詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(10)

2018-02-22 09:28:04 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(10)(創元社、2018年02月10日発行)

 「三月のうた」は起承転結を変形させた詩。

わたしは花を捨てて行く
ものみな芽吹く三月に
わたしは道を捨てて行く
子等のかけだす三月に
わたしは愛だけ抱いて行く
よろこびとおそれとおまえ
おまえの笑う三月に

 「捨てて行く」が繰り返され、「転」で「抱いて行く」にかわる。「愛」は「おまえ」ともとれる。まだかけだすことのできない子供(赤ん坊)を抱いて歩く。そうするとおまえが笑う。「笑う」を引き出すのが「愛」。「笑い」を抱いて歩いている、ともとれる。
 またおまえは子等のひとりになってかけだしているのかもしれない。それを見守りながらついていく。何も持っていないが、その何も持っていないことが「愛」。手ぶらで、思いをおまえに集中している。
 こういうことも、あまり書いてはいけない。こんなことにことばを費やしてはいけない。
 最終行の「笑う」がいいなあ、と思えばそれでいいのだろう。
 おまえ(子供)が笑う。それが三月だ。三月がそこにある。





*


「詩はどこにあるか」1月の詩の批評を一冊にまとめました。

詩はどこにあるか1月号注文
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目次

瀬尾育生「ベテルにて」2  閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12  谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21  井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32  伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42  喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55  壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62  福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74  池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84  植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94  岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105  藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116  宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
森口みや「余暇」129
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以下の本もオンデマンドで発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com

聴くと聞こえる: on Listening 1950-2017
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石井遊佳「百年泥」

2018-02-22 08:51:04 | その他(音楽、小説etc)
石井遊佳「百年泥」(「文藝春秋」2018年03月号)

 石井遊佳「百年泥」は第百五十八回芥川賞受賞作。若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」と同時に読んだのだが、「おらおらで……」があまりにひどくて、感想を書きながらがっかりした。その影響で「百年泥」の感想を書くのがいやになった。ほうっておいたのだが、でも、書いてみるか。
 この小説は書き出しの一行がすべてを語っている。それ以上のことは、書かれていない。(ページは「文藝春秋」)

 チェンナイ生活三か月半にして、百年に一度の洪水に遭った私は果報者といえるかもしれない。                       (344ページ)

 「果報者」ということばが、すべてである。
 「百年に一度の洪水に遭った」なら、そこに住む人にはとって、それは「果報」ではありえない。洪水に生活を奪われることは「不幸」である。なぜ、「果報」といえるのか。「私」が「生活(財産)」を洪水で奪われなかったからではない。もちろん奪われなかったということもあるかもしれないが、それだけで「果報」とは言えない。「私」がそれを「果報」と言えるのは、「洪水」のおかげで「ことば」を発することができるからだ。
 これは「主人公」の「声」というよりも、作者の声である。「あ、これを題材に小説が書ける」という喜び、題材の発見を「果報」と呼んでいるのだ。言い換えると、この小説では「私」と「作者」が区別がつかなくなっている。「私小説」というのではない。それ以下だ。

 私は、チェンナイ生活三か月半にして、百年に一度の洪水に遭った。

 と書いても、「事実」はかわらない。「私」がチェンナイに生活して三か月半になる。大洪水があった。大雨が降った。それは百年に一度の規模のものである。これで十分なはず。
 こういう「事実」に「果報者である」という「感想」をまぎれこませる。
 いや、「果報者」という感想を書いてもいいのかもしれないが、それならもっと「果報」を読者が驚くくらい書き込まないといけない。単に書くことがあっていい。でたらめを書いても許される、というのでは「果報」には感じられない。
 古い男とのやりとりなんか思い出して、それで幸せになれる? 日本語学校の生徒の過去だとかを知って、それで「果報」と言える? 日本語学校の、生徒の「間違った日本語」を聞いて、それを「正しくなおす」のに苦労する、というようなことが「果報」?
 鬱憤を晴らしているだけだ。怨み、つらみを書き綴っても、受け入れてもらえる。これは「果報だ」というのは、完全に個人的な感想である。
 「日本語学校」の体験、チェンナイ(インド)の体験を小説にできるという「果報」に酔っているだけだ。
 文体は、若竹千佐子ほどぐちゃぐちゃではないかもしれないが、非常に気になる「書き方」がある。何回も出てくる。てきとうにページを開いて、斜め読みするのだが、

 後年私がつねに獲得することになった定評について先に述べたが、実のところ、
「おまえさ、ほんと口ないのかよ。なんか言えば? ったく愛想のない女だね」
                            (387ページ)

