詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

時里二郎「佐飛島」、山本育夫『新しい人』

2019-05-02 14:18:10 | 詩(雑誌・同人誌)
時里二郎「佐飛島」、山本育夫『新しい人』

 時里二郎の作風は「短歌」を引用し始めたころから激変した。「音」の構造が変わり始めた。それまでは「論理(散文)」の音楽(リズム)だったものが、そこに「韻文(音色)」が加わった。最初は「装飾」にも思えたが、いまは「韻文」が「散文」をのっとり、「構造(旋律)」になろうとしているようにも感じられる。
 「佐飛島」( 「森羅」16、2019年05月09日発行)は「さびしま」とルビが打ってある。

チチ チチ チチチ と見えない鳥が鳴いて
そのふちが移動していく
いつかの朝から
返ってきた葉書には
消印がない

 「見えない」「ふち」(周辺)「移動」「返ってきた」(無効)「消印」(しるし)「ない」と時里語とでもいうべきものを満載して詩が始まる。「散文詩」の時代は、これらのことばが世界を何重にも構造化していた。構造の中に構造がある、という感じ。構造の「迷宮」と呼んでもいい。「迷宮」そのものが「散文の音楽構造(加速し強靱になるリズム)」だった。ある意味では「窮屈」だったが、それに「音韻」を加え始めた。
 で、今回は、行分け詩。

 途中を省略し、そのなかほどあたり。

あなたのひろげた島嶼の地図
佐飛島のあたりを
ゆびでさすって
ここ ここ ここよ
地図にないさびしまのあたりを
わたしの指はなぞりかえし
さびしまの・・・
なにに継いでよいのか 枕詞のような
島の名を
あなたのくちにうつして
みみのおくから きおくのおくの
ふるいうたのはのさきにゆきつく

鳰鳥ノカヅキ息ヅキ 佐飛島ノ・・・

そのあとの句が思い出せない

 「ない」ものを反復する。「ない」ものにも「周辺」は「ある」。つまり「ない」は、いま「ない」だけであり、かつては「あった」であり、それが記憶の周辺(縁)」をつくる。それを「指」ではなく、「ことば」でなぞる。ただ「なぞる」のではなく「なぞりかえす」。反復によって、「肉体」のなかに記憶が生きはじめる。動きはじめる。何かが生まれる。それは「枕詞」のように、かつては明確な「もの」を指し示していたはずのものへと繋がっている。「奥深いところにあるいのち」。
 それを「意味」よりも「ひびき」としてつかみとろうとして、「ことば」が動いている。
 これをどう受け止めるかは、ちょっとむずかしい。
 「好みの問題」と言ってしまうと簡単なんだけれどね。
 私はめんどうくさいことよりも簡単なことが好きなので、簡単を選ぶ。つまり、「好み」を言う。
 私は、こういう「ひびき」が嫌いである。「ひびき」による「音楽」が苦手である。音痴だからかもしれない。「佐飛島」という「漢字」を「さびしま」と読ませ、そこから「さびしい」という音を引き継ぐ。この何かを失って「さびしい」という感情をたどりなおすという「抒情の構造」が好きになれない。
 そこに美しさがあることはわかるが、美しいからこそ、私は警戒したくなる。どう警戒すればいいのか、よくわからない。だから「好きになれない」(嫌い)と言うことで、そこに近づくことを「保留する」。

 山本育夫『新しい人』(書肆・博物誌、2018年10月01日発行)の「音楽」は時里の音楽とは違っている。
 「鳥の目」。

団子状の土くれの、散在する、草原を抜けた、白
い見上げるほどの、しぶきの様な化石の間から、
しみじみと、ント、シミージミ、っと、寝転んで、
草の穂の、テッペン、ごしの、土くれの頭を、み
つめていた、手に触れていた、手に持ち上げ、手
に、手を取り、取り上げ、手に、その土くれを、
手で、手が、こしわり、手とともに。

