詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

法学館憲法研究所編『日本国憲法の核心』

2018-02-19 11:42:01 | 自民党憲法改正草案を読む
法学館憲法研究所編『日本国憲法の核心』(日本評論社、2017年05月03日発行)
             自民党憲法改正草案を読む/番外178(情報の読み方)

 「憲法」は中学のときに社会科の授業の中で読んだ。それ以来、つい最近まで読んだことはなかった。「法律」に関しては何も読んだことがない。
 これは、しかし、私が不勉強というよりも、当たり前のことなのだと思う。
 憲法も法律も意識しないで生きる。これがふつうの暮らしである。知らなくていいのが憲法と法律だ。
 憲法は「国家権力を縛るもの」。権力と縁のないところで日々の暮らしに悩んでいる人間には何の関係もない。守る必要のないものである。何も知らなくても、弱者(権力者ではない人間)を守ってくれるのが憲法である。
 法律のいちばん身近なものに、交通法規がある。正しくは何というか知らない。私は目が悪くて車の運転をしない。免許も持っていない。知っているのは、青信号を守っていれば私の安全は保障されるということだけである。事故に遭ったら、私に責任があるのではなく、赤信号で進んできた車にある。詳しいことは何も知らなくも、弱者を守ってくれるのが法律である。
 逆に言うと、「力」を行使する立場にないかぎり、憲法とか、法律なんて、ぜんぜん知らなくていいのだ。
 銃刀法なんていうのは、名前は聞くが、ぜんぜん関係ないでしょ? 猟師にでもならないかぎり、知る必要がない。包丁や鋏も凶器になるかもしれないが、「危ないから気をつけなさい」という注意を子供のときに聞くだけで、まあ、関係ないねえ。

 で、何が言いたいかというと。
 私は2016年に、ふと思い立って「自民党の憲法改正草案」を読んでみた。好き勝手に他人の悪口を書きたいから、「表現の自由」がどう書かれているか、気になったのだ。それから夏の参院選。ここで、社会の異常さに気づいた。とても静かなのだ。選挙なのに、だれもがもう結果を知っているという感じ(シナリオが決まっていて、みんな、自分に割り振られた役を演じているという感じ)なのだ。
 これは、おかしい、と思い、急に「政治」について語りたくなった。憲法について語りたくなった。憲法が「私を守ってくる」よりどころではなくなる、と心配になった。
 で。
 これは異常なことだ、と私は思う。
 私は「政治」には何の関心もなかった。学生時代は、いわゆるノンポリだった。だから、何も知らない。その何も知らない人間が、これは危ない。自分で憲法について考え、自分の意見を言わないと、自分を守ることができないという恐怖感を感じるというのは、どうみてもおかしい。
 憲法、法律が、弱い人間を守らない、逆に弱い人間を支配するようになっているのは、絶対におかしい。

 こんな感覚で、少し勉強しようかなと思うと、しかし、すぐにつまずく。
 「憲法学者」がいろんなことを書いている。主張している。それぞれの「論理」はみんな正しい。「完結している」。完結しているから「正しい」としか言いようがない。
 ここはおかしい、と感じても(自分の意見を言ってみても)、通じない。学者は「自分の論理的の正しさ」に引き返していってしまう。「論理の正しさ」から抜け出さない。実際に何か言ってみたわけではないが、読むと、そういうことを感じる。
 これは、なんだか、つらいね。
 頼りにしている人が、頼りにならない。

 でも、そうでもないかもしれないと、この本を読み始めて思った。。

 最初の対談で「日本国憲法の核心をみる」で浦部法穂と森英樹が語り合っている。そのなかで「戦争法案」さなかのシールズと高齢者の「連携」について語っている。森は、高齢者の戦争への不安感を語ったあと、こういう。

 森 これでは死んでも死にきれない。そういう感覚、感性のようなものがあの運動なり反対の声のベースにあるとすれば、それがこまかい理屈を跳ね飛ばして、戦争法と呼ばれた法案の危険性を見事に見抜いていました。(略)
 浦部 そういう感覚、感性は大事にされるべきなのに、政治の世界では「そんな感情論では何も進まない」と言われて、その感覚・感性にどう応えるかという議論はそれ以上には進まないわけです。それは、学問の世界でも同じで、そこに学問の一つの限界があるような気がします。

 この「自覚」があるなら、「論理の正しさ」に引きこもるのではなく、「細かい論理の正しさ」を跳ね飛ばして、いま必要な論理を組み立てなおしてほしいと思う。安倍の改憲に立ち向かうために、「正しさが確立された自分の論理」にこだわるのではなく、もっといま起きていることから論理をつくっていってほしい。どういう論理のつくり方があり、どういうことばの展開の仕方があるか、という「手本」になるようなものを、ぜひ、示してほしいと思う。

