詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「表現の自由」について、思うこと。

2019-05-16 23:17:15 | 自民党憲法改正草案を読む
「表現の自由」について、思うこと。
             自民党憲法改正草案を読む/番外264(情報の読み方)

維新の会丸山が、北方四島の問題について「戦争で取り返すしかない」というような趣旨の発言をした。野党などから「辞職勧告決議案」を話が出ている。
これに対して、丸山が、丸山にも「表現の自由」があると主張している。
この問題については、ネットでいろいろな意見が出ているが、私にはどうしても納得できないことがある。

私は憲法学者でもないし、憲法も特に勉強したこともない。
中学で習った記憶しか残っていない。
で、その記憶を元に書くのだけれど、多くのひとが言う( 丸山も言っている) 、「表現の自由」の定義がどうしても納得できない。
憲法が書いているのは、「個人」そのものの権利ではなく、個人と国の間で「いざこざ」があったとき、どうするかということだけだと思う。
国民は国に対して何を言ってもいい。「安倍を倒せ」と言ってもいい。けれど、国は「安倍を倒せ」と言った人間の自由を侵してはならない。国は「安倍を倒せ」と言った人間の「言論の自由」を守らなければならない。
21条に先立つ19条。「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」。
「思想」とか「良心」というのは、黙っている限りだれにもわからない。
それが「わかる」のは「表現」を通して。
それが「わかったとき」、そしてそれが国にとって不利益だと判断しても( 国を否定するものであっても) 、国はそれを取り締まってはいけない。
私の読解力では、それ以上のことは書いてあるとは思えない。

個人が個人に対して何か言う。「おまえはばかだ」とか「おまえを殺してやる」というのは「表現の自由」の問題ではない。
それは、「倫理」の問題。「表現の自由 (言論の自由) 」ではなく「表現の倫理 (言論の倫理) 」の問題だ。
もちろん「犯罪」のことも考慮しなければいけないけれど、日常的に問題になるのは「法律」でなく「倫理」だろう。
暮らしの中では「倫理」というものがあり、それに反するからといって、それはすぐに「犯罪」にはならないが、「犯罪」以前の「表現」の問題は、「倫理」の問題であり、そこに「自由」とか「権利」を持ち込んでみてもはじまらない。

憲法は、「倫理」ではない。
個人と国、あるいは個人と公務員の力関係について一定の決まりを決め、個人を守っているのが憲法なのに、その憲法のなかの「文言」を、個人そのものに対する決まりのように受け止めるひとが多すぎると思う。
そして、この国を除外して、個人に対する「決めごと」という意識の延長線上に、「憲法は国民の権利をしばるものでなくてはならない。国民は憲法を守り、国にしたがわなければならない」という安倍の改憲案( あるいは自民党の2012年の改憲草案) がある。
そしてこれは、ことばを変えていえば、安倍の理想とする「国家倫理」なのである。
家長を頂点とする「家族倫理」を国家に転用したものである。
家長(父親)の言うことを、家族は聞くべきだ、それによって「道徳」が守られる、という考え方だ。

丸山は国会議員。いわば、「国」の側の人間。
その国会議員が、一般国民に対して「戦争で北方四島を取り返そう」と言って何が悪い。一般国民は、国会議員( 国) の意見に従え」という意識が丸山にあるのだと思う。
そういう意味では、丸山の発言は、自民党の2012年の改憲草案を先取りしている。
自民党の2012年の改憲草案を先取りするものだからこそ、安倍( 自民党) は丸山を批判できない。
丸山を批判することは、そのまま自民党の2012年の改憲草案を批判することになるからだ。
国は国民を支配する、という「理想」を否定することになるからだ。




















#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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池澤夏樹のカヴァフィス(148)

2019-05-16 10:25:57 | 池澤夏樹「カヴァフィス全詩」
148 玄関の鏡

 裕福な家の、玄関での短い描写。

一人の美しい少年が(洋服屋の店員で、
日曜日にはアマチュア運動家)
包みを手にそこに立った。家のものが受けとり
預り証を取りに中へ入った。少年は
一人でそこで待ちながら
鏡のところへ行き、映った自分を見て
ネクタイをなおした。五分たって
預り証は手渡され、彼は帰っていった。

 この少年の姿を映して、古い鏡は「つかの間、完璧な美を映して/それを誇らしく思った。」という行が最終連に出てくる。鏡が「主役」になって独白する。
 池澤は、

数分間の出来事を扱うという点で映画的であり、視点を変えて鏡の側の思いを書くのもおもしろい。

 と書いている。
 少年が自分の姿を確認し、整える描写が簡潔で美しい。「五分たって」という時間の経過を具体的に書いているのも楽しい。ほんとうに五分か。違うかもしれないけれど(池澤の書いているように数分かもしれないけれど)、「五分」ときっちり区切っているのがおもしろい。それはちょうど鏡が少年の姿を鏡の「枠」のなかにきっちりとおさめる感じに似ている。あいまいではだめなのだ。
 このきっちりした「枠」というか、「枠」のきっちりした感じを「預り証」ということばが補足している。できごとはあいまいなようで、実は明確なのだ。明確なものを頼りに動いている。

日曜日にはアマチュア運動家

 このひとことも効果的だ。「政治運動家」ではなく、いわゆる「アスリート」なのだろう。何をしているか書いていない。しかし、余分な贅肉のついていない、しなやかな動きが服をとおしても感じられる。そこにも「かっちりした枠」がある。
 




 



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