 句点「、」が多い。ことばがぶつぶつ途切れる。同じことばが何度も出てくる。読んでいて、なんだか面倒くさくなる。もっと「簡潔」に書く方法があるはずだ。ことばが「不経済」なのだ。「しみじみと、ント、シミージミ、っと、」に意味がない。あるかもしれないけれど、そんな意味など気にしなくてもいい。
 はずなのに。
 その「意味」にならない部分の、何か「肉感的」な部分が気になる。「しみじみと、ント、シミージミ、っと、」の音と「テッペン」がどこかでつながる。促音とか発音とかのリズムかなあ。そこから「手」が「意味」になって出てくる。生えてくる、と言いなおせるかも。
 でも、こんな詩で(失礼!)、「意味」などと言ってみても、何にもならない。「意味」なんて、つくろうと思えばテキトウにでっちあげられる。寝転んで、手を伸ばして、土をつかみ取ることで自分の肉体感覚を確認し、それを言語化する。無意味なことをする肉体の存在の不思議さとことばの交錯とかなんとか……。ちょっと「外国」経由の思想用語を交えれば「批評」をでっちあげることができるだろうと思う。
 私は、そういうことには興味がない。
 この詩の後半。

カサリカサリッ、と奇妙に。くすぐったい音をた
てて、ッカサリ、ツ、カサリ、ツカサリッ、ッ、
ツツツツッ、落ちては、ムクリ、ムックリ、ッっ、
と。自国語。自国語。時刻。後。の。白い。ッシ
イロオイ。ッ。化石化石化石化石か咳、がががが
ががっ、ポカリ、ッポカリット、ソウ、草原の上

 「音」の羅列の中から「自国語」「時刻」「化石」「咳」という「表意」があらわれてくる。「意味」ではないよ。あくまで「表意」だよ。
 それが何なのか、と問われたら答えようがないのだが、ここには「抒情の論理」がないといってもかまわないだろうと思う。
 「さびしい」とか「かなしい」とか。
 そういう「気持ち」へなだれていくものがない。そこに私は安心感を覚える。わけがわからないけれど、この「音楽」についていったら、何か楽しいことがあるかもしれないと感じる。
 「旋律」ではなく「リズム」がことばを動かしている、という感じが好きなのかもしれない。こういう「感じ」で押し切るのは「わがまま」な感想だが、私は最初から最後まで「わがまま」を通す人間である。





*

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池澤夏樹のカヴァフィス(134)

2019-05-02 10:07:44 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
134 あなたは理解しなかった

頭が空っぽのユリアヌスが我らの信仰について
こう述べた--「読んだ、理解した、
退けた」。愚かにも彼は我らがその
「退けた」ということばで降参すると思った。

この種の機知は我らキリスト教徒には通用しない。
即答しよう。「読まれたが理解されなかった。
理解したら退けるはずがないのだから」。

 二連目の「機知」は、訳詩を読んだだけではわからない。だから池澤は一連目の「読んだ、理解した、/退けた」について註釈をつけている。原文はギリシャ文字が含まれているので、趣旨を要約の形で引用すると……。

この三つの動詞は(カタカナで書けば)「アネグノン、エグノン、カテグノン」と韻を踏んでいる。そして、言葉の成り立ちとしては「アネグノン(知る)」の前に「上へ」「下へ」という意味の接頭辞をつけると、「理解した」「退けた」になる。対になっているとも言えるが、しかし生成された語意は大きく異なる。

 「上に置くに値すると知った/評価した/理解した」「下に置けばいいと知った/評価しなかった/退けた」と読み解けば「語意は大きく異なる」とは言えないと思うが、ようするに「機知」とは「韻を踏む」ことである。「韻」のなかに「意味」を交錯させる。瞬間的にことばとことばを渡って、意識が動く。遊びの中で「真実」をつかむ。
 だから、この「機知」とは、一連目の「言葉で降参する」(言葉で言い負かす)を言いなおしたものであることがわかる。
 キリスト教徒はユリアヌスをばかにしているが(批判しているが)、カヴァフィスは逆だろうと思う。「韻を踏むことば」に詩を感じ、それを評価している。そしてその刀で「機知は(彼ら)キリスト教徒には通用しない(理解できない)」と間接的に語る。

 さらに池澤は書いていないのだが、ユリアヌスの「機知」が「韻を踏む詩」なら、キリスト教徒の「機知」は「論理」である。「理解した(上に奥と値すると知った)」なら、それを「下に置く(退ける)」ということばを言えるはずがない。ギリシャ語ではどうなっているかわからないが、池澤の訳文の「……のだから」は「論理(散文)」のことば、ことばの運動を整え、「結論」へと動いていくことばである。
 詩と散文が「対」になっている。シェークスピアの「ジュリアス・シーザー」の「演説」の対比のようなものだ。「対」のなかに「劇」があり、「劇」のなかに真実がある。





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