 で、その「一例」を実は、私は、この対談で見つけた。あ、これは「つかえる」と思った「論理」に出会った。
 首相の「解散権」に触れた部分である。
 森は、解散権が首相の専決事項であるというのは「異常」だと異議を唱えている。首相が、いつでも自分の都合で解散できるのなら、議員は時間をかけて議論ができない。それをこういうふうにことばにしている。

森 熟議デモクラシーのためにも、任期の間は自分の身分を保証された上で議論ができることを、すくなくとも慣行として確立しておかないと、まともな審議なんてできません。

 これをこのまま「解散権」にぶつけても、きっとはね返されてしまう。
 でも、これを「緊急事態条項」と組み合わせればどうだろうか。
 いま自民党が検討している改憲案の一部に「緊急事態」が先取りされている。「緊急事態」が起きたとき、議員の任期を延期できる(選挙をしないで任期を継続する)という案がある。
 もし、「緊急事態」に議論(議会)が重要だというのなら。
 「緊急事態」ではないいま、平和なのいまこそ、もっと議論を重ねるべきである。結論を急ぐ必要はない。任期を気にしながら議論するのではなく、任期を保障して、任期いっぱい議論する。「会期」も気にしないで、どこまでも議論する。
 自民党の「改憲案」を借りて、「現実」を改良するのである。「現実」がそういうふうに改良されたなら、そういうことが「慣行」になったなら、緊急事態時に議員が任期を継続するということは「必然」として受け入れられるが、そうでないなら、それは「議席を維持するための口実」である、という具合に論を展開できるはずだ。
 ここからさらに、森友学園、加計学園、佐川問題の「議論」を要求していくことができる。国民を不満を吸収する形で何かができる。
 こまない理屈は抜きにして、「どうして議論しないんだ」という不満を集める「論理」がつくれるはずだ。もし議論をしないのなら、「緊急事態の議員の任期延長」も議論をしないための方法、安倍が独裁を強固にするための方法であると国民に知らせることができる。
 一石二鳥の「論理」になるはずだ。

 「集団的自衛権」について語り合っている、次の部分もとても強烈である。

 森 「敵」とされる勢力が日本と戦闘状態になれば、多くの日本人は殺されます。個人の尊重、人間の尊厳という憲法的価値の観点にたてば、その人が殺されたらその人の憲法的価値はそれでもう終わりです。隣人や友人が、まして日本政府が「仕返し」してくれても何の意味もありません。(略)
 浦部 それは私がずっと言っていることで、「攻められたらどうする」というけれども、「攻められたら終わりだよ」と。
 森 終わりだよと、学界の議論としてもはっきり言ったらいい。
 浦部 攻められたら終わりなんだから、「攻められたらどうする」ではなく「攻められないためにどうするか」を考えなければならない。

 「憲法的価値」という「堅苦しい」ことばがある。「個人の尊厳」というようなことばも「省略」して、

殺されたらおしまい。だれが仕返ししてくれても生き返れるわけじゃない。

 こういう「声」を一般の国民の間で出してもらいたいなあ。
 憲法学者としては、いろいろ言い分はあるだろうけれど、そういう細かい「正しさ(論理)」は国民は必要としていない。
 殺されたらおしまい。だれが仕返ししてくれても生き返れない、
 という叫びを「学者」がそばでいっしょに叫んでくれることが大事なのだ。有名な憲法学者が私と同じことを言ってくれている、ということが「力」になる。

 そういうことを思った。
 「殺されたらおしまい。だれが仕返ししてくれても生き返れない」という単純な言い方(私が省略しすぎているかもしれないけれど)で「憲法」を語る学者がいるということを知ることができたのは、とてもうれしかった。


#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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日本国憲法の核心―改憲ではなく、憲法を活かすために
法学館憲法研究所
日本評論社
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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(7)

2018-02-19 09:07:13 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(7)(創元社、2018年02月10日発行)

 「53」には「言葉」と「沈黙」が出てくる。「言葉」は「人間」、「沈黙」は「自然(樹や草)」と言い換えられる。そのとき、「私」と「自然」は対比させられる。「言葉」と「歌」の対比があり、「沈黙」と「答え」の対比があり、「病んでゆく」と「健やか」の対比もある。
 対比の中で、「意味」が動く。

