詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「加憲」という罠

2019-05-04 23:03:49 | 自民党憲法改正草案を読む
「加憲」という罠
             自民党憲法改正草案を読む/番外259(情報の読み方)

「日刊ゲンダイDIGITAL 」(2019年05月04日)に恐ろしい記事が載っていた。
 長いが、全文を引用する。

下村博文氏また“詭弁”「自衛隊明記は加憲」で猛反発買う

 安倍首相が読売新聞で突如宣言した「2020年改正憲法施行」から丸2年。憲法記念日だった3日、9条改憲を巡って首相の側近が性懲りもなく詭弁を弄し、猛反発を買っている。改憲論議に乗ってこない野党を「職場放棄ではないか」と挑発して墓穴を掘った自民党の下村博文憲法改正推進本部長だ。
「令和の時代 憲法を考える」と題したNHKの特番で、与野党幹部が共演。討論の先陣を切った下村は「9条は変えない。解釈も変えない。自衛隊を明記することで、違憲論争に終止符を打つ。それを加憲の中で明確化したい」などと発言。「自衛隊明記は加憲だ」と繰り返し、戦争放棄や戦力不保持を定めた9条1、2項の解釈は変わらないと主張した。
 このヘリクツに立憲民主党の山花郁夫憲法調査会長は「解釈論として無理がある」と真っ向反論し、共産党の小池晃書記局長も「フリーハンドで海外で戦争できる国になる」と批判。公明党の北側一雄憲法調査会長も「違憲論を払拭したいとの理由は理解できない」と距離を置いた。
 安倍政権のやり方は相変わらずだが、憲法学の第一人者である東大名誉教授の樋口陽一氏は朝日新聞(3日付朝刊)で「フェイク(虚偽)」と断じ、こう喝破していた。
「書き加えるという行為の持つ法的な意味について理解が足りないと感じますね。基本的な法原則の一つに『後の法は先の法を破る』があります」「憲法9条の条文は削らないまま単純に自衛隊の存在を書き足したら、場合によっては残った現在の条項は失効する恐れがあるのです。戦争放棄をうたった1項と、戦力不保持を定めた2項です」
 聖学院大教授の石川裕一郎氏(憲法)も言う。
「加憲だから9条の解釈は変わらないとする下村氏の主張はあり得ない。多くの指摘があるにもかかわらず、強弁し続けるのは国民をダマし通せるとタカをくくっているからではないのか」
 デタラメ改憲論、フェイク政権にこそ終止符を打つ時だ。

 「日刊ゲンダイ」は「詭弁」という指摘で終わっているが、自民党の狙いは「詭弁」のなかにある。
 「加憲」ということばから、法律や憲法に詳しくないひとは、どういうことを思うだろうか。
 下村の言う「9条は変えない。解釈も変えない。自衛隊を明記することで、違憲論争に終止符を打つ。それを加憲の中で明確化したい」を、そのまま鵜呑みにするだろう。
 「集団的自衛権」が認められたときのことを思い返すとわかりやすい。
 「集団的自衛権」を多くのひとはどう受け止めたか。安倍支持派は、どう受け止めたか。
 日本が北朝鮮(あるいは中国)から攻撃されたとき、日本だけでは防衛できない。アメリカと(あるいはアジアの他の国とも)協力して、いっしょに、つまり「集団」で日本を守らなければならない。アメリカの協力なしで、「個別的自衛権」では防衛できない。「集団的自衛権」が必要だ、と「理解」した。
 私はそういうひととネットで何回か対話したことがあるが、彼らは、「中東でアメリカが攻撃されたら、日本はアメリカを支援するために中東へ自衛隊が行くことが『集団的自衛権』の行使である」という「説」には納得しない。「日本が、北朝鮮から攻撃を受けたら、どうやって守るか。アメリカ軍と集団として行動しない限り自衛できない」と言うだけなのである。さらには「日本が攻撃されたら、おまえはどうするか。家族が殺されるかもしれないのに戦わないのか」と論理をすり替える。
 誰でもそうかもしれないが(私もそうなのかもしれないが)、「新しいことば」に出会ったとき、ひとは自分の知っている知識を総動員して、その「意味」を考える。
 「集団的自衛権」は「集団」と「自衛権」を組み合わせたことばである。「集団で自衛する」。そう解釈してしまいがちである。「個別的自衛権」と「集団的自衛権」はどう違うのか。さらには「日米安保条約」とどう違うのか。そういう「めんどうくさい」ことは考えない。「集団的自衛権」だから「集団で守る」、それ以外の意味はない。アメリカへの攻撃を、日本への攻撃と受け止め、アメリカの戦いに日本が協力すること、とは考えない。アメリカ軍の方が日本軍より強い。強い軍隊は応援しなくてもいい。弱いからこそ、アメリカに応援してもらう必要がある。日本はアメリカ軍に守ってもらう必要がある。
 この「思い込み」をときほぐすのは、とてもむずかしい。北朝鮮、中国は恐い、という思いが先に立ち、それが「ことばの意味」を勝手にねじまげてしまう。
 自民党は、こういう「錯覚を誘うことば」を巧みに利用したのだ。

