詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

パオロ・ビルツィ監督「ロング、ロングバケーション」(★★)

2018-02-14 18:33:16 | 映画
パオロ・ビルツィ監督「ロング、ロングバケーション」(★★)

監督 パオロ・ビルツィ 出演 ヘレン・ミレン、ドナルド・サザーランド

 うーん、いまひとつおもしろくない。
 たぶん、これは私が「アメリカ大陸」を知らないから。ロードムービーなのだが、移動していく感じがよくわからない。「土地鑑」がない。木々の色や空気の色が、「土地」と結びつかない。背景の「土地」に対する愛着も感じられない。これは監督がイタリア人であるためか。
 「映画」というよりも、「ストーリー」になってしまっている。
 唯一おもしろいと思ったのは、ヘレン・ミレン、ドナルド・サザーランドが行く先々で、スライド写真を映してみるときに、「観客」がいるということ。最初は遠くからそっと見ている。次のシーンでは「いっしょに見ていいか」と若者が声をかけてくる。
 他人の思い出(プライバシー)を見る、見たいのはなぜだろう。
 ここが映画のポイントだね。
 実際、ドナルド・サザーランドは認知症になりながら、妻の初恋(?)の男との関係が気になってしようがない。嫉妬する。その一方、妻の友人(隣人の女)と浮気していたことを、認知症が原因で洩らしてしまう。妻を愛人と勘違いして、昔の思い出を語るのである。
 だれにでもプライバシー(秘密)があり、ひとは「秘密」に心を動かされるのである。「いま/ここ」にいる人の、「いま/ここ」だけでは見えないものを見るというのは、妙に「わくわく」する。不思議な「なつかしさ」がある。人間は「過去」を持っている、ということが、ひととひとをつなぐのかもしれない。
 もうひとつ。
 「匂い」のつかい方もおもしろかった。「嗅覚」はもっとも原始的な感覚である、といわれる。そのため最後まで「生き残る」感覚ともいう。
 やっと辿りついたヘミングウェーの「家」で、ヘレン・ミレンは倒れ救急車で運ばれる。ドナルド・サザーランドは「だれか」を探しているが、だれを探しているかことばにできない。しかし、妻のバッグを見つけ、香水を嗅ぎ「妻を探している」と言うことができる。
 これは、実は、最初に重要な「伏線」がある。ドナルド・サザーランドは車を運転しながら、ヘレン・ミレンに「おならをしただろう」と非難する。車の排気ガスが車内に流れ込んでいる。それを何とはわからないが、ドナルド・サザーランドは「匂い」としてつかみとっている。この「伏線」は「巧み」すぎるかもしれないが、なかなかいい。「排気ガス」にヘレン・ミレンは気づかなかったのだが、ドナルド・サザーランドのことばによって、それを知らされ、最後はそれを利用するというのは、「結末」としてきっちりしすぎているかもしれないけれど。
 しかし、この「映画」も「映画」にするよりは、「舞台」にした方がおもしろそうだ。「ロードムービー」の「ロード」に私が実感をもてないからそう思うのかもしれないが。「実写」よりも「書き割り」と「ことば」だけの方が、役者の「肉体」が浮き彫りになって迫ってくると思った。
                     (KBCシネマ2、2018年02月14日)




 *

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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(3)

2018-02-14 09:12:53 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(3)(創元社、2018年02月10日発行)

 「波の音を」は「聴こえる」音か、「聞く」音か。

遠い雲から始まった僕の思いは
死というくもりガラスにぶつかって
にわかに夕暮れの空となった

烈しい現実を
映画のように
その空を見ながら
僕は自分の鼓動(みゃく)をかぞえていた

波の音を
ぶつかって砕ける波の音を
ききたかったその夕暮れ--

 「ききたかった」と「ひらがな」で書いてある。「聴こえる」「聞く」とは別な書き方である。
 さて。
 「音楽」のように人工のものではない、「自然」のものだから「聞く」「聞こえる」ということになるかもしれない。
 でも、こんな「謎解き」をするよりも、私の感じたことを書こう。
 最初に読んだとき、気になったのは「死というくもりガラスにぶつかって」という行である。「死」は「くもりガラス」なのか。「感じる」よりも「考えてしまう」。
 「くもりガラス」は不透明なガラス。ガラスは「透明」という印象といっしょにあるから、そこに矛盾のようなもの、一筋縄では理解できなものを感じ、何かを考えるのである。何を考えたのかわからないが、「考える」という方向へ意識が動いていく。
 「遠い雲」の「くも」という音が「くもりガラス」に影響しているのだとも思う。そうすると、ここにはとても「小さな」音が動いていることになる。ピアニシモの音。「雲」から「くもりガラス」への変化には、もしかすると「人工的」なもの、自然を超える「音楽」があるかもしれない。
 あ、こんなことを書いてしまうのは、「聞こえる/聞く」という谷川の分類に影響されているためだね。
 「雲」「くもり」という音のあとに「にわか」ということばがつづくと「にわか雨」を思う。この「にわか」雨は、私には「音」となって響いてくる。突然の雨音をつれてくる「にわか」雨。
 直前の「ぶつかって」は、気圧が「ぶつかって」、「にわか」雨になるという感じ。
 でも、よくわからない。
 ここに「音」はあるのか。
 「ぶつかる」は「音」を生み出すが、「死というくもりガラスにぶつかって」というとき、そこに「音」はあるか。「僕の思い」が「くもりガラス」に「ぶつかる」というのが、一行目と二行目の「意味」だが、「死」が「くもりガラス」に「ぶつかっている」と「僕」が「思っている」とも読むことができる。「死」は現実ではなく「僕」が「思っている」何か。それが「くもりガラス」に「ぶつかっている」。「僕が思っている何か/思い」が「死」である。
 そういう、ごちゃごちゃしたことが、頭の中で動く。「感じる」というより「考える」。「考え」が「考え」と「ぶつかる」。整理されていないから、方向が定まらずに「ぶつかる」。
 で、そのとき、そこに「音」はある?
 私には「音」が「聞こえない」。
 そこには「音」がなく、何か「映像」のようなものが、「音」をもたないまま動いている。「雲」「くもりガラス」「空」が広がっているが、「音」はない。「にわか」も谷川の詩の中では「にわか雨=音」にならずに、急な「動き」しか指し示さない。「急(にわか)」という映像だ。
 「雲」と「くもりガラス」のあいだに、「音」の響きあいはあるが、「音」は聞こえない。「絵」として世界が広がっている。

