詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

吉貝甚蔵「翻訳試論-漱石のモチーフによる嬉遊曲」

2018-02-26 10:56:56 | 詩(雑誌・同人誌)
吉貝甚蔵「翻訳試論-漱石のモチーフによる嬉遊曲」(「侃侃」29、2018年02月10日発行)

 吉貝甚蔵「翻訳試論-漱石のモチーフによる嬉遊曲」は、

--私はその人を常に先生と呼んでいた
と読んでいた私は常にその人であった

 と始まる。一行目の「私」は漱石の小説の中の「私」、「その人」も小説の中の人だろう。二行目で「呼んで」が「読んで」に変わった瞬間、「私」はこの作品を書いている人になる。厳密には違うのだが、二行目の「私」は吉貝になる。吉貝は漱石の小説を読むとき、その小説の主人公「その人」になって小説の中に入っている。
 「読む」というこ行為を詩に書いていることになる。
 このとき、吉貝は、「読む」という動詞をとおして、分裂する。

私がその人の目に映っていればのことだが

 吉貝は「その人」になったつもりで小説を読むが、小説の方ではどうだろうか。吉貝が読んでいる(その人になったつもりでいる)ということを、「その人」は認識しているか。認識していない。つまり、小説のなかの「その人」にとっては吉貝は存在していない。吉貝は「その人の目に映って」いない。
 つまり、一方的な行為なのである。「読む」というのは。
 ということが、小説の中でも起きている、と吉貝は考えている。

常にその人は私をあなたとは呼ばなかった

 というのは小説の中の「できごと」であり、また小説の外、小説の「そのひと」と吉貝の関係でもある。
 吉貝は「読む」人間なので、小説の中の「その人」でありながら、また小説の中の「私」のことも理解している。そのなかで、吉貝自身がゆれ動く。

その人はいつまでもいつまでも
(略)
人称なんか忘れてしまっていて
(略)
いくつもの人称を忘れながら
いくつもの人称に裂かれながら

 ということが起きる。
 小説の中の「その人」と「私」、小説の外の「私(吉貝)」と「その人」、小説の外の「私」と小説の中の「私」。「私」と「あなた」の関係は、入り乱れる。「私」と「その人」ということばしか出てこない。「私」と「あなた」は出てこない。しかし、それは「ことば」の上でのことであって、ことばにならないことばのなかでは、「私」と「あなた」は動いている。
 小説の中の「その人」と「私」は「あなた」と「私」であり、それは「その人」から言いなおせば「私」と「あなた」であるはずだ。また、小説の中の「その人」と小説を読む「私(吉貝)」は、吉貝からみれば「あなた」と「私」、小説の中の「私」(その人からはあなたとは呼ばれない人)と小説を読む「私(吉貝)」もまた、吉貝からみれば「あなた」と「私」ということになる。
 「人称」が入り乱れる。
 さらに、ここに「性」の問題もからんでくる。(吉貝ははっきりとは書いていないが。)、小説の中の「その人」が「男」で「私」が「女」である場合、小説の中の「その人」と小説を読む「私(吉貝)」は同じ性のなかで「私」という一人になれるが、小説の中の「私(女)」とは同じ生の中では「私」という一人にはなれず、かならず「あなた」として出現してきてしまうのだが、「あなた」のことがまったくわからないわけではない。ときには「あなた」になって小説の中を見つめるときもあるはずである。
 「読んでいた私は常にその人であった」と書いているが、「常に」という意識の奥には、それを持続するための「意識」がある。それは小説の中の「私(女)」と読む「私(吉貝=男)」の関係をも揺さぶる。
 この奇妙な「揺れ」をなんというか。
 吉貝は「翻訳」と呼んでいる。
 翻訳とは、「私」を維持しながら、「私ではない者」になること。そのときの「ことば」の揺らぎを生きること。それを「人称」の問題として提出している。

 詩なのだから、といってしまうとおしまいなのかもしれないが、詩なのだからこれ以上はあれこれ書いてもしようがないだろうあと思う。

 でも、あえて書けば、一行目の「呼んでいた」と二行目の「読んでいた」の、音は同じだが意味は違う動詞の中心にしてことばを展開すれば「人称」とは違うものが見えてきはしないか。
 「人称」というのは、極論すれば「二元論」から生まれてくる。
 吉貝の「翻訳」という意識も、「二元論」を出発点にしている。「その人」と呼ぼうが「あなた」と呼ぼうが、「私」がいて「私以外の人」がいるという「世界」から出発している。
 漱石の小説というテキストがあって、私(吉貝)という人間がいる、という「構図」も「二元論」そのままである。「二元論」というのは「論理の正しさ」にいつでも逃げ込んでしまう。「完結」することで「正しい」になってしまうという危険性があるなあ、と私は感じている。
 おもしろいけれど、それが気になった。
 「頭」ではわかるけれど、吉貝の「翻訳論」には、私は与したくない。
 「読む」ということば、「私がその人の目に映っていればのことだが」という一行が象徴的だが、吉貝の「翻訳論」はあくまでテキストの「翻訳論」であって、「通訳」では成り立たないのではないかという疑問が残る。「翻訳」に対しても「反論」というか「誤訳」の指摘はあるだろうが、「通訳」のように同時発生的ではない。「肉体」的ではない。「時間/空間」が「いま/ここ」で動くわけではない。だから、どうしても「頭」の世界という印象が残ってしまう。




