フェルナンド・レオン・デ・アラノア監督「ロープ 戦場の生命線」(★★★★★)
監督 フェルナンド・レオン・デ・アラノア 出演 ベニチオ・デル・トロ、ティム・ロビンス、オルガ・キュリレンコ、メラニー・ティエリー、フェジャ・ストゥカン
おもしろいなあ。大好きだなあ。こういう作品。「戦場」なのに戦争ではなく「日常」が描かれている。どこにでも「日常」がある。でも、それはよく見ると「日常」ではなく、やっぱり「戦場(戦争)」。
区別がつかない。
井戸に投げ込まれた死体をひきあげる。でもロープが切れてしまう。そのロープを求めて右往左往する。店にはたくさんロープがあるが売れないという。旗を掲げているポールのロープがある。「売ってくれ」「旗を降ろせば戦争だから殺される」。ロープなら家にある、という少年といっしょに家に行ってみれば、ロープは確かにあるが、猛犬をつないでいる。奪えない。思いがけずロープを手に入れて井戸へ引き返してみると、死体をひきあげるためについた嘘が邪魔をしてひきあげ作業は中断してしまう。
うーん。
これは、喜劇か?
いや、「日常」というものは、そういうものなんだろうなあ。
では、こういうとき、映画の何を見る?
役者ですね。役者の「肉体」。顔。表情。目つきや、口の動き。さらには、ベニチオ・デル・トロもティム・ロビンスも、太ってしまって、完全に「おじさんだなあ」とか。
完全に「おじさん」になっているにもかかわらず、あらまあ、もてるんだわ。これが。で、そのもてぶりを見ながら、どうすればもてるようになるかなあ、なんていうことを考える。あの目つき? それとも冷淡ふうなあしらい? 困惑?
これは自分の「日常」を考えるということだね。
映画って、これにつきる。
映画で見ることというのは、自分では体験できないこと。見たことがないものを見ること。でも、その見たことがないものを見ながら、自分の「日常」にひきつけて、あれこれ思う。
このあれこれなんて、ことばにするのは面倒くさい。ことばにしないまま、あ、そうか、と思うだけなんだけれど。
たとえば、ティム・ロビンスとメラニー・ティエリーが乗った車が牛の死骸と出くわす。車は右か左か、どちらかを通らないといけない。地雷が埋めてあるのは、どっち? わからない。で、ティム・ロビンスは牛を避けるのではなく、牛を乗り越えていくことにする。そのあと、メラニー・ティエリーが猛烈に怒る。これは、どうして? 安全かどうかわからない行動にメラニー・ティエリーをまきこんだから? それとも死んでいるとはいえ、牛をもう一度ひき殺すという野蛮が許せないから? 「答え」は観客にまかされている。
これが「しょっぱな」だから、あとはその連続。
これは、どうして? このときベニチオ・デル・トロ、ティム・ロビンスは、何を思っている? そのこと行動は、ほんとうにそうしたいから? それとも仕方がないから? それで、その正解は?
わからないね。
わからなくてもつづいていくのが「日常」。
ベニチオ・デル・トロとオルガ・キュリレンコが「痴話喧嘩」をして、「財布を見たのか」「パスポートを探しただけよ」というのを、別の車の中で聞いていて(大声だから聞こえてくる)、話をふられたときに「財布を見たのか」「パスポートを探しただけ」と繰り返すところなんか傑作だなあ。
「仲間うち」のなれあいというか、どうしようもできない「信頼感」のようなものが、そこからぱっと噴き出る。「秘密」なんて、ない。それが「戦場」であり、それが「日常」。みんな知っているからこそ、助け合える。
最後の「雨さえ降らなければ、最高の日(パーフェクトデイ)」と言ったとたんに雨が降り始める。でも、それは「最高の日」を望む人にとって「最低の日」になるのだけれど、一方で、知らない力が働いて、あれほど苦労したのにひきあげられなかった死体が、井戸に流れ込んだ雨のために浮かんでくるというオチなんかが、とってもいい。
それにしてもね。
あんな山の中。そんなところで戦争してどうなるんだろう。その土地を奪う、あるいはそこに暮らしている人を殺して、世界がどう変わるんだろう。戦争というのは、いったいなんなのだろうなあ、と素朴な疑問も持つのである。
そういう素朴な疑問を、素朴にもつための映画かもしれない。
(2018年02月18日、ユナイテッドシネマキャナルシティ、スクリーン9)
*
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監督 フェルナンド・レオン・デ・アラノア 出演 ベニチオ・デル・トロ、ティム・ロビンス、オルガ・キュリレンコ、メラニー・ティエリー、フェジャ・ストゥカン
おもしろいなあ。大好きだなあ。こういう作品。「戦場」なのに戦争ではなく「日常」が描かれている。どこにでも「日常」がある。でも、それはよく見ると「日常」ではなく、やっぱり「戦場(戦争)」。
区別がつかない。
井戸に投げ込まれた死体をひきあげる。でもロープが切れてしまう。そのロープを求めて右往左往する。店にはたくさんロープがあるが売れないという。旗を掲げているポールのロープがある。「売ってくれ」「旗を降ろせば戦争だから殺される」。ロープなら家にある、という少年といっしょに家に行ってみれば、ロープは確かにあるが、猛犬をつないでいる。奪えない。思いがけずロープを手に入れて井戸へ引き返してみると、死体をひきあげるためについた嘘が邪魔をしてひきあげ作業は中断してしまう。
うーん。
これは、喜劇か?
