、何を聞いているか、その何かが見えるか、聞こえるかということよりも、その人の「肉体」になって、何かを見る、何かを聞く、ということに昂奮する。何が見え、何が聞こえてもかまわない。その「肉体」と同化できるかどうかが重要だ。
 別なことばで言うと、何を見ているか、何を聞いているかは「頭」で言いなおすことができる。
 「異性の息=男の息」というのは「頭」では理解できる。
 でも、私は「頭」で理解したくない。そういう面倒くさいことはいや。それだけではなく、「頭」で理解すると、自分の「肉体」が否定されたような気がする。それがいやなのだ。

 で。
 ここからもう一歩、「頭」の「整理」をしてみる。

一面に花ひるがえりめぐりくる春を異性の息と思いぬ

 このときの「異性」を、私は(そして、鈴木もFuuka も)、無意識の内に「男性」と理解している。作者が女性だからである。
 でも「女性」にとっての「異性」は「男性」なのか。
 生物学的(?)には確かにそうなのだろうけれど、人がだれかを恋する、愛するというときは、「異性」の「異」は「反対」を意味しないかもしれない。
 「同性愛」ということばがある一方、「異性愛」ということばもあるようだ。この時の「同」「異」は、「生物学」の分類からは明確である。客観的である。けれど、恋愛の当事者にとってはどうなのだろう。「異なっている」から愛するのか。「同じ」だから愛するのか。
 「食べ物の好みも、ほかの好みもみんな同じ。だから好き(愛している、いっしょにいて安心)」という人もいれば、「なにもかも違うから、刺激的で楽しい」という人もいる。「同じところ」を愛するのか、「異なるところ」を愛するのか、「同じだから」愛するのか、「異なるから」愛するのか。
 「同じ」と「異なる」の判断はむずかしい。
 佐伯の歌の「異性」を、私は簡単に「男性」と解釈してしまったが、佐伯にとっての「異性」が「心情的」にも「生物学上の男性」を指すかどうかは、簡単に言いきることはできない。
 佐伯ではなくて、だれか別の女性が、女性に恋をしていて、春の息吹に恋している女性の息を感じ取って歌にしたとき、こういう歌が生まれるかもしれない。
 そういうことも考えてみてもいいかもしれない。
 そういうとき、「頭」は、どんなことばを選ぶだろうか、と。
 ひとがひとを愛するとき、ひとは相手を自分とは異なった人間と認識して愛している。相手は、それがだれであれいつでも「異性」であり、またいつでも「同性」であると言うことができるかもしれない。
 「頭」は、どんな「論理(あるいは意味)」でもつくりだしてしまう。自分の都合のいいように「論理」をつくるものが「頭」なのだ。
 「性」は「(性)別」であると同時に「(性)質」でもある。「性別」の基準は「生物学」によって簡単設定できるが、「性質」になると基準はさまざま。
 「同」も「異」も、ことばを動かすときの基準にすぎない。どこに基準を置くかで、どういう基準にするか(物差しにするか)で、「世界の見え方」が変わってしまう。そういう「変化」を自分のつごうにあわせてつくりだそうとするものが「頭」なのだ。

 脱線しすぎた、「後出しジャンケン」にさらに「後出しジャンケン」をつけくわえたかもしれないが、いろんな方向にことばを動かしてみることができた。
 こういう機会がまたあればいいなあ、と思う。

 みなさん、ブログやフェイスブックにコメントを書いてください。
 いろいろなことを語り合いたい。





*


「詩はどこにあるか」1月の詩の批評を一冊にまとめました。

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目次

瀬尾育生「ベテルにて」2  閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12  谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21  井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32  伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42  喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55  壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62  福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74  池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84  植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94  岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105  藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116  宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
森口みや「余暇」129
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