詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

最果タヒ「東京タワー」

2018-02-06 12:06:28 | 詩(雑誌・同人誌)
最果タヒ「東京タワー」(毎日新聞2018年02月04日夕刊・西部版・4版)

 最果タヒ「東京タワー」。その前半。ルビを省略して引用する。

ガラスの上に立ち、ここが底だと思う時、ぼくの
足元に広がるいくつもの夜景が、大地にうずまる
化石に変わる、あの日からぼくの呼吸はリサイク
ルされ、なんどもぼくの肺を通過し、いつのまに
か温度も匂いもぼくと同じものに変わっていった、
身体と世界の境界線になんの意味があったのだろ
う、きみがこの世界にいることになんの意味があ
るのだろう、円錐のようにぼくの命は広がりつづ
け、終わることを知らない、痛みが、脈動となっ
てぼくを貫くとき、ぼくは知っている、ぼくの本
当の精神はただ平坦にひろがる水たまりのように、
この世界にあるのだということ。

 「ガラス」は「水たまり」の比喩。水たまりに立って、その水面(ガラス)に映る世界を見ている。地上(あるいは天空)にあるものが、逆さまになって「大地にうずまる」。そういうものを見ている。このことばをとおして、私は最果の「見たもの」を「見る」。詩というのは、(あるいは文学全体がそうかもしれないが)、作者が「見たもの」を「見る」ということを読者が体験すること、ことばをとおして追体験すること。
 だけでは、たぶん不十分だ。
 作者が「見たもの」を「見る」だけでは、理解したことにならない。この作品は、そうえてくれる。
 「見たもの」を「見る」のではなく、「見る」という「動詞」そのものを自分のこととして引き受ける。それが作品を読む、ということだ。「見る」という「肉体」そのものになってしまうこと、それが作品を読むということだ。

 この作品では、最果は、そのことを実行している。「ぼく」という人間が仮構されている。その「ぼく(仮の詩人)」詩人が「見たもの」を「見る」のではなく、「見る」という「動詞」そのものになっていく。
 「見えたものを見る」ではなく「見る」になるということは、「呼吸」になることだと最果は言いなおしている。「見えるもの」の世界の中で、「呼吸する」。世界を呼吸することが「ぼくの見る」を「見る」として引き受けることだ。「リサイクル」は「なんども」ということばくぐりぬけ、「通過」ということばをくぐりぬけ、「境界線」を消してしまう。「区別」がなくなり、「命」「痛み」「脈動」が、世界を「貫く」。「見る」を「呼吸する」という「動詞」でつかみなおしたあと、それは「貫く」という「動詞」に変わる。「見る」とは「貫く」ことだ。
 そう言いなおした時、最果は「ぼく」を貫いて別な人格、詩人になっている。詩人になるために「ぼく」という「仮構」が必要だった。

                  ぼくの本
当の精神はただ平坦にひろがる水たまりのように、
この世界にあるのだということ。

 この部分の「ただ」を私は「ただ平坦に広がる」という具合には読みたくない、とふと思う。「水たまりのように」という「直喩」の「水たまり」の姿を強調することばとつつづけて読みたくないという気持ちに襲われる。もちろんそのことばともつながっているのだが、「直喩」が指し示す「水たまり」を飛び越えて、「ただ、ある」と読みたい気持ちになる。
 この世界に、「ただ、このようにして、ある」。私がおぎなった「このようにして」というのは「貫いて」ということだ。「貫く」という「動詞」として、この世界に「ある」。そして、その「貫いて、ある」という一つの形(言い直し)が「水たまり」であり、また「平坦」であり「ひろがる」でもある。
 ことばを「限定」させずに、動いていくものとして読みたい。そのときに「貫く」がいっそういきいきと動く。どこまでもひろがるように感じられる。

 


*


「詩はどこにあるか」1月の詩の批評を一冊にまとめました。

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目次

瀬尾育生「ベテルにて」2  閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12  谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21  井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32  伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42  喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55  壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62  福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74  池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84  植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94  岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105  藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116  宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
森口みや「余暇」129
オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