 二連目の「烈しい現実」の「烈しい」は「ぶつかる」という動詞を引き継いでいるが、私には「烈しい現実」とは感じられない。
 ことばは、そのあと「映画のように」と変化する。「映画」は「現実」ではなく「つくりもの」。そしてそれを「見ながら」というのだから、やはりここには(ここまでは)、「音」のない世界なのだろう。
 「音のない世界」を見ながら、言い換えると「音のない世界」に向き合いながら、「僕」は「鼓動をかぞえていた」。このとき「数える」は「聞く」と同じだろう。聞きながら、数える。あるいは「数える」ことで「鼓動」が「聞こえる」。「数える」ことで「鼓動」を「聞く」。
 ここではじめ「音」が出てくる。
 でも、それは「外」にある音、「自然の音」ではなく、「自分の音」だ。

 三連目、「場面」が突然、変化する。
 それまでは「僕」がどこにいるか、はっきりしない。けれど、ここで「波の音」が出てきて、海の近くに「僕」がいることがわかる。
 ここに

ぶつかって

 ということば、一連目に出てきたことばがもう一度登場する。
 そしてそれはさらに

砕ける

 という動詞を動かす。
 ここが、なんともいえず、おもしろい。
 「砕ける」は、ここから一連目へ引き返していく。

死というくもりガラスとぶつかって/砕ける

 何が砕ける? 「学校文法」を適用すれば「僕の思い」だが、「くもりガラス」が砕けると読むことも、「死」が砕けるとも読むことができる。
 「死」を砕きたいのだとも読むことができる。
 「死」を「鼓動」が砕くという具合に、二連目と結びつけて読むこともできる。

 そうすると、このとき「波」とは何なのか。海の水の「うねり」と簡単にいってしまっていいのか。
 「波」は何と「ぶつかる」のか、そして「砕ける」のか。
 「波」は「岩(陸)」とぶつかり、砕ける。また「波」と「波」がぶつかり、砕けるということもある。
 「波」と「波」のぶつかりあい、砕ける姿は「僕」と「僕」がぶつかり、砕ける姿の「比喩」かもしれない。
 「思い(心)」と「肉体(鼓動)」がぶつかり、砕けるのかもしれない。

 そのとき、「音」は、どこにある?
 「音」は「聞こえる」ものなのか、それとも自分で「発する」ものなのか。
 「音」は自分の「外」にあるのか、それとも自分の「内」にあるのか。

 「音」は常に谷川の「内」にある。それを「外」にあるものとして、「きく」。それが谷川の「肉体/こころ」と「音」の関係のように思える。
 このとき、「音」は「ある」にかわる。
 一連目に「音」はなかった。二連目で「鼓動」を聞き、「音」が生まれ、それが「波の音」となって谷川の肉体の「外」に「ある」。「ある」という「動詞」を中心にして、谷川と世界が交流している。ひとつになっている。「ある=音」という世界のあり方がある。
 「ぶつかって/砕ける」ということばから、そういう「音」のあり方を、私は聞く。
 自分の内部にある「音」になっていないものを、「音」として「ききたい」。
 この「音」を「ことば」と言い換えることもできる。
 自分の「内部」にある「ことばになっていないことば」、「未生のことば」を「ことば」として生み出すと、それが「詩」になる。その「詩」を谷川は、聞くのである。
 そう読むと、ここには谷川の「自画像」が書かれていることがわかる。



*


「詩はどこにあるか」1月の詩の批評を一冊にまとめました。

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目次

瀬尾育生「ベテルにて」2  閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12  谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21  井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32  伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42  喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55  壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62  福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74  池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84  植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94  岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105  藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116  宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
森口みや「余暇」129
オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



以下の本もオンデマンドで発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977



問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
聴くと聞こえる: on Listening 1950-2017
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