いや、「日常」というものは、そういうものなんだろうなあ。
では、こういうとき、映画の何を見る?
役者ですね。役者の「肉体」。顔。表情。目つきや、口の動き。さらには、ベニチオ・デル・トロもティム・ロビンスも、太ってしまって、完全に「おじさんだなあ」とか。
完全に「おじさん」になっているにもかかわらず、あらまあ、もてるんだわ。これが。で、そのもてぶりを見ながら、どうすればもてるようになるかなあ、なんていうことを考える。あの目つき? それとも冷淡ふうなあしらい? 困惑?
これは自分の「日常」を考えるということだね。
映画って、これにつきる。
映画で見ることというのは、自分では体験できないこと。見たことがないものを見ること。でも、その見たことがないものを見ながら、自分の「日常」にひきつけて、あれこれ思う。
このあれこれなんて、ことばにするのは面倒くさい。ことばにしないまま、あ、そうか、と思うだけなんだけれど。
たとえば、ティム・ロビンスとメラニー・ティエリーが乗った車が牛の死骸と出くわす。車は右か左か、どちらかを通らないといけない。地雷が埋めてあるのは、どっち? わからない。で、ティム・ロビンスは牛を避けるのではなく、牛を乗り越えていくことにする。そのあと、メラニー・ティエリーが猛烈に怒る。これは、どうして? 安全かどうかわからない行動にメラニー・ティエリーをまきこんだから? それとも死んでいるとはいえ、牛をもう一度ひき殺すという野蛮が許せないから? 「答え」は観客にまかされている。
これが「しょっぱな」だから、あとはその連続。
これは、どうして? このときベニチオ・デル・トロ、ティム・ロビンスは、何を思っている? そのこと行動は、ほんとうにそうしたいから? それとも仕方がないから? それで、その正解は?
わからないね。
わからなくてもつづいていくのが「日常」。
ベニチオ・デル・トロとオルガ・キュリレンコが「痴話喧嘩」をして、「財布を見たのか」「パスポートを探しただけよ」というのを、別の車の中で聞いていて(大声だから聞こえてくる)、話をふられたときに「財布を見たのか」「パスポートを探しただけ」と繰り返すところなんか傑作だなあ。
「仲間うち」のなれあいというか、どうしようもできない「信頼感」のようなものが、そこからぱっと噴き出る。「秘密」なんて、ない。それが「戦場」であり、それが「日常」。みんな知っているからこそ、助け合える。
最後の「雨さえ降らなければ、最高の日(パーフェクトデイ)」と言ったとたんに雨が降り始める。でも、それは「最高の日」を望む人にとって「最低の日」になるのだけれど、一方で、知らない力が働いて、あれほど苦労したのにひきあげられなかった死体が、井戸に流れ込んだ雨のために浮かんでくるというオチなんかが、とってもいい。
それにしてもね。
あんな山の中。そんなところで戦争してどうなるんだろう。その土地を奪う、あるいはそこに暮らしている人を殺して、世界がどう変わるんだろう。戦争というのは、いったいなんなのだろうなあ、と素朴な疑問も持つのである。
そういう素朴な疑問を、素朴にもつための映画かもしれない。
(2018年02月18日、ユナイテッドシネマキャナルシティ、スクリーン9)
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