これから天皇に起きること(トランプ報道を読む4)
自民党憲法改正草案を読む/番外271(情報の読み方)
平成の天皇の強制生前退位、新天皇の即位、トランプの来日は個別のことがらではなく、ひとつづきの「政治」である。安倍の天皇の政治利用であり、そこには自民党が狙っている憲法改正(2012年の改憲草案)が「先取り」するかたちで実施されている。
これを、「ことば」からもう一度書いておく。
平成の天皇が退位するとき、安倍は、「退位礼正殿の儀 国民代表の辞」として、こう述べた。
平成の三十年、『内平らかに外成る』との思いの下、私たちは天皇陛下と共に歩みを進めてまいりました。この間、天皇陛下は、国の安寧と国民の幸せを願われ、一つ一つの御公務を、心を込めてお務めになり、日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たしてこられました。
「日本国及び日本国民統合の象徴」ということばをつかっている。このことばは、現行憲法のものではない。自民党改憲草案のなかに出てくることばである。現行憲法は「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって」と書いている。
日本国憲法のことばをつかって語るならば、「日本国の象徴として日本国民統合の象徴として」と言うべきだろう。この「言い回し」がまだるっこしい(象徴が二回出てくる)からという理由で「日本国及び日本国民統合の象徴」と言い換えたのだと安倍は主張するかもしれない。しかし、歴史の節目の大事な「ことば」である。そういう「文書(記録)」を端折るのは、納得ができない。
ここには、何らかの意図があると読むべきだ。
この「日本国及び日本国民統合の象徴」は新天皇が即位するとき、そして新天皇への安倍のことばのなかにも繰り返される。4月30日、5月1日、二日間で3回繰り返し語られた。繰り返されることで「歴史のことば」になってしまった。自民党改憲草案のことばが「現実」になったのだ。
なぜ、安倍は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって」ということばをつかわなかったか。「日本国及び日本国民統合の象徴」と言ったか。
トランプの来日と結びつけると、見えてくるものがある。トランプは「令和」最初の「国賓」として来日した。「国賓」を迎えるのは天皇である。このとき天皇は、トランプから見れば「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」というよりも、「元首」のイメージの方が強いだろう。「象徴」という「肩書(?)」は日本以外にはないだろう。トランプは、天皇を「元首」と理解して、天皇と対面しただろう。
「元首」ということばは現行憲法にはなく、そのためぼんやりした「イメージ」としてなんとなく国民に受け入れられている。天皇が国賓を迎えるときは「元首」の役割を果たしているかもしれないという具合に。少なくとも、国賓を迎えるとき「国民統合の象徴」とは考えにくいだろう。
この「ぼんやりした元首イメージ」は、しかし、自民党の改憲草案では明確に「ことば」として書かれている。改憲草案は、こう書いてある。
天皇は、日本国の元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。
「天皇は、日本国の元首であり」という「定義」を利用して、安倍は天皇とトランプを引き合わせたのだ。平成最初の国賓はジンバブエの大統領だった。このことについて、サンケイ新聞は、こう書いている。
どの国の元首を国賓とするかは数年前から政府内で綿密に協議して決めるのが通例だ。平成初の国賓は元年10月、ジンバブエのムガベ大統領(当時)だった。「数年前から調整を進めていたため、昭和天皇の崩御は想定しておらず、たまたまジンバブエになった」(政府関係者)という。
安倍は、数年間かけて綿密に協議する国賓を、強引に決定し、天皇に引き合わせた。「元首」であることを、はやばやと「国外」「国内」に示そうとしたのである。
退位、即位のときのことばでは引用できなかった「天皇は、日本国の元首であり」ということばを「現実」(事実)として、先に実行して見せた。先取りした。
ジンバブエに対して失礼な言い方になるが、今回もジンバブエの大統領が「初の国賓」だったら、トランプ来日のような「大騒ぎ」になったかどうか。たぶん、ならない。安倍も、ゴルフをしたり、大相撲を一緒に観戦したりしないだろう。
