タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」(「どぅるかまら」23、2018年01月10日発行)
タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」。
「その後は何もでてこない」に、目がとまった。直前の「糸のような数滴が落ち」の「糸のような」という「比喩」が効果的なのだ。「比喩」とは、そこにないものをそこに見る力である。一種の「妄想」とも言える。それが、突然、消える。「何もでてこない」には、何か「比喩」になるようなものが出てきてほしいという願望が動いているかもしれない。
この三行を「前書き」にして、詩ははじまる。
「街の上流」の「上流」が比喩である。「人が流れてくる」の「流れてくる」が比喩である。
「何もでてこない」と感じたこころは、いま、「何か」を自分のなかからひきだそうとして「比喩」を動かしている。
「どうしてもおもいだせない名詞」とは、「比喩」にふさわしい名詞のことかもしれない。
「浮かせた足でたたく力」というのは、やはり「比喩」だろう。「比喩」だが明確な「名詞」ではない。「糸のような」のようにだれとでも共有できる「名詞」ではない。なんとなくわかるが、そのわかるは「もどかしい」。ことばになりきれていない。自分ではわかっているのに、見えているのに、「名前」がでてこない。
「どうしてもおもいだせない名詞があって/浮かせた足でたたく」のか、「浮かせた足でたたく力」をふつうのことば(共有できる比喩)で言うにはどう言うべきなのか、その「名詞(名前)」が「どうしても思い出せない」のか。両方に読んでみる。「比喩」はたがいに入れ替わってこそ、比喩である。
これは、こんなふうにも言いなおされる。
比喩に比喩を重ねても「よくわからない」ものがある。
「よくわからないもの」を説明するにはほんとうは「比喩」がとても効果的だ。「比喩」をとおして「よくわかる」ということがある。「比喩」とはそれそのものではないが、ときにはそれそのものよりも、それそのものをあらわす。一種の矛盾だが、これはきっと「対象にのめりこむ」ということと関係するかもしれない。「対象」を「客観的」にとらえるのではなく、のめりこんで「主観」になったとき、それが自分に関係するものとして「わかる」。「よくわかる」とは「自分の問題としてわかる」ということでもあるのだ。でも比喩がうまく動かないと、「よくわからない」が増え続ける。
そこから翻って、
これはなんだったのか。「客観」だと言うことができるかもしれない。「主観」を拒絶する「客観」。主観などというものは世界には存在しないのだと断言する「非情」と言い換えると、おおげさになるか。しかし、私は、なにかそういうものを感じた。
最初の三行は、「前書き」のようなものである。小さい文字で、書き出しも本文(?)よりは下がったところからはじまっている。「前書き」というのは、いわば「客観」なのだが、それが「主観」を誘わず、「主観」を拒絶しているので、逆にそこから「主観」が「いのち」を求めて動き出したのかもしれない。
「客観」と「主観」、「客観」と「比喩」というものを、ふと考えたのだった。
*
「詩はどこにあるか」1月の詩の批評を一冊にまとめました。
詩はどこにあるか1月号注文
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目次
瀬尾育生「ベテルにて」2 閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12 谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21 井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32 伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42 喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55 壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62 福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74 池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84 植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94 岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105 藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116 宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
森口みや「余暇」129
オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」。
飯田橋のあたらしい茶の店に、誘われる。せまい階段を昇った。
砂時計の砂を落とし茶葉が蒸れるのを、しばしまつ。砂が終わった。
急須を傾けると糸のような数滴が落ち、その後は何もでてこない。
「その後は何もでてこない」に、目がとまった。直前の「糸のような数滴が落ち」の「糸のような」という「比喩」が効果的なのだ。「比喩」とは、そこにないものをそこに見る力である。一種の「妄想」とも言える。それが、突然、消える。「何もでてこない」には、何か「比喩」になるようなものが出てきてほしいという願望が動いているかもしれない。
この三行を「前書き」にして、詩ははじまる。
街の上流から人が流れてくる
帯状の光と影にくるまれてとてもきれいだ
どうしてもおもいだせない名詞があって
浮かせた足でたたく力が欲しかった
「街の上流」の「上流」が比喩である。「人が流れてくる」の「流れてくる」が比喩である。
「何もでてこない」と感じたこころは、いま、「何か」を自分のなかからひきだそうとして「比喩」を動かしている。
「どうしてもおもいだせない名詞」とは、「比喩」にふさわしい名詞のことかもしれない。
「浮かせた足でたたく力」というのは、やはり「比喩」だろう。「比喩」だが明確な「名詞」ではない。「糸のような」のようにだれとでも共有できる「名詞」ではない。なんとなくわかるが、そのわかるは「もどかしい」。ことばになりきれていない。自分ではわかっているのに、見えているのに、「名前」がでてこない。
「どうしてもおもいだせない名詞があって/浮かせた足でたたく」のか、「浮かせた足でたたく力」をふつうのことば(共有できる比喩)で言うにはどう言うべきなのか、その「名詞(名前)」が「どうしても思い出せない」のか。両方に読んでみる。「比喩」はたがいに入れ替わってこそ、比喩である。
これは、こんなふうにも言いなおされる。
話のつづきにあいのてをいれて
鳥のたまごに似たものを温めようとする
ひとのこころにそっと触れても
感触がよくわからない
比喩に比喩を重ねても「よくわからない」ものがある。
「よくわからないもの」を説明するにはほんとうは「比喩」がとても効果的だ。「比喩」をとおして「よくわかる」ということがある。「比喩」とはそれそのものではないが、ときにはそれそのものよりも、それそのものをあらわす。一種の矛盾だが、これはきっと「対象にのめりこむ」ということと関係するかもしれない。「対象」を「客観的」にとらえるのではなく、のめりこんで「主観」になったとき、それが自分に関係するものとして「わかる」。「よくわかる」とは「自分の問題としてわかる」ということでもあるのだ。でも比喩がうまく動かないと、「よくわからない」が増え続ける。
そこから翻って、
その後は何もでてこない
これはなんだったのか。「客観」だと言うことができるかもしれない。「主観」を拒絶する「客観」。主観などというものは世界には存在しないのだと断言する「非情」と言い換えると、おおげさになるか。しかし、私は、なにかそういうものを感じた。
最初の三行は、「前書き」のようなものである。小さい文字で、書き出しも本文(?)よりは下がったところからはじまっている。「前書き」というのは、いわば「客観」なのだが、それが「主観」を誘わず、「主観」を拒絶しているので、逆にそこから「主観」が「いのち」を求めて動き出したのかもしれない。
「客観」と「主観」、「客観」と「比喩」というものを、ふと考えたのだった。
*
「詩はどこにあるか」1月の詩の批評を一冊にまとめました。
詩はどこにあるか1月号注文
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ここをクリックして1750円の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。
目次
瀬尾育生「ベテルにて」2 閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12 谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21 井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32 伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42 喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55 壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62 福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74 池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84 植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94 岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105 藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116 宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
森口みや「余暇」129
オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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