法学館憲法研究所編『日本国憲法の核心』(日本評論社、2017年05月03日発行)
自民党憲法改正草案を読む/番外178(情報の読み方)
「憲法」は中学のときに社会科の授業の中で読んだ。それ以来、つい最近まで読んだことはなかった。「法律」に関しては何も読んだことがない。
これは、しかし、私が不勉強というよりも、当たり前のことなのだと思う。
憲法も法律も意識しないで生きる。これがふつうの暮らしである。知らなくていいのが憲法と法律だ。
憲法は「国家権力を縛るもの」。権力と縁のないところで日々の暮らしに悩んでいる人間には何の関係もない。守る必要のないものである。何も知らなくても、弱者(権力者ではない人間)を守ってくれるのが憲法である。
法律のいちばん身近なものに、交通法規がある。正しくは何というか知らない。私は目が悪くて車の運転をしない。免許も持っていない。知っているのは、青信号を守っていれば私の安全は保障されるということだけである。事故に遭ったら、私に責任があるのではなく、赤信号で進んできた車にある。詳しいことは何も知らなくも、弱者を守ってくれるのが法律である。
逆に言うと、「力」を行使する立場にないかぎり、憲法とか、法律なんて、ぜんぜん知らなくていいのだ。
銃刀法なんていうのは、名前は聞くが、ぜんぜん関係ないでしょ? 猟師にでもならないかぎり、知る必要がない。包丁や鋏も凶器になるかもしれないが、「危ないから気をつけなさい」という注意を子供のときに聞くだけで、まあ、関係ないねえ。
で、何が言いたいかというと。
私は2016年に、ふと思い立って「自民党の憲法改正草案」を読んでみた。好き勝手に他人の悪口を書きたいから、「表現の自由」がどう書かれているか、気になったのだ。それから夏の参院選。ここで、社会の異常さに気づいた。とても静かなのだ。選挙なのに、だれもがもう結果を知っているという感じ(シナリオが決まっていて、みんな、自分に割り振られた役を演じているという感じ)なのだ。
これは、おかしい、と思い、急に「政治」について語りたくなった。憲法について語りたくなった。憲法が「私を守ってくる」よりどころではなくなる、と心配になった。
で。
これは異常なことだ、と私は思う。
私は「政治」には何の関心もなかった。学生時代は、いわゆるノンポリだった。だから、何も知らない。その何も知らない人間が、これは危ない。自分で憲法について考え、自分の意見を言わないと、自分を守ることができないという恐怖感を感じるというのは、どうみてもおかしい。
憲法、法律が、弱い人間を守らない、逆に弱い人間を支配するようになっているのは、絶対におかしい。
こんな感覚で、少し勉強しようかなと思うと、しかし、すぐにつまずく。
「憲法学者」がいろんなことを書いている。主張している。それぞれの「論理」はみんな正しい。「完結している」。完結しているから「正しい」としか言いようがない。
ここはおかしい、と感じても(自分の意見を言ってみても)、通じない。学者は「自分の論理的の正しさ」に引き返していってしまう。「論理の正しさ」から抜け出さない。実際に何か言ってみたわけではないが、読むと、そういうことを感じる。
これは、なんだか、つらいね。
頼りにしている人が、頼りにならない。
でも、そうでもないかもしれないと、この本を読み始めて思った。。
最初の対談で「日本国憲法の核心をみる」で浦部法穂と森英樹が語り合っている。そのなかで「戦争法案」さなかのシールズと高齢者の「連携」について語っている。森は、高齢者の戦争への不安感を語ったあと、こういう。
この「自覚」があるなら、「論理の正しさ」に引きこもるのではなく、「細かい論理の正しさ」を跳ね飛ばして、いま必要な論理を組み立てなおしてほしいと思う。安倍の改憲に立ち向かうために、「正しさが確立された自分の論理」にこだわるのではなく、もっといま起きていることから論理をつくっていってほしい。どういう論理のつくり方があり、どういうことばの展開の仕方があるか、という「手本」になるようなものを、ぜひ、示してほしいと思う。
で、その「一例」を実は、私は、この対談で見つけた。あ、これは「つかえる」と思った「論理」に出会った。
首相の「解散権」に触れた部分である。
森は、解散権が首相の専決事項であるというのは「異常」だと異議を唱えている。首相が、いつでも自分の都合で解散できるのなら、議員は時間をかけて議論ができない。それをこういうふうにことばにしている。
これをこのまま「解散権」にぶつけても、きっとはね返されてしまう。
でも、これを「緊急事態条項」と組み合わせればどうだろうか。
いま自民党が検討している改憲案の一部に「緊急事態」が先取りされている。「緊急事態」が起きたとき、議員の任期を延期できる(選挙をしないで任期を継続する)という案がある。
もし、「緊急事態」に議論(議会)が重要だというのなら。
「緊急事態」ではないいま、平和なのいまこそ、もっと議論を重ねるべきである。結論を急ぐ必要はない。任期を気にしながら議論するのではなく、任期を保障して、任期いっぱい議論する。「会期」も気にしないで、どこまでも議論する。