 「先に述べた」って、なんだ?
 「論文」ならこういう書き方はあるだろうが、小説で「先に述べた」なんていう顔の出し方をされたら、ぞっとする。たとえ「私小説」であっても。だって、これは「感想」になっていないだろう。
 「果報者だ」という感想には、まあ、題材に困っている小説家は共感できるだろうが、「先に述べた」なんていわれても、感情は動かない。「記憶力をテストされているみたいだ。
 先に書いたかどうか、もう一度読者に思い出してもらわないと先に進めない小説なんて、小説ではないだろう。「あっ、これは先に書いたあったことが違う形でもう一度言いなおされたものだな」と読者がかってに判断すればいい。気づかなければ気づかないでいい。作者の書き方が悪い(印象に残らない書き方をしている)か、読者が読み落としているかだけのことである。
 だいたい「後年」と「先に述べた」の「枠構造」が「説明」としてつかわれるのは、小説ではないだろう。先に書いてあったこと(過去)が、時間が進むにつれて(小説が展開するにつれて)、ひとつの「カタルシス」というか「結論」に向かって動いていくのが小説というものであって、「この結果(後年獲得することになった結果)は、先に述べたとおりである」なんて、ばかばかしいにもほどがある。
 奇想天外なストーリー(空を飛ぶ人間が出てくる)、埋もれていた「過去」がよみがえるなど、「魔術的リアリズム」が売り物のようだが、タイトルもガルシア・マルケスの「百年の孤独」を意識してのものなのだろうが、「三十年泥」がせいぜいのところで、口の悪い人なら「三日泥」というだろうなあ。
 だいたい「過去」なんて、何年でも遡れる。「過去」ではなく「未来」へ向けての「百年」でなければ「小説」の意味がない。「いま」を出発点として、未来へつづいていくのが「小説のことば」。「過去」なんて「日記」だ。

 こんな「日記」にすぎないものが、なぜ芥川賞に選ばれたのか。やっぱり若竹千佐子がいきなり満票(過半数だっけ?)をあつめ、「当選」が決まったために、大慌てで選考をやりなおしたんだろうなあ。若竹の小説が受賞作なら、もっといいのがある。これを落とすのはどうか。ということで、いくらかましな石井の作品が選ばれたということだろう。受賞作の紹介も「百年泥」が先である。芥川賞で本を売らないと、本が売れる機会がないというのはわかるけれど、こんな小説を売っていたらますます本が売れなくなりはしないだろうか。






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吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55  壱岐梢『一粒の』59
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岡野絵里子「Winterning」74  池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84  植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94  岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105  藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116  宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
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(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
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百年泥 第158回芥川賞受賞
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イ・ジェヨン監督「エターナル」(★★★★)

2018-02-22 00:28:49 | 映画
イ・ジェヨン監督「エターナル」(★★★★)

監督 イ・ジェヨン 出演 イ・ビョンホン、コン・ヒョジン 

 この映画の見どころは二つある。
 ひとつは、いつ「ストーリーの構造」に気がつくか。もうひとつは、イ・ビョンホンの演技。
 「ストーリーの構造」についていえば、私は、犬が車の下から出てきたときに確信した。当然姿をあらわしていいはずの運転手が姿をみせないからである。まあ、これ以上は書かないが。
 あとのひとつ、イ・ビョンホンの演技。これは、ちょっと感激した。「ストーリーの構造」から言って、目を引くアクションも、台詞回しもない。ただ、そこにいて、妻を見ているだけという役なのだが、これが「生きている」。
 動かないことによって、感情が動く。
 目で演技している。映画を心得ている。前半に出てくる眼鏡が小道具として、とても効果的だ。現実では、あんなに目がはっきりわかるほど近づいて人の顔など見ない。その現実には見ることのできない大きさにまで拡大された目が、眼鏡を外すことでさらにぐいと観客に近づき、それが微妙に潤む。悲しみが潤む。
 ふーむ。
 一か所、眠っている妻の首を絞めようとするシーン。寸前にやめるのだけれど、あそこはよくないなあ。あ、これは脚本が悪いのかもしれない。余分なシーンだ。
 なぜ余分か。
 ここだけ、「アクション」だからである。
 アクションしないことで成り立っている映画で、アクションがあると、それが全部をこわしてしまう。このシーンがなかったら、私はこの映画に★5個をつける。
 手のアクションを比較するといい。
 イ・ビョンホンの手のアクションは、直後にもう一度出てくる。息子が眠っている。息子の手をそっと握る。手をそっと握るというのは、アクションだけれど動かないアクションである。働きかけ、相手に影響を与えてしまうアクションではない。相手は何もかわらない。何もかわらないから、かわりにイ・ビョンホンの「肉体」のなかで感情が動く。肉体のアクションのあとに、感情が動いてついてくる。
 妻の首を絞めようとするシーンは逆だね。感情が先に動いて、手を首の方に引っ張っていく。まあ、思いとどまるのだけれど、このシーンだけ、全体の中で「トーン」が違ってしまっている。
 他のシーンでは、イ・ビョンホンは自分の「感情」にとまどっている。悩んでいる。でも、妻の首を絞めようとするシーンでは、感情ではなく「肉体/手」そのものが葛藤する。それが激しすぎる。シーンが長すぎたのかもしれない。また手の動きが首を絞める形に近づきすぎたのかもしれない。両手ではなく、片手だったら違ったかもしれない。0・5秒くらいだったら、「あっ、いまのは何だったんだろう」と観客のこころに残ったかもしれない。
 むずかしいね。
 (中洲大洋スクリーン1、2018年02月21日)


 *

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映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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