以下の本もオンデマンドで発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考

2018-02-06 11:17:34 | 映画
監督 マーティン・マクドナー 出演 フランシス・マクドーマンド、ウッディ・ハレルソン、サム・ロックウェル

 マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」は脚本が非常によくできている。しかし、それは映画向きではない。舞台向きだ。
 ラストシーン。フランシス・マクドーマンドとサム・ロックウェルが「レイプ魔」らしい男を殺しに行く。その途中で「ほんとうに殺す?」というようなことを相談する。「行く途中で考える」というような、やりとりだ。これは「舞台」なら余韻のある幕切れだが、映画では不完全燃焼である。「台詞」が邪魔だ。ことばに頼らずに、「どうする?」「ドライブしながら考える」というのを、「肉体(表情)」で伝えないと映画にならない。ことばで説明してしまうので、「余韻」を押しつけられる感じがするのである。
 芝居は、「一声、二姿、三顔」という。これをもじって言えば、映画は「一顔、二姿、三声」である。初期の映画が「無声映画」であったように、ことばは「補足」。なくてもわかるのが「映画」である。表情の変化を見せるために巨大スクリーンがある。そのことをこの映画は忘れてしまっている。そして、ことばに頼っている。
 もし、これが「舞台」だったら、と想像してみよう。そうすると「脚本」の「傑作」さ加減がわかる。
 まず最初に登場する赤いビルボード(看板)。「警察所長は何をしている」「犯人逮捕はまだか」「娘はレイプされ、焼き殺された」という文字は、舞台なら「一幕」中、ずーっと「背景」として存在する。観客はいつでも「看板(文字、ことば)」を見ながら役者の演技を見る。フランシス・マクドーマンドが何を言うたびに、そこに「声にならない声」があると気づかされる。実際に「声」でいわなくても「警察所長は何をしている」「犯人逮捕はまだか」「娘はレイプされ、焼き殺された」も、それが「聞こえる」。看板は、フランシス・マクドーマンドの、もうひとつの「顔」であり、「姿」である。その赤い色、黒い大きな文字は怒りと悲しみの「声」である。つまり、舞台では、常にフランシス・マクドーマンドが二人いることになるのだ。「生身」の肉体と、「看板」になった肉体。その「拮抗」が芝居そのものをつくっている。
 映画では、その拮抗が薄れる。緊張感が「舞台」ほどもりあがらない。「警察所長は何をしている」「犯人逮捕はまだか」「娘はレイプされ、焼き殺された」と、観客が常に思い出さないといけない。その声は聞こえるは聞こえるが、「記憶」としての声である。常に看板が目の前にあり、それが「現実」として見えるわけではない。「声」の見え方が違う。フランシス・マクドーマンドは頑張っているが、「警察所長は何をしている」「犯人逮捕はまだか」「娘はレイプされ、焼き殺された」が観客の意識に常に「見える」わけではない。それが「ドラマ」の拮抗を弱くしている。
 この映画が「声(ことば)」に頼っている、という欠点は、ストーリーがウッディ・ハレルソンの自殺を契機に動くところに極端に現れている。ウッディ・ハレルソンは自殺することで「ことば(遺書)」を残す。それがフランシス・マクドーマンドにもサム・ロックウェルにも働きかけ、ふたりをつなぐことにもなる。「ストーリー」としては「芝居」であろうが「映画」であろうが、同じだが、「声」を問題にするとまったく違う。
 「舞台」は何度でも書くが、「声」を聞く場である。観客はまず何よりも「役者の声(ことば)」を共有する。声の変化、強さ、スピード、明るさ、暗さ。「声」がぶつかりあって、それが「感情(肉体)」のぶつかりあいになる。「声」が「空間」を支配し、「声」の飛び交う空間(劇場)そのものが観客の「肉体」になるとき、「劇場」全体が昂奮する。そこでは「顔」の占める「領域」は小さい。
 「声」を聞かせるものだから、それが「遺書」であっても、かまわない。またその「声」が必ずしもウッディ・ハレルソンのものでなくてもいい。ウッディ・ハレルソンの「声」ではじまり、途中からフランシス・マクドーマンド、サム・ロックウェルの「声」に変わったとしても、(あるいはフランシス・マクドーマンド、サム・ロックウェルの「声」ではじまり、ウッディ・ハレルソンの声に変わったとしても)、それは「声」を弱めるのではなく、逆に「声」を強くすることになる。「声(ことば)」が共有され、死者と生きているものによって共有され、その共有がそのまま観客に共有されるからだ。
 これは「舞台」でなら、絶大の効果をあげる。(と、思われる。)
 でも、映画では逆に「興ざめ」になる。「声」が聞こえるとき、その「声」の持ち主の姿は見えず、読んでいるフランシス・マクドーマンド、サム・ロックウェルが見えるだけだからである。映画の「撮り方」に問題があるのだ。「映画」になりきれていないのだ。自殺するシーンそのものに「遺書の声」がかぶさる、あるいは「遺書のことば」を一気に読み上げるのではなく、断片的に別なシーンに重なる形で紹介されるというのでないと、「意味」だけが押しつけられたものとして残る。三枚の看板のように、三通の手紙(妻と、フランシス・マクドーマンド、サム・ロックウェルの三人への手紙)として、観客が「意識」しないとストーリーが展開しなくなる。役者の「肉体」が「そえもの」になってしまう。「声」と「肉体」が戦わなくなってしまう。
 舞台では、そこに常に「生身」の「肉体」がある。その「肉体」を突き破って「声」が動く。暴れる「声」と「肉体」が常に向き合っている。ときに戦い、ときに助け合い、「声」と「肉体」が同時に解放される瞬間を目指している。
 映画は違う。
 映画は、常に「顔(肉体)」が解放される瞬間を待っている。「顔」がかわる瞬間、役者が役者ではなく、「生身の人間」になる瞬間を待っている。それを観客は見る。そのとき観客の「肉体」のなかで、観客の「声」が動く、観客自身の「声」が生まれてくるというのでないと、映画とは言えない。それを、この監督は理解していない。人間が微妙にからみあい、そこから人間が変化していくという「ストーリー」は完璧だが、それは「ストーリー(脚本)」として完璧なのであって、「映画」としては不完全である、と私は思う。
(T-joy博多、スクリーン2、2018年02月04日)

 
 


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瀬尾育生「ベテルにて」2  閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12  谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21  井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32  伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42  喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55  壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62  福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74  池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84  植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94  岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105  藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116  宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
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以下の本もオンデマンドで発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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