影もない曇った昼に
私は言葉の病んでゆくのを見守っていた
むしろ樹や草たちに私の歌はうたわれ
憧れはいつも地に還った

 二行目の「病んでゆく」「言葉」はだれのことばだろうか。「私の言葉」か「言葉」そのものだろうか。三行目に「私の歌」があるから「私の言葉」と読むことができる。では、このとき「病んでゆく」とはどういうことか。対比されている「歌」と比較すると「歌」ではなくなるということが「病む」になる。この「歌」はしかし「私の歌」と書かれているが、実際には「言葉」にならなかった何かである。「樹や草」は「言葉」はもたないが「うたう」ことができる。「うたわれるもの」が「歌」であり、それには「言葉」がない。「言葉」がないから「病む」ということもなく、「憧れ」のように純粋なまま、「地に還る」。自然にもどる、ということか。
 「言葉が病んでゆく」のを「見守る」。同時に、「言葉にならない歌」を「憧れ」として見ている、ということもできる。「憧れ」は「歌」にある。
 もっと、ほかの読み方もしてみなければならないのかもしれないが、一連目では、ここまで考えた。

始め不気味な沈黙から
私たちは突然饒舌の世界にとびこんでしまう
言葉は人の間で答をもつしかし
人のそとで言葉はいつも病んでゆく

 一連目の「私は言葉の病んでゆくのを見守っていた」はここでは「人のそとで言葉はいつも病んでゆく」と言いなおされている。(補足かもしれない。)この「言葉」を「私の言葉」と仮定して読むと、「人のそとで私の言葉はいつもやんでゆく」ということになる。「そと」で病んでゆくのなら、「うち」ではどうなのか。「うち」ではまだ「病んでいない」。しかし、「私のうち」にあるとき、それは「言葉」と言えるのか。「言葉」はだれかが聞き取ったとき「言葉」になる。「私のうち」にあるときは「言葉」ではない。
 「そと」とは、しかし、簡単に「うち」と対比できない。谷川は「そと」を「うち」と対比してつかっているかどうか、よくわからない。ここでは「うち」ではなく「間」という表現がある。「言葉は人の間で答をもつ」。「うち」ではなく「間」。「間」とは何か。「答をもつ」という言い方の中に手がかりがある。「言葉以前のもの」が「うち」にある。それは「言葉」となって「そと」に出て行く。「そと」に出ていって、「私」と「だれか」の「間」で「言葉」として受け止められる。受け止められたものを「答」という。しかし、「答」になってしまうと、それは「病んでいる」という状態になってしまう。「言葉になる前」の「歌」の「自然」が消えてしまう。失われてしまう。
 二連目の一行目にある「沈黙」とは何を指しているか。どういうことを言い表わしているか。「言葉以前の何か」が動いている場が「沈黙」である。樹や草がうたうような「歌」としての「言葉以前の何か」が動いている場。
 三連目で言いなおしている。

すべてがそこから生まれてきた始めの沈黙の中に
なお健やかな言葉を
私も樹や草のようにもちたいのだが--

 「すべてがそこから生まれてきた」。「そこ」にあるときは「言葉以前」、「そこ」から生まれると「言葉」になる。「沈黙」と呼ばれているが、「そこ」としか言いようのない場。谷川にははっきりと、その「肉体のうち」がわかるけれど、それは「そこ」としか呼べない。だから、谷川以外の読者には「そこ」が「どこ」かは、わからない。
 「沈黙」だから、ことば、言い換えると「名前」をもたない場である。「そこ」としかいえない場である。
 「沈黙」と名づけた「そこ」で、谷川は「病んでいない言葉」「健やかな言葉」をもちたいといっている。「樹や草のように」と言っている。「言葉」にしないまま、「歌」のままに、もちたいと。
 「歌」は「言葉」のないもの。ことばをもたないままに動き「音の動き」。「歌」とは「言葉のない音楽」のことか。

どんな言葉が私に親しいのか
むしろ私が歌うことなく
私の歌われるのを私は聞く……

 「私が歌うことなく」は「私が言葉を歌にして歌うことなく」か。最終行の「私の歌われる」はどうか。そこには「私の言葉」はあるのか。そうではなく、「言葉」がないまま、「私という存在(あり方)」そのものが「歌われる=音楽になる」のを聞くのだろう。谷川は、言葉を書きながら、その書いてしまった言葉ではなく、まだ書かれていない言葉、言葉以前の何かを「歌」にしたい。
 そういう願いが書かれている。




*


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目次

瀬尾育生「ベテルにて」2  閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12  谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21  井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32  伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42  喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55  壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62  福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74  池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84  植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94  岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105  藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116  宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
森口みや「余暇」129
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嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977



問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
聴くと聞こえる: on Listening 1950-2017
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