自民党の「改憲案」を借りて、「現実」を改良するのである。「現実」がそういうふうに改良されたなら、そういうことが「慣行」になったなら、緊急事態時に議員が任期を継続するということは「必然」として受け入れられるが、そうでないなら、それは「議席を維持するための口実」である、という具合に論を展開できるはずだ。
ここからさらに、森友学園、加計学園、佐川問題の「議論」を要求していくことができる。国民を不満を吸収する形で何かができる。
こまない理屈は抜きにして、「どうして議論しないんだ」という不満を集める「論理」がつくれるはずだ。もし議論をしないのなら、「緊急事態の議員の任期延長」も議論をしないための方法、安倍が独裁を強固にするための方法であると国民に知らせることができる。
一石二鳥の「論理」になるはずだ。
「集団的自衛権」について語り合っている、次の部分もとても強烈である。
「憲法的価値」という「堅苦しい」ことばがある。「個人の尊厳」というようなことばも「省略」して、
殺されたらおしまい。だれが仕返ししてくれても生き返れるわけじゃない。
こういう「声」を一般の国民の間で出してもらいたいなあ。
憲法学者としては、いろいろ言い分はあるだろうけれど、そういう細かい「正しさ(論理)」は国民は必要としていない。
殺されたらおしまい。だれが仕返ししてくれても生き返れない、
という叫びを「学者」がそばでいっしょに叫んでくれることが大事なのだ。有名な憲法学者が私と同じことを言ってくれている、ということが「力」になる。
そういうことを思った。
「殺されたらおしまい。だれが仕返ししてくれても生き返れない」という単純な言い方(私が省略しすぎているかもしれないけれど)で「憲法」を語る学者がいるということを知ることができたのは、とてもうれしかった。
#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位
*
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自民党憲法改正草案を読む/番外178(情報の読み方)
「憲法」は中学のときに社会科の授業の中で読んだ。それ以来、つい最近まで読んだことはなかった。「法律」に関しては何も読んだことがない。
これは、しかし、私が不勉強というよりも、当たり前のことなのだと思う。
憲法も法律も意識しないで生きる。これがふつうの暮らしである。知らなくていいのが憲法と法律だ。
憲法は「国家権力を縛るもの」。権力と縁のないところで日々の暮らしに悩んでいる人間には何の関係もない。守る必要のないものである。何も知らなくても、弱者(権力者ではない人間)を守ってくれるのが憲法である。
法律のいちばん身近なものに、交通法規がある。正しくは何というか知らない。私は目が悪くて車の運転をしない。免許も持っていない。知っているのは、青信号を守っていれば私の安全は保障されるということだけである。事故に遭ったら、私に責任があるのではなく、赤信号で進んできた車にある。詳しいことは何も知らなくも、弱者を守ってくれるのが法律である。
逆に言うと、「力」を行使する立場にないかぎり、憲法とか、法律なんて、ぜんぜん知らなくていいのだ。
銃刀法なんていうのは、名前は聞くが、ぜんぜん関係ないでしょ? 猟師にでもならないかぎり、知る必要がない。包丁や鋏も凶器になるかもしれないが、「危ないから気をつけなさい」という注意を子供のときに聞くだけで、まあ、関係ないねえ。
で、何が言いたいかというと。
私は2016年に、ふと思い立って「自民党の憲法改正草案」を読んでみた。好き勝手に他人の悪口を書きたいから、「表現の自由」がどう書かれているか、気になったのだ。それから夏の参院選。ここで、社会の異常さに気づいた。とても静かなのだ。選挙なのに、だれもがもう結果を知っているという感じ(シナリオが決まっていて、みんな、自分に割り振られた役を演じているという感じ)なのだ。
これは、おかしい、と思い、急に「政治」について語りたくなった。憲法について語りたくなった。憲法が「私を守ってくる」よりどころではなくなる、と心配になった。
で。
これは異常なことだ、と私は思う。
私は「政治」には何の関心もなかった。学生時代は、いわゆるノンポリだった。だから、何も知らない。その何も知らない人間が、これは危ない。自分で憲法について考え、自分の意見を言わないと、自分を守ることができないという恐怖感を感じるというのは、どうみてもおかしい。
憲法、法律が、弱い人間を守らない、逆に弱い人間を支配するようになっているのは、絶対におかしい。
こんな感覚で、少し勉強しようかなと思うと、しかし、すぐにつまずく。
「憲法学者」がいろんなことを書いている。主張している。それぞれの「論理」はみんな正しい。「完結している」。完結しているから「正しい」としか言いようがない。
ここはおかしい、と感じても(自分の意見を言ってみても)、通じない。学者は「自分の論理的の正しさ」に引き返していってしまう。「論理の正しさ」から抜け出さない。実際に何か言ってみたわけではないが、読むと、そういうことを感じる。
これは、なんだか、つらいね。
頼りにしている人が、頼りにならない。
