監督 ポール・シュレイダー 出演 イーサン・ホーク、アマンダ・セイフライド
ポール・シュレイダーの名前にだまされて、見てしまった。イーサン・ホークはぜんぜん好きになれない役者。ますます嫌いになった。
この映画の何がくだらないか。「情報量」を切り詰めて、「上品」を気取っているところだ。イーサン・ホークの暮らしている教会、その居住部分は実に簡素だ。必要最低限のものしかない。教会がそういうものであるかどうか、私は知らないが、「人間」のにおいというか、暮らしのにおいがない。
「情報量」を切り詰めるというのは、他のところでも徹底している、と言いたいのだが、一箇所だけ「情報」が溢れている。その「情報過多」の部分をどう見るかで、この映画の「見え方」がぜんぜん違ってくる。
問題のシーンはどこかというと。
イーサン・ホークの教会は、設立 150年(だったかな?)の祝いをする。その打ち合わせに金儲けをしたい人間がからんでくる。その男とイーサン・ホークのやりとり。イーサン・ホークはアマンダ・セイフライドを通して聞きかじった「自然保護運動」(あるいは環境破壊)のことを、自説として語る。上司(?)から、そのことをとがめられるくらい過剰に語る。
ここ、変でしょ?
自然保護に関心をもつ理由は、ただひとつ。アマンダ・セイフライドの存在。彼女には夫がいる。夫はカナダで逮捕されたのだが、アマンダ・セイフライドが妊娠しているとわかり、保釈された。その夫は地球の将来を心配して、こどもが誕生することには反対している。アマンダ・セイフライドは、夫を説得するよう、イーサン・ホークに依頼する、というのが「関係」のはじまりなんだけれど。
これは、どうしたって、嘘丸出しのスタート。
あからさまに言えば、イーサン・ホークとアマンダ・セイフライドは最初からできている。アマンダ・セイフライドはイーサン・ホークの子を妊娠した。「どうしよう」と相談に来たのだ。(イーサン・ホークが女たらしというか、どれくらい女にもてるかは、彼につきまとう女をもうひとり登場させることで暗示している。)
じゃまになったアマンダ・セイフライドの夫を、どう「処分」するか。過激な運動家にしてもう一度逮捕させるか。そのために「自爆スーツ」を登場させている。あるいは地球の将来を悲観して自殺させるか。つまり、自殺にみせかけて、射殺してしまうか。
どちらにしろ、イーサン・ホークを洗脳させてしまうくらいに、アマンダ・セイフライの夫が「自然保護」に夢中になっているということを「他人」に知らせる必要がある。その「証人としての他人」に、変な金儲けが狙いの男と上司が選ばれたわけだ。
あ、私の書いている「見方」は妄想?
そうかなあ。むしろ、映画全体が「妄想」なのだ、というのが私の見方。
映画はイーサン・ホークが日記を書くことにしたというところから始まるが、いい年をした男がなぜ突然「日記」なんか書こうと決意するのか。ありえない。「日記」なんて、よほど正直な人間でない限り、「他人が読む」ことを前提としている。だから、そこでは自分が考え出した、都合のいいことだけが書かれる。脳というのは、それでなくても、あらゆることを自分の都合のいいように変えてしまって「解釈」する。「事実」をねじまげてしまう。
で、この「妄想映画」が「妄想」に過ぎないという「種明かし」は、イーサン・ホークのアマンダ・セイフライドの「瞑想ごっこ」に「妄想シーン(非現実的シーン)」を重ねることでおこなわれる。な、なんと、横たわったイーサン・ホークの上にアマンダ・セイフライドが重なり、両手をあわせると、二人の体は宙に浮き、幻想の世界を飛んでゆくのだ。あきれかえってしまうではないか。
ラストシーンはどうなるか。
妄想のでたらめの収拾がつかなくなってしまっている。イーサン・ホークに「自爆テロ」まがいのことをさせようとしたり、キリストの苦難を体現させようとしたり、でも、アマンダ・セイフライドがイーサン・ホークを見つけ出し、キスをしてめでたしめでたし。その後、どうなったかを描かず、突然終わる。結論を観客に委ね化「芸術映画」を装う。
なんだ、これは。
イーサン・ホークがマンダ・セイフライドができていたというのも「妄想」で、こんなふうにハッピーエンドになりたいという「妄想日記」を映画にしたのかもしれない。
「解釈」はどうとでも言ってしまえる。
きちんと「意味」を通すなら(ストーリーを意味にするなら)、どこかの大衆食堂のようなところの「過剰なおしゃべり」と、ラストの直前の「瞑想ごっこ/幻想シーン」を整理しないと、「自然保護団体」から苦情が来るぞ。
私は「苦悩」を「高級」と定義する考え方が大嫌い。こういう「芸術みせかけ」映画も大嫌い。「金返せ、いや、金はくれてやるから時間を返せ」と叫びたい。何が「魂のゆくえ」だ。
(KBCシネマ2、2019年05月10日)
ポール・シュレイダーの名前にだまされて、見てしまった。イーサン・ホークはぜんぜん好きになれない役者。ますます嫌いになった。
この映画の何がくだらないか。「情報量」を切り詰めて、「上品」を気取っているところだ。イーサン・ホークの暮らしている教会、その居住部分は実に簡素だ。必要最低限のものしかない。教会がそういうものであるかどうか、私は知らないが、「人間」のにおいというか、暮らしのにおいがない。
「情報量」を切り詰めるというのは、他のところでも徹底している、と言いたいのだが、一箇所だけ「情報」が溢れている。その「情報過多」の部分をどう見るかで、この映画の「見え方」がぜんぜん違ってくる。
問題のシーンはどこかというと。
イーサン・ホークの教会は、設立 150年(だったかな?)の祝いをする。その打ち合わせに金儲けをしたい人間がからんでくる。その男とイーサン・ホークのやりとり。イーサン・ホークはアマンダ・セイフライドを通して聞きかじった「自然保護運動」(あるいは環境破壊)のことを、自説として語る。上司(?)から、そのことをとがめられるくらい過剰に語る。
ここ、変でしょ?
