詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池澤夏樹のカヴァフィス(137)

2019-05-05 09:35:23 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
137 素人画家である同い年の友人によって描かれた二十三歳の若者の肖像

昨日の午後、彼はその絵を仕上げた。
今はその細部を丹念に見ている。
描いたのはグレーのジャケットを着て
ボタンは外した姿、
ベストもネクタイもなし、
バラ色のシャツの前をはだけて、
美しい胸元と首が見えている。
額の右側はほとんど髪に隠れている、

 二行目の「見ている」と七行目の「見えている」。ギリシャ語ではどういう言い方になるのかわからないが、この訳語の変化は絶妙だ。
 「見えている」は立場を変えれば「見せている」である。「見せている」のを「見ている」。それを「見えている」というとき、彼は「見せている」若者の「こころ」を「見ている」。きっと若者には、彼に「見せている」ことが「見えている(わかっている)」。見えていなければ、見せている意味がない。
 八行目の「隠れている」が、補色のように「視線」の絡み合いに強い輪郭を与える。
 この視線のドラマの渦中では、他の「細部」はほとんど意味を持たない。ボタンは「外した」、シャツを「はだけ」ているという動詞も、主役ではありえない。
 さらにおもしろいのは、いま彼が見ているのは「絵」であり、それを描いたのは彼なのだということ。
 彼が若者を、絵の中で、そういうふうに育てている。絵の中で、視線のドラマは燃え上がる。そして、それはカヴァフィスのことばのなかで、もう一度燃え上がる。

望むとおり完璧に捉えられたと思う、
あの眼、あの唇を描いて、
特別な種類のエロティックな快楽を約束する
彼の口、あの唇を描いて、
官能の色調を映すことに。

 これは、もう付録のようなものだ。消えない余韻と言いなおした方がいいか。
 池澤の註釈は、

 美しい若者の肖像というテーマはカヴァフィスに多い。

 とそっけない。まあ、いいか。「見えている」の一語が、この詩を強烈にしている。







カヴァフィス全詩
クリエーター情報なし
書肆山田


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