でも、そうでもないかもしれないと、この本を読み始めて思った。。
最初の対談で「日本国憲法の核心をみる」で浦部法穂と森英樹が語り合っている。そのなかで「戦争法案」さなかのシールズと高齢者の「連携」について語っている。森は、高齢者の戦争への不安感を語ったあと、こういう。
森 これでは死んでも死にきれない。そういう感覚、感性のようなものがあの運動なり反対の声のベースにあるとすれば、それがこまかい理屈を跳ね飛ばして、戦争法と呼ばれた法案の危険性を見事に見抜いていました。(略)
浦部 そういう感覚、感性は大事にされるべきなのに、政治の世界では「そんな感情論では何も進まない」と言われて、その感覚・感性にどう応えるかという議論はそれ以上には進まないわけです。それは、学問の世界でも同じで、そこに学問の一つの限界があるような気がします。
この「自覚」があるなら、「論理の正しさ」に引きこもるのではなく、「細かい論理の正しさ」を跳ね飛ばして、いま必要な論理を組み立てなおしてほしいと思う。安倍の改憲に立ち向かうために、「正しさが確立された自分の論理」にこだわるのではなく、もっといま起きていることから論理をつくっていってほしい。どういう論理のつくり方があり、どういうことばの展開の仕方があるか、という「手本」になるようなものを、ぜひ、示してほしいと思う。
で、その「一例」を実は、私は、この対談で見つけた。あ、これは「つかえる」と思った「論理」に出会った。
首相の「解散権」に触れた部分である。
森は、解散権が首相の専決事項であるというのは「異常」だと異議を唱えている。首相が、いつでも自分の都合で解散できるのなら、議員は時間をかけて議論ができない。それをこういうふうにことばにしている。
森 熟議デモクラシーのためにも、任期の間は自分の身分を保証された上で議論ができることを、すくなくとも慣行として確立しておかないと、まともな審議なんてできません。
これをこのまま「解散権」にぶつけても、きっとはね返されてしまう。
でも、これを「緊急事態条項」と組み合わせればどうだろうか。
いま自民党が検討している改憲案の一部に「緊急事態」が先取りされている。「緊急事態」が起きたとき、議員の任期を延期できる(選挙をしないで任期を継続する)という案がある。
もし、「緊急事態」に議論(議会)が重要だというのなら。
「緊急事態」ではないいま、平和なのいまこそ、もっと議論を重ねるべきである。結論を急ぐ必要はない。任期を気にしながら議論するのではなく、任期を保障して、任期いっぱい議論する。「会期」も気にしないで、どこまでも議論する。
自民党の「改憲案」を借りて、「現実」を改良するのである。「現実」がそういうふうに改良されたなら、そういうことが「慣行」になったなら、緊急事態時に議員が任期を継続するということは「必然」として受け入れられるが、そうでないなら、それは「議席を維持するための口実」である、という具合に論を展開できるはずだ。
ここからさらに、森友学園、加計学園、佐川問題の「議論」を要求していくことができる。国民を不満を吸収する形で何かができる。
こまない理屈は抜きにして、「どうして議論しないんだ」という不満を集める「論理」がつくれるはずだ。もし議論をしないのなら、「緊急事態の議員の任期延長」も議論をしないための方法、安倍が独裁を強固にするための方法であると国民に知らせることができる。
一石二鳥の「論理」になるはずだ。
「集団的自衛権」について語り合っている、次の部分もとても強烈である。
森 「敵」とされる勢力が日本と戦闘状態になれば、多くの日本人は殺されます。個人の尊重、人間の尊厳という憲法的価値の観点にたてば、その人が殺されたらその人の憲法的価値はそれでもう終わりです。隣人や友人が、まして日本政府が「仕返し」してくれても何の意味もありません。(略)
浦部 それは私がずっと言っていることで、「攻められたらどうする」というけれども、「攻められたら終わりだよ」と。
森 終わりだよと、学界の議論としてもはっきり言ったらいい。
浦部 攻められたら終わりなんだから、「攻められたらどうする」ではなく「攻められないためにどうするか」を考えなければならない。
「憲法的価値」という「堅苦しい」ことばがある。「個人の尊厳」というようなことばも「省略」して、
殺されたらおしまい。だれが仕返ししてくれても生き返れるわけじゃない。
こういう「声」を一般の国民の間で出してもらいたいなあ。
憲法学者としては、いろいろ言い分はあるだろうけれど、そういう細かい「正しさ(論理)」は国民は必要としていない。
殺されたらおしまい。だれが仕返ししてくれても生き返れない、
という叫びを「学者」がそばでいっしょに叫んでくれることが大事なのだ。有名な憲法学者が私と同じことを言ってくれている、ということが「力」になる。
そういうことを思った。
「殺されたらおしまい。だれが仕返ししてくれても生き返れない」という単純な言い方(私が省略しすぎているかもしれないけれど)で「憲法」を語る学者がいるということを知ることができたのは、とてもうれしかった。
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