自然保護に関心をもつ理由は、ただひとつ。アマンダ・セイフライドの存在。彼女には夫がいる。夫はカナダで逮捕されたのだが、アマンダ・セイフライドが妊娠しているとわかり、保釈された。その夫は地球の将来を心配して、こどもが誕生することには反対している。アマンダ・セイフライドは、夫を説得するよう、イーサン・ホークに依頼する、というのが「関係」のはじまりなんだけれど。
これは、どうしたって、嘘丸出しのスタート。
あからさまに言えば、イーサン・ホークとアマンダ・セイフライドは最初からできている。アマンダ・セイフライドはイーサン・ホークの子を妊娠した。「どうしよう」と相談に来たのだ。(イーサン・ホークが女たらしというか、どれくらい女にもてるかは、彼につきまとう女をもうひとり登場させることで暗示している。)
じゃまになったアマンダ・セイフライドの夫を、どう「処分」するか。過激な運動家にしてもう一度逮捕させるか。そのために「自爆スーツ」を登場させている。あるいは地球の将来を悲観して自殺させるか。つまり、自殺にみせかけて、射殺してしまうか。
どちらにしろ、イーサン・ホークを洗脳させてしまうくらいに、アマンダ・セイフライの夫が「自然保護」に夢中になっているということを「他人」に知らせる必要がある。その「証人としての他人」に、変な金儲けが狙いの男と上司が選ばれたわけだ。
あ、私の書いている「見方」は妄想?
そうかなあ。むしろ、映画全体が「妄想」なのだ、というのが私の見方。
映画はイーサン・ホークが日記を書くことにしたというところから始まるが、いい年をした男がなぜ突然「日記」なんか書こうと決意するのか。ありえない。「日記」なんて、よほど正直な人間でない限り、「他人が読む」ことを前提としている。だから、そこでは自分が考え出した、都合のいいことだけが書かれる。脳というのは、それでなくても、あらゆることを自分の都合のいいように変えてしまって「解釈」する。「事実」をねじまげてしまう。
で、この「妄想映画」が「妄想」に過ぎないという「種明かし」は、イーサン・ホークのアマンダ・セイフライドの「瞑想ごっこ」に「妄想シーン(非現実的シーン)」を重ねることでおこなわれる。な、なんと、横たわったイーサン・ホークの上にアマンダ・セイフライドが重なり、両手をあわせると、二人の体は宙に浮き、幻想の世界を飛んでゆくのだ。あきれかえってしまうではないか。
ラストシーンはどうなるか。
妄想のでたらめの収拾がつかなくなってしまっている。イーサン・ホークに「自爆テロ」まがいのことをさせようとしたり、キリストの苦難を体現させようとしたり、でも、アマンダ・セイフライドがイーサン・ホークを見つけ出し、キスをしてめでたしめでたし。その後、どうなったかを描かず、突然終わる。結論を観客に委ね化「芸術映画」を装う。
なんだ、これは。
イーサン・ホークがマンダ・セイフライドができていたというのも「妄想」で、こんなふうにハッピーエンドになりたいという「妄想日記」を映画にしたのかもしれない。
「解釈」はどうとでも言ってしまえる。
きちんと「意味」を通すなら(ストーリーを意味にするなら)、どこかの大衆食堂のようなところの「過剰なおしゃべり」と、ラストの直前の「瞑想ごっこ/幻想シーン」を整理しないと、「自然保護団体」から苦情が来るぞ。
私は「苦悩」を「高級」と定義する考え方が大嫌い。こういう「芸術みせかけ」映画も大嫌い。「金返せ、いや、金はくれてやるから時間を返せ」と叫びたい。何が「魂のゆくえ」だ。
(KBCシネマ2、2019年05月10日)
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