トーマス・ステューバー監督「希望の灯り」(★★★★★)
監督 トーマス・ステューバー 出演 フランツ・ロゴフスキ、サンドラ・フラー、ペーター・クルト
映画は、まるで「2001年宇宙の旅」のように始まる。始まってすぐ「あ、これは『2019年地球の旅』だ」と思った。
「美しき青きドナウ」に乗って、巨大スーパーの倉庫をフォークリフトが疾走する。巨大な棚は宇宙船の内部にも、ハルのメモリーにも見える。キューブリックに見せてやりたい。音楽と映像の融合は、それだけですでに完璧な映画だ。ストーリーなんか、いらない。
この映画は「音楽」だけではなく、「音」そのものにも非常に凝っている。スーパーの内部の、ノイズ(フォークリフトの走る音とか、荷物の上げ下ろしの音とか)がきちんと聞こえる。このあたりの処理は、ジャック・タチか。ジャック・タチは「日常の音」を取り出して見せたが、トーマス・ステューバーはただ「ノイズ」として、そこにほうりだしている。
「ノイズ」をていねいにとらえる一方、セリフはとても少ない。ほとんど何もいっていないくらいである。
で、そうこうしているうちに、変なことに気がつく。映画の音は「音楽(そこにはありえない楽曲)」か「ノイズ(現実にひそんでいる音)」のはずなのに、フランツ・ロゴフスキがサンドラ・フラーを陳列棚越しに見るとき、「海の音」が聞こえる。これは何だろうか。私は、フランツ・ロゴフスキがサンドラ・フラーに一目惚れしたことを象徴的にあらわしているのかと思った。女を見て海を思い出す。女を海だと思って見ている。打ち寄せる波のように、繰り返し繰り返し寄せてくるもの。いわば、フランツ・ロゴフスキだけに聞こえる「こころの音楽」。主人公にしか聞こえないのだけれど、その「音」を聞くことで観客は、主人公になってしまう。そういう「効果」を引き起こす「映画テクニック」と思って見ていた。聞いていた。実際、主人公は、女に引かれていく。それは他の従業員が見てもそれとわかるくらいだし、女もそれに気づく。
ところが、この「海の音」は「心象の音」ではなかった。
映画の最後の最後で、それがスーパーの中に「実在する音」だと明らかにされる。もちろん、多少処理が施してあって「海の音」に聞こえるようにしているのだが。
この「心象の音」が「実在の音」だと「種明かし」するシーンは、いろいろな映画音楽のなかでも特筆に値する美しさだ。今見たからそう思うのかもしれないが、いままで見た映画の中でもっとも美しい「音楽」だ。
武満徹の音楽を、ふと思った。武満徹の感想を聞いてみたい、と思った。
この「音楽」以外では、私は「ミツバチのささやき」でアナが父親の懐中時計のオルゴールの音に気づき、アナが気づいたと父親が気づくシーンと、「父パードレ・パドレーネ」で主人公が遠くから聞こえてくるオーケストラにこころを揺さぶられるシーン(実はオーケストラではなく一個のアコーディオンだったのだが、それがオーケストラに聞こえた)というシーンが好きだ。
このふたつの「音楽」と比べると、格段に新しい、画期的な「音楽」だと思った。「ノイズ」というものは世界に存在しない。あらゆる音が「音楽」にかわる可能性を秘めた響きであると宣言するのだから。
そして、この「音楽」のありかたは、映画のストーリーというが、テーマそのものにもなっている。人間の「幸福(希望)」というものは、どこにあって、どんなふうに生きているのかということを暗示するものになっている。
小さな作品だが、ぜひ、見てください。
(KBCシネマ2、2019年05月14日)
監督 トーマス・ステューバー 出演 フランツ・ロゴフスキ、サンドラ・フラー、ペーター・クルト
映画は、まるで「2001年宇宙の旅」のように始まる。始まってすぐ「あ、これは『2019年地球の旅』だ」と思った。
「美しき青きドナウ」に乗って、巨大スーパーの倉庫をフォークリフトが疾走する。巨大な棚は宇宙船の内部にも、ハルのメモリーにも見える。キューブリックに見せてやりたい。音楽と映像の融合は、それだけですでに完璧な映画だ。ストーリーなんか、いらない。
この映画は「音楽」だけではなく、「音」そのものにも非常に凝っている。スーパーの内部の、ノイズ(フォークリフトの走る音とか、荷物の上げ下ろしの音とか)がきちんと聞こえる。このあたりの処理は、ジャック・タチか。ジャック・タチは「日常の音」を取り出して見せたが、トーマス・ステューバーはただ「ノイズ」として、そこにほうりだしている。
「ノイズ」をていねいにとらえる一方、セリフはとても少ない。ほとんど何もいっていないくらいである。
で、そうこうしているうちに、変なことに気がつく。映画の音は「音楽(そこにはありえない楽曲)」か「ノイズ(現実にひそんでいる音)」のはずなのに、フランツ・ロゴフスキがサンドラ・フラーを陳列棚越しに見るとき、「海の音」が聞こえる。これは何だろうか。私は、フランツ・ロゴフスキがサンドラ・フラーに一目惚れしたことを象徴的にあらわしているのかと思った。女を見て海を思い出す。女を海だと思って見ている。打ち寄せる波のように、繰り返し繰り返し寄せてくるもの。いわば、フランツ・ロゴフスキだけに聞こえる「こころの音楽」。主人公にしか聞こえないのだけれど、その「音」を聞くことで観客は、主人公になってしまう。そういう「効果」を引き起こす「映画テクニック」と思って見ていた。聞いていた。実際、主人公は、女に引かれていく。それは他の従業員が見てもそれとわかるくらいだし、女もそれに気づく。
ところが、この「海の音」は「心象の音」ではなかった。
映画の最後の最後で、それがスーパーの中に「実在する音」だと明らかにされる。もちろん、多少処理が施してあって「海の音」に聞こえるようにしているのだが。
この「心象の音」が「実在の音」だと「種明かし」するシーンは、いろいろな映画音楽のなかでも特筆に値する美しさだ。今見たからそう思うのかもしれないが、いままで見た映画の中でもっとも美しい「音楽」だ。
武満徹の音楽を、ふと思った。武満徹の感想を聞いてみたい、と思った。
この「音楽」以外では、私は「ミツバチのささやき」でアナが父親の懐中時計のオルゴールの音に気づき、アナが気づいたと父親が気づくシーンと、「父パードレ・パドレーネ」で主人公が遠くから聞こえてくるオーケストラにこころを揺さぶられるシーン(実はオーケストラではなく一個のアコーディオンだったのだが、それがオーケストラに聞こえた)というシーンが好きだ。
このふたつの「音楽」と比べると、格段に新しい、画期的な「音楽」だと思った。「ノイズ」というものは世界に存在しない。あらゆる音が「音楽」にかわる可能性を秘めた響きであると宣言するのだから。
そして、この「音楽」のありかたは、映画のストーリーというが、テーマそのものにもなっている。人間の「幸福(希望)」というものは、どこにあって、どんなふうに生きているのかということを暗示するものになっている。
小さな作品だが、ぜひ、見てください。
(KBCシネマ2、2019年05月14日)