 今回も同じ作戦である。
 自衛隊は書き加えるが、「9条は変えない。解釈も変えない。」、つまり「加憲」だと言い張る。
 いまある憲法に、新しい文言を書き加えると、いまの文言はどうなるのか、どう解釈されるようになるのか、それを説明しない。
 憲法学者は、「基本的な法原則の一つに『後の法は先の法を破る』があります」というだけである。それがどういうことなのか、具体的に説明しないのも問題だが、それをわかりやすく解説しなおさない日刊ゲンダイの記事にも問題がある。
 9条そのものの「解釈」から見直してみればいい。
 9条でも、「後の法」の問題を指摘できる。2項の「前項の目的を達するため、」というひとことがキーワードというか、問題になる。
 この前項の「国際紛争を解決する手段としては」を引き継いで「国際紛争を解決するという目的を達するため」と読み替えることで、「国際紛争を解決する目的ではなく、日本が武力攻撃されたとき、日本の安全を守るためという目的( 手段) のための『自衛隊』までは否定していない」と、ふつうは( 多くの場合は) 言われている(解釈されている)だと思う。
 法律について何も知らない私が、日本が攻撃されたときも「国際紛争」だから、「国際紛争を解決する手段として」「戦争」も「武力の行使」もできないのではないか、と主張する。すると、それは即座に「自衛権」と「戦争」は違う。「2項の、前項の目的を達するため、」ということばがあるのは、「自衛権までを否定しないため」。2項の方が1項に優先する、と反論される。
 こういうことが「後の法は先の法を破る」(後の法が先の法に優先する)ということと私は理解している。
 で、3項に「自衛隊」が書き加えられたら、自衛隊の行動が簡単に「優先」されてしまう。安倍の指揮権が「優先」されてしまうということが起きる。
 「国際紛争を解決する手段として」「自衛隊が武力を行使することはできない」とは言えなくなる。「戦争は」「永久にこれを放棄する」も、「国の交戦権は、これを認めない」も破られてしまう。
 「加憲」という行為は、そういうことが簡単にできてしまう。
 「加憲」は「改憲」どころの騒ぎではない。完全な「憲法改悪」であり、しかも「改悪」であることをごまかすための「新しいことば」なのだ。

 NHKを見ていないので、日刊ゲンダイの記事から推測するだけだが、野党の反論は、あまりにも形式的だ。
 政治の専門家なのだから、「加憲」ということばの「ごまかし」を明確に指摘しないといけない。

 今回の下村の発言は、安倍の言う「2020年改憲施行」を実現するための、国民への「宣戦布告」である。今後、安倍は「改憲」とは言わずに、「加憲」ということばを繰り返すに違いない。「憲法を変えるわけではありません。いまの時代にあうように、必要なことをつけくわえるのです」と主張するだろう。
 「美しいことば」(知らないことば)に出会ったら、まず、疑うことからはじめよう。




#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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池澤夏樹のカヴァフィス(136)

2019-05-04 08:54:25 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
136 スパルタで

 詩の背景について、池澤が歴史を説明してくれている。

 スパルタの王クレオメネス三世(略)はマケドニアとアカイア同盟を相手の戦争で、エジプトのプトレマイオス三世の援助を求めた。それを受け入れる条件としてプトレマイオスはクレオメネスの子供たちと母クラテティシクレイアを人質としてアレクサンドリアに送ることを要求した。

 この要求をクレオメネスは「屈辱」と感じた。母は、どうか。

屈辱については、そんなものは気にしない。
言うまでもなく、ラギディス一族ごとき成り上がりに
スパルタの精神がわかるはずがない。
彼女のような高貴な女性にとって、
スパルタ王の母にとって、
彼らの要求は屈辱と受け取るにも値しないものなのだ。

 「屈辱」とは何か。自分よりも価値が低い人間(評価に値しない人間)の要求にしたがうことを、ふつうは屈辱と感じる。ところがこの母は「屈辱と受け取るにも値しない」と言う。
 なぜか。「ラギディス一族ごとき成り上がりに」

スパルタの精神がわかるはずがない。

 「精神」が重要である。さらに「わかる」が重要である。「精神がわかる」とは「精神を共有する」である。言い換えると「同じ価値観を生きる」である。
 「同じ価値観」を生きていない人に何を言われようが、それは「批評」にはならない。無意味だ。
 「スパルタの精神」はカヴァフィスには「ギリシャの精神」と言うに等しいのだろう。「ヘレニズム」と言い換えてもいいかもしれない。精神至上主義の強靱な思想をカヴァフィスは引き継いでいる。






カヴァフィス全詩
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