*


「詩はどこにあるか」1月の詩の批評を一冊にまとめました。

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目次

瀬尾育生「ベテルにて」2  閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12  谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21  井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32  伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42  喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55  壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62  福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74  池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84  植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94  岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105  藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116  宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
森口みや「余暇」129
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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(14)

2018-02-26 09:32:10 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(14)(創元社、2018年02月10日発行)

 「空耳」には「Vietnum 1969」というサブタイトルがついている。五連あるが、それぞれの間に「*」があるので、「連」ではなく「断章」かもしれない。

閉じている扉の開く音をはっきりと聞いた
笑っている子どもの泣き声を聞いた
それからすっかり静かになった
銃声は聞こえなかった

 「閉じている」と「開く」、「笑っている」と「泣き声」は矛盾している。もちろん「閉じている」が「開く」に、「笑う」が「泣く」に変わることがあるから、それは矛盾ではないかもしれない。しかし、私は「矛盾」と読む。閉じたまま開く、笑ったまま泣く、と読む。ありえないものが書かれていると読む。
 そして、そのとき「聞いた」のは、「ありえない」何かを聞いたのだ。「矛盾」を聞いたのだ。
 だから「すっかり静かになった」はほんとうの「静か」ではない。どこかに「音」がある「静かさ」である。「銃声は聞こえなかった」が、谷川に聞こえなかっただけで、それは存在する。そういう緊張感、共存の緊張感がある。
 「ピアノ」ではピアノの「音」と「沈黙と名づけられる前の沈黙」が結びついて「音楽」を生み出していた。
 同じように、ここでは「暮らしの音」と「音になる前の暮らし」が結びついて「現実(世界)」をつくっている。「銃声」さえも「暮らし」であるという厳しい共存が1969年のベトナムなのだ。

草と草がこすれるのは
風なのかそれとも人が匍っているのか
河がゆっくり水嵩を増してゆく
小鳥の鋭い囀り

 「音」には「叩いて出る音」があり、「こすって出る音」がある。叩いて出る音はドラム、ピアノ。こすって出る音はバイオリン。叩くには乱暴なイメージがある。こするには親密なイメージがある。
 風が草を動かしてこすれるのか、人が動いてこすれるのかと問うとき、風と人は同じものになる。人が「自然」になるのか、自然が「暮らし」になるのか。区別はつかない。その区別のつかないのが1969年のベトナムということになる。
 河の水嵩が増す。そのときの「音」がある。水と水は、たがいにすれあっているだろうか。水の中を水が匍っていくのだろうか。そういうことも考える。
 小鳥の囀りは、聞こえない小さい音がまわりに満ちていることを知らせてくれる。「音」はあらゆるところにある。
 「聞いた」とは書いていないが、谷川は、それを聞いたと思う。

 次の連は「転調」する。

縄がぴんと張りつめる
頑なに黙っている者の動悸
ひとつの国語と他の国語との
決して混りあわぬ囁き

 張り詰める縄に「音」はないか。「黙っている者」に「動悸」の音があるなら、張り詰めた縄にも聞こえない「動悸」があるだろう。
 混じり合わぬ国語はベトナム語とアメリカ英語であるかもしれない。「意味」は戦いの場ではすぐに「わかる」。「意味」は必要がない。「銃」がかわりに語る。「死」をつきつける。
 その「国語」の奥に、つたえきれない小さい「声(囁き)」があると、聞いてみる。聞こうとしている。「意味」ではなく、「暮らし」を、と読んでみたい。

 このあと、詩はさらに「転調」する。

沈黙などあるものか
耳を掩ってすら
沈黙などあるものか!
荒野の只中にも

 「沈黙」はない。「音」と結びつく「静けさ」がない、と谷川は言う。「静けさになる前の静けさ」がない。それはほんとうは「暮らし」のなかに、「自然」のなかにあるはずのものだが、失われている。
 かわりに何があるのか。
 他の国語には混じり合わない「囁き」がある、と読んでみようか。
 それは「声になる前の声」「ことばになる前のことば」かもしれない。
 「暮らし」の中にはそういうものが「ある」。それは、無意識に共有されるものである。それが共有されずに、「悲鳴」をあげている。共有されないから「悲鳴」になってしまうのだ。
 「孤立した声」「孤独な声」である。
 何から「孤立」しているか。「声になる前の声」から切り離されている。
 逆に言うと、「囁き(小さな声=声にならない声)」となって、あふれている。
それは「周囲」にあるのではなく、そこにいる「人間」のなかにある。ベトナムに行って、谷川はその「囁き」を自分自身の「声」として聞いた。
 耳をおおうことでは、肉体のなかから聞こえてくる「声」を拒むことはできない。

 自分の中から「聞こえる声(囁き)」は、最後は、こう書かれる。

だが今日の夜明け
ひとつの美しい旋律の終わりの無名の死は
もうどんなかすかな音も立てない

 「無名の死」は音を立てないが、谷川は音を「はっきり」と聞く。一連目のことばが最終連でよみがえる。それは谷川の「肉体」のなかに動いている。
 「空耳」とは自分の肉体のなかにある「音」を聞くことだ。その音は自分の「肉体」の「沈黙」と向き合う形で広がっている。



*


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田原「小説家 閻連科に」12  谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21  井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32  伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42  喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55  壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62  福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74  池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84  植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94  岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105  藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116  宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
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