詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジム・シェリダン監督「ローズの秘密の頁」(★★★)

2018-02-13 00:12:02 | 映画
監督 ジム・シェリダン 出演 ルーニー・マーラ、バネッサ・レッドグレーブ、エリック・バナ

 「聖書」を「日記」にする、というのが、なかなかおもしろい。
 「聖書」に対する考え方はいろいろあるだろうが、神との一対一の関係がそこにある。だれも「信仰」に関しては口をはさめない。個人の完全な自由。精神の問題に属する。
 「聖書」のこの、神と人との直接関係(直接契約)は、「ショーシャンクの空」でも非常に厳格につかわれていた。ティム・ロビンスが「聖書」のなかに脱獄につかうハンマーを隠しているのだが、刑務所側はそれを調べない。手には取るが、開かない。閉じたままでも、それは「日記」なのだ。神と個人との「対話」がそこにある。そこには、だれも入ってはいけない、というのがキリスト教の「感覚」なのだろう。
 私には、この神と個人との「契約(密約?)」という感覚が「頭」では理解できたとしても、「肉体」ではつかみきれない。だから、ここが「ポイント」とは思いながらも、どうも、もうひとつ「親身」になれない。
 
 映画には、「宗教」に関係して、もうひとつポイントがある。舞台がアイルランド。イギリスとは「宗教」が違う。同じ「キリスト教」と考えるのは、私がキリスト教徒ではないからだ。背景のひとつに、イギリスとアイルランドの対立があり、そこにはカトリックとプロテスタントの対立がある。
 ヒトラーとの戦いでも、この違いが「壁」になり、イギリスとアイルランドは「共同戦線」をつくれない。国家のことはわからないが、この映画の中では「個人(宗教)」の対立が「悲劇」の引き金となっている。親イギリス派の男(主人公の恋人)をアイルランド人が許さない(殺してしまう)ことが、「悲劇」のはじまりである。
 このあたりの「感覚」がなんともつかみにくい。
 さらにこれにアイルランドの神父(か牧師か、私には区別がつかない)が「恋敵」としてからんでくるから、「宗教」が問題なのか、「愛」が問題なのかも、簡単には割り切れない。
 アイルランド人でないとわからないようなことが、きっと細部にたくさん描かれているのだと思うが、私には「荒涼とした風景」としかつかみとれない。(この、湿気を含んだ北の空気、さらにそのまわりの閉鎖的な感じのする人間の関係というのは、雪国育ちの私にはなぜかなつかしくて、アイルランドが舞台の映画は、私はとても好きなのだが。)

 で、わからないことがさらにさらにあるのだが。

 クライマックスの「手紙」のシーンは、映画としてとてもよくできていると思った。これは、この映画の前に「スリー・ビルボード」の「手紙」の処理の仕方に不満をもったからでもある。「スリー・ビルボード」では「手紙」が「舞台」の手法でつかわれていた。それが映画を叩き壊していた。この映画では、しっかりと「映画」になっていた。
 エリック・バナが両親が残した手紙を見つける。開いて読み始める。そのとき「ゴトッ」という音がして何かが封筒から落ちる。映画はそれを映さない。映さないけれど、見ている観客には、それが恋人の「勲章」であることがわかる。主人公がこどもを自分で産み、へその緒を切った時の「勲章」であることが想像できる。
 それが最後に主人公に手渡される。それは「聖書(日記)」にくり抜かれた「十字架」にすっぽりおさまる。(「ショーシャンクの空」でハンマーが聖書のくり抜きにおさまるのと同じである。)そして、それは主人公の「空白」のすべてを埋める。他の人たちから「幻想」と見做され、精神病院にとじこめられていた主人公の言っていたことが、「幻想」でなく「事実/真実」としてあらわれてくる。
 これを、「ことば」ではなく「具体的な映像」として、さらには「音」として、はっきりスクリーンで展開する。まさに映画である。
 で、こう書いてくると、涙が出るくらいに感動するのだが。
 うーん、やっぱり「聖書」が邪魔をする。わからないのである。あの「十字架」のくり抜きは、たぶんルーニー・マーラが恋人から「愛の証」としてもらったとき、その隠し場所として「聖書」を選んだときにつくったものだろう。そのときはまだ「日記」ではなかった。ルーニー・マーラにとって、そのとき「聖書」はなんだったのだろうか。これが、わからない。いや、「破壊(くり抜き)」を許してくれるのが神なのか。
 もうひとつ。これは、私が映画をぼんやり見ていて、はっきり記憶していない。「裏口」があいているとわかり、ルーニー・マーラは精神病院を脱走する。そのときルーニー・マーラは「聖書」から「勲章(十字架)」をとりだして逃げ出したのか。それとも、ふつうは「聖書」に隠さずに身につけていたのか。たぶん、「逃げる」ときに「勲章」を「聖書」からとりだしたのだと思うのだが、見落としてしまった。(手紙から勲章が「落ちる音」のようなものを見逃してしまった。つまり、最初の「伏線」を完全に見落としてしまったことになる。だから、はっきりとは言えないのだが。)
 もし逃げる寸前に、大事な勲章だけを持ち出すというシーンがあったなら、この映画はてともとても丁寧な映画である。完璧な映画である。
 再び精神病院につれもどされたルーニー・マーラにとって、「十字架(勲章の形)」にくり抜かれた「聖書」は、彼女におきたことをすべて「証明」してくれるものになる。精神は正常である。「聖書」は単なる「日記」、つまり「記憶」をつづったことばを残しているだけではなく、「愛の事実」が刻み込まれているからである。
 このとき「聖書」は、だから、「愛を証明する本」になっている。

 さてさて。何と言っていいのかわからないが。

 教会(牧師? 神父?)ぐるみで、ルーニー・マーラの「愛」が見守られていたということが、最後に「ことば」としてちょっと語られるが、このややこしい「愛」と「憎しみ(嫉妬?/愛を否定する何か)」と、「愛を見守る聖書(あるいは教会)」という関係が、「神」には何の関心もない私には、どうにもつかみきれないのである。
 アイルランド人にしかわからない映画なのかもしれないなあ。
                     (KBCシネマ2、2018年02月11日)




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