19 小倉金栄堂
平積みの新刊書の横を通った。つややかな色であった。踊り場で出版案内を呼んだ。細かい活字が目の奥で微熱になった。二階でミンコフスキーについてたずねた。眼鏡の店員がノートをめくって二、三教えてくれた。タイトルや内容は忘れてしまった。機敏さだけがもちうる温かさが印象に残っている。人間が人間に伝えられるものは、ととのったことばの形では明らかにできないものである。これは本屋で考えるのにふさわしい内容とは言えない。書棚の陰をまわって文庫本の目録をめくった……。
三階でペーパーバックをめくり思い出せない単語に出会ったとき、私は私の行為を反芻した。記憶の流れを阻んでいるものを取り除くために。
状態ではなく、存在そのもののような手応えを持った心理をさすことば--私が思い出したいのはそれだ。しかし私は知っている。平積みの新刊書から順を追って反復しても、決して見出せないことを。記憶をつまずかせるものがほかにあることを。
順を追って本屋の中での行為をたどり、わけありげな註釈を加えてみたのは、わだかまりから遠ざかるための方法に過ぎなかったのかもしれない。しかし、遠ざかろうとするものはいつだって、引き寄せられてしまうしかない。より深い力で引き寄せられるためだけに、私たちは遠ざかるという方法をとるのだろうか。
記憶を折り曲げ、もつれさせているのは自動扉のわきにたっていた女である。女は男を待っている。本屋の中で待たないのは、男が本屋に入るような人間ではないからだ。しかし確実に前は通る。たぶん、いつも同じ道順を生きる男なのだろう--想像にはいつも自分の行為が逆さになったりねじれたりしながら統一を与えてしまう。などと考えながら、私は電車どおりの向こう側から女を見ていたのだった。信号が変わった。動き始めた人にうながされるように舗道をわたり、女のたっぷりとしたコートの色を見つめ、本屋に入った。
「本屋に入り込み、あれこれ活字を眺めまわすのは、何もすることがない人間のすることである。」どこかに沈んでいたことばが、自動扉の開く音をぬって、鼓膜の表面に浮きでてきて波紋のように広がる。少し揺れながら、そんな人間の一人であると自覚するしかなかった。というのも、私が最初にしたのは、新刊のなかに男の肖像を探すことだったからである。ついで、心理学書に待つという行為に耐えるこころの力を探そうとした。カポーティのなかに、男女のいざこざのきっかけを探そうともした。そして突然、ありふれた、しかしそのために日本語ではあまり口にしない単語にぶつかったのだった。
何とルビを振るべきか。私は人を待つようには答えがあらわれてくるのを待つことができない。待つということは気持ちが悪い。金栄堂の前の女が気にかかるのも、その気持ち悪さをさらけだされたように感じるからだ。
私は何かがあらわれるのを待てない。見つかるあてがなくても探しに歩きださずにはいられない。そうして強い抵抗にぶつかって神経がぽきりと折れることを願っている。動き回ること、探し回ること、それは私にとって謎を問いにととのえることと同じ意味なのかもしれない。
「女のこころに謎などありません。それが謎なのかもしれません。」さっきからそこにいたというかのように、書棚の細い通路を通って、すばやくあらわれた女は、私の指さした単語を訳すかわりにそういった。相槌を打つでもなく、再び同じ単語を指さすと、女は本を閉じてしまった。「けさ、私は、ヒゲを剃るとき男は両足をひろげて立つと気づいて笑いだしそうになりました。本を読むと、そうしたポーズというか、型がいくつもあらわれ、私を驚かします。男はいつまでたっても変声期の少年のようです。女という概念に発情し、目の前のものに目もくれず、その奥にあるもの、ほんとうはそんなものなどないのですが、男たちが勝手に概念と名づけたものを追いかけていきます。そうして遠ざかっていく男に女が耐えられる理由はひとつしかありません。男のこわばった感性の運動を見るとほほえましい気がするからです。たしかに感性といいました。私は精神とか知性というものを信じません。つつみこむ感性と入り込もうとする感性があるだけです。つつみこむためにみずから形をかえる感性と、分け入るために自分以外のものを変形させて平気でいる感性、そのふたつがあるだけです。」
本と女には似たところがある。気ままに開き、気ままに加筆する。すると私がねじれ始める。不定形の鏡の世界へ連れて行かれる。ぼんやりと浮かびあがってくる像は確かに私なのだろうが、納得できない。自分の思うままの像に対するこだわりがあるからだと女はいうだろうか。
つったたったままの私に、女は新しい本を開いてみせる。「現代物理学は物体から手応えをとりはらった。そのとたん宇宙の似姿ができた。極大を考えることと極小を考えることに夢中で、自分にあった大きさ、手応えの世界を置き去りにした。」
ことばにふれるたびに、私がずらされていく。あるいはひきのばされていく。しかし不快ではない。むしろ、そのあいまいな感覚がひとつの手応えになってくる。私のもとめていたのは、ひきのばされ空虚になっていく構造をみたす力だったのか。あまい分裂をかかえながら一階から三階までを往復すれば、女はやがて帰ってしまう。
天井の灯がふたつみっつ増えて、私の影が一瞬まばたき、再びひとつになる時間になっていた。
(アルメ240 、1986年03月25日)
