最果タヒ「東京タワー」(毎日新聞2018年02月04日夕刊・西部版・4版)
最果タヒ「東京タワー」。その前半。ルビを省略して引用する。
ガラスの上に立ち、ここが底だと思う時、ぼくの
足元に広がるいくつもの夜景が、大地にうずまる
化石に変わる、あの日からぼくの呼吸はリサイク
ルされ、なんどもぼくの肺を通過し、いつのまに
か温度も匂いもぼくと同じものに変わっていった、
身体と世界の境界線になんの意味があったのだろ
う、きみがこの世界にいることになんの意味があ
るのだろう、円錐のようにぼくの命は広がりつづ
け、終わることを知らない、痛みが、脈動となっ
てぼくを貫くとき、ぼくは知っている、ぼくの本
当の精神はただ平坦にひろがる水たまりのように、
この世界にあるのだということ。
「ガラス」は「水たまり」の比喩。水たまりに立って、その水面(ガラス)に映る世界を見ている。地上(あるいは天空)にあるものが、逆さまになって「大地にうずまる」。そういうものを見ている。このことばをとおして、私は最果の「見たもの」を「見る」。詩というのは、(あるいは文学全体がそうかもしれないが)、作者が「見たもの」を「見る」ということを読者が体験すること、ことばをとおして追体験すること。
だけでは、たぶん不十分だ。
作者が「見たもの」を「見る」だけでは、理解したことにならない。この作品は、そうえてくれる。
「見たもの」を「見る」のではなく、「見る」という「動詞」そのものを自分のこととして引き受ける。それが作品を読む、ということだ。「見る」という「肉体」そのものになってしまうこと、それが作品を読むということだ。
この作品では、最果は、そのことを実行している。「ぼく」という人間が仮構されている。その「ぼく(仮の詩人)」詩人が「見たもの」を「見る」のではなく、「見る」という「動詞」そのものになっていく。
「見えたものを見る」ではなく「見る」になるということは、「呼吸」になることだと最果は言いなおしている。「見えるもの」の世界の中で、「呼吸する」。世界を呼吸することが「ぼくの見る」を「見る」として引き受けることだ。「リサイクル」は「なんども」ということばくぐりぬけ、「通過」ということばをくぐりぬけ、「境界線」を消してしまう。「区別」がなくなり、「命」「痛み」「脈動」が、世界を「貫く」。「見る」を「呼吸する」という「動詞」でつかみなおしたあと、それは「貫く」という「動詞」に変わる。「見る」とは「貫く」ことだ。
そう言いなおした時、最果は「ぼく」を貫いて別な人格、詩人になっている。詩人になるために「ぼく」という「仮構」が必要だった。
ぼくの本
当の精神はただ平坦にひろがる水たまりのように、
この世界にあるのだということ。
この部分の「ただ」を私は「ただ平坦に広がる」という具合には読みたくない、とふと思う。「水たまりのように」という「直喩」の「水たまり」の姿を強調することばとつつづけて読みたくないという気持ちに襲われる。もちろんそのことばともつながっているのだが、「直喩」が指し示す「水たまり」を飛び越えて、「ただ、ある」と読みたい気持ちになる。
この世界に、「ただ、このようにして、ある」。私がおぎなった「このようにして」というのは「貫いて」ということだ。「貫く」という「動詞」として、この世界に「ある」。そして、その「貫いて、ある」という一つの形(言い直し)が「水たまり」であり、また「平坦」であり「ひろがる」でもある。
ことばを「限定」させずに、動いていくものとして読みたい。そのときに「貫く」がいっそういきいきと動く。どこまでもひろがるように感じられる。
*
「詩はどこにあるか」1月の詩の批評を一冊にまとめました。
詩はどこにあるか1月号注文
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ここをクリックして1750円の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。
目次
瀬尾育生「ベテルにて」2 閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12 谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21 井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32 伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42 喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55 壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62 福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74 池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84 植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94 岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105 藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116 宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