安倍は「元首」としての天皇にトランプを引き合わせる形で、常にトランプと一緒に行動し、安倍自身の存在をアピールしたのである。参院選が控えているからだ。
でも、それだけではない、と私は読んでいる。
なぜ、安倍は天皇を「元首」として印象づけようとしているのか。「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」という現行憲法の定義を隠そうとしているのか。
平成の天皇の「象徴」の「定義」と比較してみると、見えてくるものがある。平成の天皇は「日本国民統合の象徴」であることを実践的に示した。被災地に出向き、被災者のそばに寄り添い、ひざまずき、視線を同じ高さにして、みんなの安全を祈った。「元首」のように、高みから国民を見下ろし、統合(統治)するのではなく、国民と同じ場所で、視線をあわせて祈った。平成の天皇にとって「日本国民統合の象徴」であることは、「元首」であることを否定する行為だったのだ。「元首の否定」という意味(思想)が含まれていたのだ。
安倍は、この「元首の否定としての象徴」をなんとしても取り除きたいのだ。「国民視線の天皇」を排除したいのだ。「国民とは別の次元の存在としての天皇」に仕立てないのだ。
トランプを「国賓」として招くことは、「国民とは別の次元の存在としての天皇」を印象づけるのに役立つ。トランプが「国賓」としてどれだけ「桁外れ」であるかを証明するために、大相撲の観戦では升席に椅子まで持ち込んだ。特別待遇のトランプと会う天皇は、これもまた特別待遇の存在である。その特別待遇の存在と、安倍は同列の人間であると言いたいのだ。
自民党の改憲草案では「天皇」は「元首」であるが、現行憲法と同じように「国政に関する権能は有しない」と定義されている。「天皇は元首」は「名目」であって、実際は、内閣総理大臣が「元首」にとってかわる。天皇と同時に行動し、天皇は「象徴元首」であり、実際の「元首」は安倍であることをアピールする。
こういう天皇の「政治利用」が、これから増えてくる。
その第一弾が秋に行われる「即位パレード」。パレードには安倍が加わる。「天皇=象徴元首」を「現実の元首=安倍」がコントロールしているという印象を与えるためである。コースも、自民党本部前を通る。
さらに、こういうことも起きる。
たぶん、こちらの方が影響が大きい。目立たないけれど、影響力として大きい。
天皇が国民の間に入り込むということが少なくなる。平成の天皇が実践した「国民目線で、国民のなかに踏み込み、そこで祈る、あるいは交流する」という「象徴の実践」が少なくなる。災害が起きたとき、被災地に出向き、被災者のそばに寄り添い、ひざまずき、安全を祈るということが少なくなると思う。(災害が起きないことを祈るが。)天皇は「国民統合の象徴」であるまえに、「元首」であり、「国家」の象徴だ。元首は国民のそばで「ひざまずく=同等になる」ということがあってはならない、というような「理由」を安倍は用意するだろう。(安倍が被災地でひざまずくことがあっても、それは平成の天皇の姿をなぞっているのであって、本心ではない。)
平成の天皇は、平成の皇后と行動をともにしたが、新天皇の場合、同じことができるかどうか。たとえば皇后の「病気」を理由に、安倍が「待った」をかけることが増えるのではないか。天皇と皇后は、行動をともにするのが基本であるというような「理由」をつくり、国民と天皇の接触を減らすための「口実」に利用するに違いないと思う。
平成の天皇と皇后は、日本各地を訪問した。離島にも足を運んでいる。こういうこともきっと減らされる。「元首」が足を運ぶのではなく、必要ならば国民が「元首」のいるところまでくればいい、という主張になると思う。
こういうことを、スムーズに遂行するために、安倍は「象徴」を定義するのに、2012年の自民党改憲草案のなかにある「日本国及び日本国民統合の象徴」ということばをつかったのだ。「元首」のイメージをそっとしのびこませたのだ。
大きな変更は誰もが気づく。しかし小さな変更は気づきにくい。小さな変更を積み重ね、大きな変更にしてしまう。そういうことが起きているのだ。
#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位
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