詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小川三郎「沼に水草」

2018-02-01 11:56:53 | 詩(雑誌・同人誌)
小川三郎「沼に水草」(「モーアシビ」34、2018年01月15日発行)

 小川三郎「沼に水草」は読み進むにつれて世界が変わっていく。「実景」と思っていたものが「実景」ではなくなる。けれど、「実感」が消えるわけではなく、むしろ「新しい実感」が生まれてくる。

首の長い長い鳥が
水草の陰に潜んでいた。
よれよれの細い身体で
辺りの様子をうかがっていた。

私の姿を見つけた鳥は
石のようにぴたりと停止し
私のかたちを
じっと見つめた。

 ここまでは完全な「実景」として読むことができる。二連目は「鳥」の立場から「私」を見つめているから、厳密には「実景」ではなく「空想」(想像)になるかもしれないが、こういう視点の移動というか変化は多くの文学でおこなわれているので、自然に読んでしまう。鳥に見つめられているのだが、鳥が私を見つめている、と「主語」が「私」ではなくても、「私」が体験している世界だと思ってしまう。
 よく考えると不思議なことなんだけれどね。
 正確には、「私は鳥に見つめられていると感じた」、あるいは「鳥が私のかたちをじっと見つめた(見つめている)、と感じた」と「感じた」(思った)を補わないといけない。つまり、それは「客観」ではなく「主観」の世界なのだけれど。
 なぜこんなめんどうくさいことを書いたかというと。
 ここから「主観」の世界が動き始めるからである。「実景」も「主観」のひとつかもしれないが、一連目には「主観」によって世界が歪められているという感じがない。しかし、二連目を経て三連目にゆくと、「歪み」が出てくる。「主観」というのは「客観」と違っていて「歪み」があっても成立する世界である。「主観」からは、そういうふうに見えたと言い張れるのが「主観の世界」。

私は鳥のふりをして近づいた。
よりわかりやすいように
首も長く長くした。
すると鳥はますます細くなり
まるで姿を水草のあいだに
折り込んでしまうかのよう。

 「折り込んでしまうかのよう」の「よう」が「主観」なのだが、それより前の「首も長く長くした」も「主観」だねえ。実際に小川の首が長くなったわけではない。首の長い鳥(サギのたぐいだろうか)のふりをして、首が長くなったつもりで、近づいたということだろう。

うまく鳥の首を掴んだ。
掌の中で
鳥の呼吸が止まる。
草を抜くように
鳥を沼から引っこ抜いて
やさしく抱き上げると
それは枯れ枝だった。

 「実景(客観)」と「主観」が入れ替わってしまう。
 と、簡単には言い切れない。
 鳥に見えたのは実は枯れ枝だったのか、それともほんとうに鳥が枯れ枝になってしまったのか。掌は「鳥の呼吸が止まる」のを感じている。小川は、そのからだを「やさしく」抱き上げてもいる。「肉体」と「感情」が交錯する。
 「実景(客観)」なのか、「幻想(主観)」なのか、ということにこだわってはおもしろくない。
 「実景(客観)」「幻想(主観)」を貫いて動くものがある。もし「ほんとう」というものがあるとすれば、ふたつを貫く「動き」そのものが「ほんとう」(ほんもの)である。
 「動き」は、こう変化する。

枯れ枝でも
鳥には違いないのだからと
首から手を離すと
鳥は呼吸を取戻し
足で私の腹を蹴った。

私の腹に広がる波紋は
妊婦のそれにも似ているもので
しかし私の痛みではなく
ふくらはぎから
沼へと抜けた。
泥がごくりと喉を鳴らして
水がむんと匂い立った。

 「枯れ枝」と思ったのが「幻想」で、「鳥」の方が「客観」だったかもしれない。区別がつかない。その区別のなさは、「私」と「鳥」との関係を越えて、「沼」という世界へ広がっていく。

泥がごくりと喉を鳴らして
水がむんと匂い立った。

 「泥」に「喉」などない。「喉」は人間にある。そして「鳥」にもある。ここでは「沼の泥」までが「肉体」として「私(小川)」に接続してくる。いや、融合してくる。区別がつかなくなる。
 「むんと匂い立った」の主語は、学校文法では「水」になるが、それは水を超えている。「泥」でもあるし、「鳥」でもあり、「私」でもあるのだ。区別のつかないもの、世界をつらぬく「いのち」そのものが「むんと匂い立った」。それをたまたま小川は、ここでは「水は」と言っているだけであって、「水」に限定する必要はない。むしろ、「水」を超えて、世界をとらえなければならないのだと思う。

私はまるで力が抜けて
なにを思って生きてきたのか
いつからここに来ていたのかさえ
別段気にもならなくなった。
上下左右も硬いも軟いも
ひとつのものに感じられた。

 存在の区別が消える。「ひとつのもの」になる。「ひとつのもの」を貫いているのは、やはり「いのち」としかいいようのないものだろう。人間のいのち、鳥のいのちだけではない。水のいのち、泥のいのちもふくまれる。
 ここに「感じられた」ということばがあることにも、注意したい。
 「感じられた」は、最初に指摘したように、二連目にこそ必要なことばである。鳥は「私の形をじっと見つめた」と「感じられた」。でも、そこでは省略されている。わかりきっていることだからか。
 では、なぜ、ここで「感じられた」と書く必要があるのか。「主観」ではなく「ひとつのものになった」と「客観」を装うこともできるはずである。その方が不気味かもしれない。つまり「強い」かもしれない。
 しかし、小川は「感じられた」と書く。
 ここに、私は小川の「正直」を感じる。
 いままでことばにしてこなかった「世界」、あるいはものの存在の根源のようなものに触れた。それを「客観」として断定する形で書くことを畏れたのだ。ふいに掴んでしまった世界の「真実」(事実、かもしれない)の前で、敬虔になっている。
 そういうことを感じた。
 この正直、世界に対する畏怖というのは、とても大切なものだと私は思う。





 


*


「詩はどこにあるか」1月の詩の批評を一冊にまとめました。

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目次

瀬尾育生「ベテルにて」2  閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12  谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21  井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32  伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42  喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55  壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62  福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74  池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84  植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94  岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105  藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116  宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
森口みや「余暇」129
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