森口みや「余暇」129
オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009
(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
最果タヒ「東京タワー」。その前半。ルビを省略して引用する。
ガラスの上に立ち、ここが底だと思う時、ぼくの
足元に広がるいくつもの夜景が、大地にうずまる
化石に変わる、あの日からぼくの呼吸はリサイク
ルされ、なんどもぼくの肺を通過し、いつのまに
か温度も匂いもぼくと同じものに変わっていった、
身体と世界の境界線になんの意味があったのだろ
う、きみがこの世界にいることになんの意味があ
るのだろう、円錐のようにぼくの命は広がりつづ
け、終わることを知らない、痛みが、脈動となっ
てぼくを貫くとき、ぼくは知っている、ぼくの本
当の精神はただ平坦にひろがる水たまりのように、
この世界にあるのだということ。
「ガラス」は「水たまり」の比喩。水たまりに立って、その水面(ガラス)に映る世界を見ている。地上(あるいは天空)にあるものが、逆さまになって「大地にうずまる」。そういうものを見ている。このことばをとおして、私は最果の「見たもの」を「見る」。詩というのは、(あるいは文学全体がそうかもしれないが)、作者が「見たもの」を「見る」ということを読者が体験すること、ことばをとおして追体験すること。
だけでは、たぶん不十分だ。
作者が「見たもの」を「見る」だけでは、理解したことにならない。この作品は、そうえてくれる。
「見たもの」を「見る」のではなく、「見る」という「動詞」そのものを自分のこととして引き受ける。それが作品を読む、ということだ。「見る」という「肉体」そのものになってしまうこと、それが作品を読むということだ。
この作品では、最果は、そのことを実行している。「ぼく」という人間が仮構されている。その「ぼく(仮の詩人)」詩人が「見たもの」を「見る」のではなく、「見る」という「動詞」そのものになっていく。
「見えたものを見る」ではなく「見る」になるということは、「呼吸」になることだと最果は言いなおしている。「見えるもの」の世界の中で、「呼吸する」。世界を呼吸することが「ぼくの見る」を「見る」として引き受けることだ。「リサイクル」は「なんども」ということばくぐりぬけ、「通過」ということばをくぐりぬけ、「境界線」を消してしまう。「区別」がなくなり、「命」「痛み」「脈動」が、世界を「貫く」。「見る」を「呼吸する」という「動詞」でつかみなおしたあと、それは「貫く」という「動詞」に変わる。「見る」とは「貫く」ことだ。
そう言いなおした時、最果は「ぼく」を貫いて別な人格、詩人になっている。詩人になるために「ぼく」という「仮構」が必要だった。
ぼくの本
当の精神はただ平坦にひろがる水たまりのように、
この世界にあるのだということ。
この部分の「ただ」を私は「ただ平坦に広がる」という具合には読みたくない、とふと思う。「水たまりのように」という「直喩」の「水たまり」の姿を強調することばとつつづけて読みたくないという気持ちに襲われる。もちろんそのことばともつながっているのだが、「直喩」が指し示す「水たまり」を飛び越えて、「ただ、ある」と読みたい気持ちになる。
この世界に、「ただ、このようにして、ある」。私がおぎなった「このようにして」というのは「貫いて」ということだ。「貫く」という「動詞」として、この世界に「ある」。そして、その「貫いて、ある」という一つの形(言い直し)が「水たまり」であり、また「平坦」であり「ひろがる」でもある。
ことばを「限定」させずに、動いていくものとして読みたい。そのときに「貫く」がいっそういきいきと動く。どこまでもひろがるように感じられる。
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目次
瀬尾育生「ベテルにて」2 閻連科『硬きこと水のごとし』8
田原「小説家 閻連科に」12 谷川俊太郎「詩の鳥」17
江代充「想起」21 井坂洋子「キューピー」27
堤美代「尾っぽ」32 伊藤浩子「帰心」37
伊武トーマ「反時代的ラブソング」42 喜多昭夫『いとしい一日』47
アタオル・ベフラモール「ある朝、馴染みの街に入る時」51
吉田修「養石」、大西美千代「途中下車」55 壱岐梢『一粒の』59
金堀則夫『ひの土』62 福田知子『あけやらぬ みずのゆめ』67
岡野絵里子「Winterning」74 池田瑛子「坂」、田島安江「ミミへの旅」 78
田代田「ヒト」84 植村初子『SONG BOOK』90
小川三郎「帰路」94 岩佐なを「色鉛筆」98
柄谷行人『意味という病』105 藤井晴美『電波、異臭、工学の枝』111
瀬尾育生「マージナル」116 宗近真一郎「「去勢」不全における消音、あるいは、揺動の行方」122
森口みや「余暇」129
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(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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