詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

言論の自由を「憲法」と「法律」から考える。

2019-05-22 08:14:26 | 自民党憲法改正草案を読む
言論の自由を「憲法」と「法律」から考える。
             自民党憲法改正草案を読む/番外269(情報の読み方)

 丸山の「戦争発言」をめぐって、鎌田慧が書いた文章がフェイスブックに載っている。「好戦と反軍」というタイトル。「本音のコラム」という、ある新聞のコーナー。どの新聞か、私は知らないが、「2019・5・21」と日付がある。
 丸山の発言をめぐっては「辞職勧告決議案」が出された。それに対して鎌田は、丸山の発言には与しないが、

刑事事件ならいざしらず、憲法違反の暴論だとしても(現内閣が率先実行している)、言論によって身分を剥奪していいかどうか。

 と書いた上で、斎藤隆夫が1940年3月、日中戦争に反対する演説をしたために衆議院で議席除名処分を受けた例を引き、こう結んでいる。

 キミの暴論は絶対に許さない。しかしキミが発言する場は保障しよう。でなければ、斎藤隆夫の演説を弾圧したファッショと同じ轍を踏むことになる。

 私は、単純に「言論の自由」という概念から出発して丸山の発言、その処分を語るのはおかしいと思う。
 憲法、法律とは何かから考えたい。
 憲法も法律も「いざこざ」が起きたときに、それを解決する「指針」である。そして、その「基本理念」は「弱者の利益を守る」ということにあると思う。
 身近なことから考えよう。「法律」から考えよう。
 交差点がある。青信号だ。人も車も交差点へ進入できる。人も車も進み始める。一台の車が直進ではなく、右折した。その結果、ひととぶつかり、人がけがをした。「いざこざ」(問題)が起きた。このとき、道交法でどういう規定文書になっているか知らないが、右折してぶつかった車に責任がある。信号を守って進入し、右折しているが、人が横断歩道を渡っていないか安全を確認しなかったからだ。人間と車がぶつかれば、人間がけがをする。そのけがをした方を助けるのが法律だ。けがをした方を助けるために「青信号で交差点に進入しても、右折(左折)のとき、横断歩道に人がいれば、人の歩行の方が優先する」というような規定が生まれる。法律は弱者に味方する。弱者が生き延びるために、強者の行動に制限を与えるというのが法律の狙いだと思う。
 鎌田の本をコピーして、多くの人に配る。「鎌田の本には、私と同じ意見が書いてある。ぜひ読んでほしい」。鎌田が、コピーを配るのではなく、本を買って読んで欲しいと訴える。「いざこざ」が起きる。この場合、コピーを配った人は著作権法に違反する。コピーを配ることで、鎌田が本を売って稼げるはずの金を奪ったことになるからだ。コピーは簡単にできる。一冊の本を書くことは簡単にはできない。コピーした方が「強者(簡単に行為ができる)」、本を書いた方が「弱者(簡単にはできない)」。苦労している方(弱者)に利益があるように配慮しているのが著作権法である。
 法律は、実際の「いざこざ」の現場を確認し、どう適用すれば「弱者」を救い出せるかを決めた「指針」になる。
 憲法も同じである。憲法は、ふつうの法律とは違って、人と人の「いざこざ」には介入しない。人(国民)と国(権力)との間に「いざこざ」が起きたときにどうするかを書いている。国(権力)と国民の関係である。
 鎌田が例に引いている斎藤隆夫。これがもし現行憲法で起きたら、現在の国会で起きたら、どうなるか。
 鎌田は国の方針に反対した。そのことを理由に除名処分を受けた。
 鎌田は「弱者」であり、国は「強者」である。「強者」は「弱者」の「言論の自由」を侵してはならない。「言論の自由」を保障しなければならない。国を批判する意見を、国を批判しているからという理由で弾圧してはいけない、というのが憲法の言っていることである。
 斎藤が演説が国会ではなく、街頭でおこなわれたとしても同じである。国は、斎藤を逮捕、拘束する「力」をもっている。「治安維持法」をよりどころに、斎藤を弾圧できる。「いざこざ」がおきる。こういうことをしてはいけないというのが現行憲法の言う「言論の自由の保障」である。憲法の「言論の自由」は国と国民のあいだの「いざこざ」を前提にして、憲法は「国」ではなく「国民」を守ると言っているのだ。
 問題の丸山の発言が、どういう形、どういう「場」でおこなわれたか。「いざこざ」はどういうものであったか。それを「除外」して「言論の自由」という「概念」を一人歩きさせてはいけない。
 丸山は衆議院を代表する国会議員のひとりとして北方四島の「ビザなし訪問」に参加した。島の出身者も参加していた。その参加者に対して、丸山が「ロシアと戦争して島を取り返すしか方法がないのではないか」というような質問をした。提案をした。これに対して質問された参加者が「戦争はよくない」と答えた。意見が対立した。つまり「いざこざ」が起きた。
 このとき考えなければならないことはふたつある。
 ひとつは「いざこざ」が起きたときのふたりの「関係」である。「国会議員」は「一般市民」と比べると強者である。一般市民が持たない「権力」を持っている。「権力」を保障されている。たとえば、国会内でどんな発言をしても、それによって逮捕されないというような。一般市民は国会で発言するという権利を持っていない。「発言力」において、丸山が「強者」、参加者は「弱者」である。こんな提案をされたら、国民は困ってしまう。参加者は毅然として「戦争はよくない」と答えているが、もしかすると、そう答えることで丸山の心象を害し、次の北方四島訪問の機会には参加者から除外されるかもしれない。国会議員なのだから、訪問団の参加者を何人にするか、人選をどうするかを最終決定する「権利」を持っているかもしれない。どうしても墓参したいと思っているひとは、自分の意見を押し殺し、丸山に同調しないといけないかもしれないと考えるかもしれない。そのとき、参加者の意識の中に「強者/弱者」の関係がくっきりと浮かび上がる。参加者か「自分は弱者の立場、国から守ってもらえないと島を訪問できない人間なのに、国会議員からこんな難題をふっかけられた」と訴えなかったからといって、そこに「強者/弱者」の関係が存在しないとは言えない。
 もうひとつは国会議員が守るべきこと。国会議員には憲法遵守の義務がある。憲法では戦争を放棄している。その禁止している行為を、丸山が参加者に持ちかけ、拒否され、「いざこざ」が起きた。
 丸山の「違憲行為」が出発点なのに、その行為を擁護するために「言論の自由」という概念、「憲法」の理念をもちだしてきても、何の意味もない。憲法の概念を適用し、憲法が守るべきものは、憲法を守っている人間であり、憲法に違反した人間ではない。
 もし、この「いざこざ」が「国会」という場で、国、あるいは他の党の議員との間で起きたのだとしたら、問題は大きく違ってくる。国会で「議論」が起きたのだとしたら、これは鎌田の取り上げている斎藤隆夫の例と「合致」する。丸山の「言論の自由」は守られるべきである。
 ここから見えてくる問題は、ひとつ。
 なぜ丸山は、「北方四島を取り戻すためには戦争をするべきだ」という理念を国会の場で展開しないか、ということだ。なぜ、島を追われた国民を相手に、そういう議論をふっかけ「いざこざ」を起こしたか。その「狙い」である。
 丸山の発言を「言論の自由」と結びつけて考えているひとは、ぜひ、この問題を考えてもらいたい。そして、国会議員の中に丸山の「言論の自由」を支持する人がいるなら、丸山の意志を受け継いで、国会でぜひ議論を展開してもらいたい。
 安倍は、どう答えるか。
 そのとき、丸山の発言の底に隠れているものがはっきりわかる。
 「不法に占拠されている北方四島」を取り戻すことは「侵略ではなく、防衛である」という論理が成り立つだろう。丸山は「戦争」ということばをつかったが、巧妙な人間なら「自衛」である、と言い張るだろう。自国の領土を守るのであって「奪還」ではない、と言い張るだろう。
 「ことば」でなら、どういうことも言えるのだ。言いなおせるのだ。
 しかし、実際に「いざこざ」が始まってしまえば、それは「概念」の問題ではなくなる。「現実」の行動になる。「自衛」である、「防衛」であると言ってみても、そこにおこなわれるのは戦争(武力衝突)である。そしてそのとき実際にそこで戦うのは、「戦争」を決定した「強者(国会議員)」ではなく、招集された国民である。いや、一般国民は戦わない。自衛隊が戦うと「強者」は言うだろう。自衛隊は、その上部権力に比べたら「弱者」である。

