詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岩木誠一郎『余白の夜』

2018-02-02 09:26:53 | 詩集
岩木誠一郎『余白の夜』(思潮社、2018年01月25日発行)

 岩木誠一郎『余白の夜』の巻頭の「夜のほとりで」。

のどの渇きで目覚めて
台所に向かう
いやな夢を思い出したりしないように
そっと足を運び
ひんやりした空気に
触れる頬のほてりが
しずまるまでの時間を歩いている

 「そっと」「ひんやり」「しずまる」ということばには共通したものがある。静けさだ。岩木は静けさを大事にしている。
 この「静けさ」の対極にあるものは何だろうか。
 「いやな夢」の「いやな」だろうか。
 二連目は、こうつづいている。

ずいぶん遠くまで
来てしまったらしい
冷蔵庫の扉には
たくさんのメモが貼られていて
読みにくい文字をたどるたび
失われたもののことが
ひとつずつよみがえる

 「読みにくい文字」は「いやな文字」につながるものを含んでいるかもしれない。「読みにくい文字」は「静かな文字」(丁寧な文字)ではないだろうから。
 でも、何かが違う。
 何が違うのか。

いやな夢を思い出したりしないように

 いやな夢は「思い出したりしないように」している。遠ざけている。

読みにくい文字をたどるたび
失われたもののことが
ひとつずつよみがえる

 読みにくい文字については、失われたもの(こと)を思い出している。文字をたどることで思い出そうとしている。
 思い出したいもの(思い出すもの)と、思い出すことを避けるもの(思い出したくないもの)を岩木は「そっと」識別しているらしい。
 そういう「識別」をすること、その積み重ねが「遠く」まで岩木を運んでいく。

 うーん、「気弱」な詩集かなあ。
 まあ、そうなんだろうなあ。
 危険はないけれど、この先どうなるんだろうというわくわくするような昂奮は少ないかも。
 「現代詩」の冒険という意味では、もの足りないかもしれない。
 でも、つづけて読んでみる。
 「灯台まで」は「フジオカさん」と「海べりのちいさな町」を車で進んでいる。きっとその町は岩木の住んでいた町なのだろう。「フジオカさん」と突然固有名詞が出てくるのは、「フジオカさん」が岩木の幼なじみか何か、親しい人なのだろう。まだその町に住んでいるのかもしれない。帰省した(?)岩木を「フジオカさん」が迎えているという感じ。
 その二連目。

子どもがふたり
波打ち際で何かを拾っている
流れ着いたものがあり
流れ去ったものがある
夕暮れが近づいて
道のまんなかの白線だけが
浮かびあがって見えてくる
灯台まで
わたしは帰って来たのではなく
訪れる人になっている

 最後の「訪れる人になっている」がいいなあ、と思う。「訪れる」という動詞が、強く響いてくる。
 「思い出す」というのは、自分の「肉体(記憶)」を「よみがえらせる」ことだろう。自分の「内部」への旅。
 懐かしい場所へ「帰って来た」のではなく、その場所を「訪れる」というとき、そこにどんな違いがあるだろうか。「帰って来た」と「訪れる」の違いは何だろうか。
 「帰って来た」というとき、「記憶」が占める部分が大きい。「記憶」があるから「帰って来た」と言える。「記憶」がなければ「帰って来た」とは言えない。
 「訪れる」はかなり違う。懐かしい場所を再び訪れるという言い方があるが、一方ではじめての場所を訪れるという言い方がある。訪れるは、「はじめて」の方が強い。そして「訪れる(おとずれる)」は「訪ねる(たずねる)」でもある。何かを「問いかける」という気持ちがある。
 岩木は何かを思い出す(思い出をよみがえらせる)だけではなく、何かを「たずねている」。
 ここから「夜のほとりで」を読み返してみる必要がある。

そっと足をはこびながら

 ここに書かれている「そっと」は「たずねる」ときの基本的な姿勢なのだ。静かにたずねる。静かに触れる。
 「たずねる」というのは、相手に(だれかに)たずねるのである。相手(だれか)が語ることばに耳を傾ける。そして、それを受け止める。
 岩木の詩は、岩木が語るのではなく、「対象」に語らせているのである。「対象」が語り始めるまで、静かに耳を傾けて待っているという詩なのだ。

 「雨上がりの夜に」には、「夜のほとりで」に呼応するような行がある。

午前零時の台所で
グラスの水を飲みほしたとき
流れ落ちてゆくつめたさを
どれほど
待っていたのかに気づいた

 「待っていた」という動詞。
 岩木は静かに「待つ」人間である。何かが「語り始める」まで待つ。そして対象が「語り始めた」声を書き留める。

いやな夢を思い出したりしないように

 に、いやな夢が語りだしたりしないように、という意味になる。いやな夢が目を覚まして、いやなことを語りださないように。夢を起こさないようにそっと歩く。
 記憶は思い出すものではなく、記憶が語りだすときに美しく響くものなのだ。



 


*


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目次

瀬尾育生「ベテルにて」2  閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12  谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21  井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32  伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42  喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55  壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62  福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74  池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84  植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94  岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105  藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116  宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
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