詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ポール・シュレイダー監督「魂のゆくえ」(★)

2019-05-10 19:55:40 | 映画
監督 ポール・シュレイダー 出演 イーサン・ホーク、アマンダ・セイフライド

 ポール・シュレイダーの名前にだまされて、見てしまった。イーサン・ホークはぜんぜん好きになれない役者。ますます嫌いになった。
 この映画の何がくだらないか。「情報量」を切り詰めて、「上品」を気取っているところだ。イーサン・ホークの暮らしている教会、その居住部分は実に簡素だ。必要最低限のものしかない。教会がそういうものであるかどうか、私は知らないが、「人間」のにおいというか、暮らしのにおいがない。
 「情報量」を切り詰めるというのは、他のところでも徹底している、と言いたいのだが、一箇所だけ「情報」が溢れている。その「情報過多」の部分をどう見るかで、この映画の「見え方」がぜんぜん違ってくる。
 問題のシーンはどこかというと。
 イーサン・ホークの教会は、設立 150年(だったかな?)の祝いをする。その打ち合わせに金儲けをしたい人間がからんでくる。その男とイーサン・ホークのやりとり。イーサン・ホークはアマンダ・セイフライドを通して聞きかじった「自然保護運動」(あるいは環境破壊)のことを、自説として語る。上司(?)から、そのことをとがめられるくらい過剰に語る。
 ここ、変でしょ?
 自然保護に関心をもつ理由は、ただひとつ。アマンダ・セイフライドの存在。彼女には夫がいる。夫はカナダで逮捕されたのだが、アマンダ・セイフライドが妊娠しているとわかり、保釈された。その夫は地球の将来を心配して、こどもが誕生することには反対している。アマンダ・セイフライドは、夫を説得するよう、イーサン・ホークに依頼する、というのが「関係」のはじまりなんだけれど。
 これは、どうしたって、嘘丸出しのスタート。
 あからさまに言えば、イーサン・ホークとアマンダ・セイフライドは最初からできている。アマンダ・セイフライドはイーサン・ホークの子を妊娠した。「どうしよう」と相談に来たのだ。(イーサン・ホークが女たらしというか、どれくらい女にもてるかは、彼につきまとう女をもうひとり登場させることで暗示している。)
 じゃまになったアマンダ・セイフライドの夫を、どう「処分」するか。過激な運動家にしてもう一度逮捕させるか。そのために「自爆スーツ」を登場させている。あるいは地球の将来を悲観して自殺させるか。つまり、自殺にみせかけて、射殺してしまうか。
 どちらにしろ、イーサン・ホークを洗脳させてしまうくらいに、アマンダ・セイフライの夫が「自然保護」に夢中になっているということを「他人」に知らせる必要がある。その「証人としての他人」に、変な金儲けが狙いの男と上司が選ばれたわけだ。
 あ、私の書いている「見方」は妄想?
 そうかなあ。むしろ、映画全体が「妄想」なのだ、というのが私の見方。
 映画はイーサン・ホークが日記を書くことにしたというところから始まるが、いい年をした男がなぜ突然「日記」なんか書こうと決意するのか。ありえない。「日記」なんて、よほど正直な人間でない限り、「他人が読む」ことを前提としている。だから、そこでは自分が考え出した、都合のいいことだけが書かれる。脳というのは、それでなくても、あらゆることを自分の都合のいいように変えてしまって「解釈」する。「事実」をねじまげてしまう。
 で、この「妄想映画」が「妄想」に過ぎないという「種明かし」は、イーサン・ホークのアマンダ・セイフライドの「瞑想ごっこ」に「妄想シーン(非現実的シーン)」を重ねることでおこなわれる。な、なんと、横たわったイーサン・ホークの上にアマンダ・セイフライドが重なり、両手をあわせると、二人の体は宙に浮き、幻想の世界を飛んでゆくのだ。あきれかえってしまうではないか。
 ラストシーンはどうなるか。
 妄想のでたらめの収拾がつかなくなってしまっている。イーサン・ホークに「自爆テロ」まがいのことをさせようとしたり、キリストの苦難を体現させようとしたり、でも、アマンダ・セイフライドがイーサン・ホークを見つけ出し、キスをしてめでたしめでたし。その後、どうなったかを描かず、突然終わる。結論を観客に委ね化「芸術映画」を装う。
 なんだ、これは。
 イーサン・ホークがマンダ・セイフライドができていたというのも「妄想」で、こんなふうにハッピーエンドになりたいという「妄想日記」を映画にしたのかもしれない。
 「解釈」はどうとでも言ってしまえる。
 きちんと「意味」を通すなら(ストーリーを意味にするなら)、どこかの大衆食堂のようなところの「過剰なおしゃべり」と、ラストの直前の「瞑想ごっこ/幻想シーン」を整理しないと、「自然保護団体」から苦情が来るぞ。
 私は「苦悩」を「高級」と定義する考え方が大嫌い。こういう「芸術みせかけ」映画も大嫌い。「金返せ、いや、金はくれてやるから時間を返せ」と叫びたい。何が「魂のゆくえ」だ。
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池澤夏樹のカヴァフィス(142)

2019-05-10 07:52:15 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
142 一九〇九、一〇、一一年の日々

 ひとりの少年がいる。極貧の水夫の息子だ。

息子である彼は金物屋の店員、着るものはみじめで
履いた靴はぼろぼろ、
手は錆と油にまみれていた。

何か特別なものが欲しくなる。
ちょっと値の張るネクタイ、
日曜日のためのネクタイ。
あるいは飾り窓で見て熱望する、
青いきれいなシャツを。
するは彼は、夜、店が閉じてから
半クラウン銀貨一、二枚で身を売る。

彼は自分に問う、壮麗な古代アレクサンドリアに
かくも美貌の、かくも完璧な少年はいたか、と。

 少年はつまり「美貌」のために身を売る。「美貌」であることを知らせ、認められるために。彼の欲望はエロティシズムとは少し違う。「羨望」をこそ身にまといたい。彼が「値の張るネクタイ」「青いきれいなシャツ」を熱望したように、他人から「値の張る」「きれいな」少年と見られたい。そして熱望されたい。
 しかし少年、は知っているだろうか。彼が引き立つのは、値の張るネクタイや青いシャツのためではない。むしろ、極貧の暮らし、惨めな服装。手(肉体)を汚す「錆と油」のためだ。汚しても汚しても、それをはじき返す美しさ。それは、美を見抜く少年自身の本能のなまなましさと言い換えることができる。
 詩人が書きたいのは「対比」である。汚しても傷つかない欲望の美しさである。

みすぼらしい金物屋でこきつかわれ、
いじめられ、安っぽい放蕩のうちに
その美貌はすりきれる。

 詩は、そう閉じられるが、ここでも「美貌」は、それを否定するものによって輝く。

 若き日の美貌が失われるというのはカヴァフィス好みのテーマのひとつだった。

 池澤は、そう註釈している。 



カヴァフィス全詩
クリエーター情報なし
書肆山田


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