 どんなことばも「現実」にひきもどして、それがどう動いているかを見ないといけない。
 鎌田慧の「肩書」は「ルポライター」である。ルポライターとは「現実」をていねいに追いかけて、現実の中から、それまで人が見落としていたものに「ことば」を与える(表現に高める)という仕事だと私は思っているが、そういう仕事をしている人が、「弱者」である北方四島を追われた人のこころに寄り添う前に、「言論の自由という美名」からことばを動かしていることに、私はとても疑問を感じた。
 鎌田がまず「保障」すべきなのは、「戦争で島を取り返そう」と呼びかけられた参加者の「言論の自由」である。私の考えでは、この人の「権利」を守るためには鎌田の議員としての資格を剥奪する以外にない。そしそうしないと、それこそこういうことが「前例」になる。国会議員は、いつ、どこで、誰に対して、どのようなことを言ってもいい。国会議員の「言論の自由」は「完全保障」されることになる。そして、いま、その「特権的国会議員」の構成を見ると、自民党が圧倒的に多い。もし自民党議員が全員、憲法を順守することをやめて「北方四島を戦争で取り戻そう」と言ったら、どうなるのか。「戦争はだめだ」という国民の「少数意見」は簡単に踏みにじられるだろう。いま、安倍がやろうとしているのは、そういう「多数意見」による「少数意見」の弾圧であることを踏まえて、ことばがどう動いているか、それを見つめなおさないといけないと思う。



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