平積みの新刊書の横を通った。つややかな色であった。踊り場で出版案内を呼んだ。細かい活字が目の奥で微熱になった。二階でミンコフスキーについてたずねた。眼鏡の店員がノートをめくって二、三教えてくれた。タイトルや内容は忘れてしまった。機敏さだけがもちうる温かさが印象に残っている。人間が人間に伝えられるものは、ととのったことばの形では明らかにできないものである。これは本屋で考えるのにふさわしい内容とは言えない。書棚の陰をまわって文庫本の目録をめくった……。
三階でペーパーバックをめくり思い出せない単語に出会ったとき、私は私の行為を反芻した。記憶の流れを阻んでいるものを取り除くために。
状態ではなく、存在そのもののような手応えを持った心理をさすことば--私が思い出したいのはそれだ。しかし私は知っている。平積みの新刊書から順を追って反復しても、決して見出せないことを。記憶をつまずかせるものがほかにあることを。
順を追って本屋の中での行為をたどり、わけありげな註釈を加えてみたのは、わだかまりから遠ざかるための方法に過ぎなかったのかもしれない。しかし、遠ざかろうとするものはいつだって、引き寄せられてしまうしかない。より深い力で引き寄せられるためだけに、私たちは遠ざかるという方法をとるのだろうか。
記憶を折り曲げ、もつれさせているのは自動扉のわきにたっていた女である。女は男を待っている。本屋の中で待たないのは、男が本屋に入るような人間ではないからだ。しかし確実に前は通る。たぶん、いつも同じ道順を生きる男なのだろう--想像にはいつも自分の行為が逆さになったりねじれたりしながら統一を与えてしまう。などと考えながら、私は電車どおりの向こう側から女を見ていたのだった。信号が変わった。動き始めた人にうながされるように舗道をわたり、女のたっぷりとしたコートの色を見つめ、本屋に入った。
「本屋に入り込み、あれこれ活字を眺めまわすのは、何もすることがない人間のすることである。」どこかに沈んでいたことばが、自動扉の開く音をぬって、鼓膜の表面に浮きでてきて波紋のように広がる。少し揺れながら、そんな人間の一人であると自覚するしかなかった。というのも、私が最初にしたのは、新刊のなかに男の肖像を探すことだったからである。ついで、心理学書に待つという行為に耐えるこころの力を探そうとした。カポーティのなかに、男女のいざこざのきっかけを探そうともした。そして突然、ありふれた、しかしそのために日本語ではあまり口にしない単語にぶつかったのだった。
何とルビを振るべきか。私は人を待つようには答えがあらわれてくるのを待つことができない。待つということは気持ちが悪い。金栄堂の前の女が気にかかるのも、その気持ち悪さをさらけだされたように感じるからだ。
私は何かがあらわれるのを待てない。見つかるあてがなくても探しに歩きださずにはいられない。そうして強い抵抗にぶつかって神経がぽきりと折れることを願っている。動き回ること、探し回ること、それは私にとって謎を問いにととのえることと同じ意味なのかもしれない。
「女のこころに謎などありません。それが謎なのかもしれません。」さっきからそこにいたというかのように、書棚の細い通路を通って、すばやくあらわれた女は、私の指さした単語を訳すかわりにそういった。相槌を打つでもなく、再び同じ単語を指さすと、女は本を閉じてしまった。「けさ、私は、ヒゲを剃るとき男は両足をひろげて立つと気づいて笑いだしそうになりました。本を読むと、そうしたポーズというか、型がいくつもあらわれ、私を驚かします。男はいつまでたっても変声期の少年のようです。女という概念に発情し、目の前のものに目もくれず、その奥にあるもの、ほんとうはそんなものなどないのですが、男たちが勝手に概念と名づけたものを追いかけていきます。そうして遠ざかっていく男に女が耐えられる理由はひとつしかありません。男のこわばった感性の運動を見るとほほえましい気がするからです。たしかに感性といいました。私は精神とか知性というものを信じません。つつみこむ感性と入り込もうとする感性があるだけです。つつみこむためにみずから形をかえる感性と、分け入るために自分以外のものを変形させて平気でいる感性、そのふたつがあるだけです。」
本と女には似たところがある。気ままに開き、気ままに加筆する。すると私がねじれ始める。不定形の鏡の世界へ連れて行かれる。ぼんやりと浮かびあがってくる像は確かに私なのだろうが、納得できない。自分の思うままの像に対するこだわりがあるからだと女はいうだろうか。
つったたったままの私に、女は新しい本を開いてみせる。「現代物理学は物体から手応えをとりはらった。そのとたん宇宙の似姿ができた。極大を考えることと極小を考えることに夢中で、自分にあった大きさ、手応えの世界を置き去りにした。」
ことばにふれるたびに、私がずらされていく。あるいはひきのばされていく。しかし不快ではない。むしろ、そのあいまいな感覚がひとつの手応えになってくる。私のもとめていたのは、ひきのばされ空虚になっていく構造をみたす力だったのか。あまい分裂をかかえながら一階から三階までを往復すれば、女はやがて帰ってしまう。
天井の灯がふたつみっつ増えて、私の影が一瞬まばたき、再びひとつになる時間になっていた。
(アルメ240 、1986年03月25日)